3.入会試験
雪の気配が薄くなるにつれて、辺居の通路は「人の通らない場所」の匂いを強めていった。油と煤と、冷えた鉄の匂い。秘傘の光が届く範囲だけ、粉雪が金属の粉みたいにきらきら浮いて見える。
足立がふいに足を止めた。
光の輪の先に、巨大な箱が黒く沈んでいる。工場だ。外壁は煤でくすみ、窓はほとんど塞がれている。入口に「封鎖」の札も、遮断ロープも、見張りも――何もない。
入りたい放題じゃないか。
大抵は事故があった工場には黄色いテープだの、警備だの、何かしら人除けの印があるものだ。それらが見当たらないというのは、つまり誰も立ち入らない場所、近寄らない場所というのが理由か、あるいは〝誰がどうなろうと、知ったこっちゃない〟が故であるからか。真相は定かではないけれど、たぶん、そうなのだろう。
「まずは外周を見ようか。異常がないか確認して――」
足立がそう言って、さっさと歩き出す。透と皐月は、自然とその背中を追った。皐月の手には銀色の杖が握られている。どうやら彼女の礼装であるらしい。三本目の足のように地面を突きながら、透の横を歩いている。
工場の外壁沿いを回る。足元には煤が積もり、雪と混ざって黒い泥みたいになっている。工場は沈黙しているのに、金属の固まりが発する見えない圧力が、透の足を重くした。
――魔獣。
その名を思い浮かべるだけで、指先が強張った。あの爪の冷たさが、まだ皮膚の下に残っている気がする。いまだ鮮明に皮膚を破かれる感触が残っている。
二人は少し前を歩いていた……今なら逃げられるのではないか、という考えが浮かぶも、すぐに「無謀だ」と理性が警告する。
一歩進むごとに、その足首に細く頑丈な糸が巻きついてくると同時に、無数の冷たい手に背中を無感情に押され、半ば強制的に歩かされている。
工場の側面に回り込んだ瞬間、足立が立ち止まった。
「あ~れなまぁ」と愉快そうに腕を組んだ。
透は、その背中越しに見た。
外壁に、穴が空いていた。
そこは壁そのものがえぐられ、破裂したみたいに縁が外へ捲れている。周囲は黒く煤け、焼けた金属の匂いが強い。爆発で空いたのは一目でわかる。
その穴の下――煤の上に、足跡が残っていた。
透の背筋が、ぞわりと粟立った。
人の足が作ったものではない。煤が深く抉れ、深く踏み抜いた形が連続している。しかも、ところどころ、引きずった跡がある。爪のような、硬いものが擦ったような筋。
「魔獣の足跡?」
透の声が、思ったより低く出た。こういう時、心臓は正直だ。忙しなく動いて、否が応でも呼吸が荒くなる。それを悟られないように、必死に息を殺した。
皐月は穴の縁に指先を近づけ、煤の厚みを眺めるように目を細めた。
「この足跡は……魔獣が複数入り込んだみたいだねぇ。一旦外に出て、中に戻っている。工場長の証言は間違いなかったらしい」
足立は、首元にぶら下げていた半透明の防護眼鏡に指をかけた。ひょい、と持ち上げる。
「さて、ここからは気を引き締めていこうか」
足立は眼鏡を装着して、軽く指で弾いた。
それから、透のほうへ半身を向ける。
「じゃ、武装しよっか。君も」
透は、反射的に身構えた。
武装――ここから先は、生きるか死ぬかの世界なんだ。
足立が肩から大槌を下ろし、柄を透へ差し出した。
真っ赤な長方形の頭部。側面の縁のルーン文字。円形の溝。昨日、透が触れたときの冷たさと重さが、手のひらに蘇る。
「使い方はわかるでしょ?」
「まあ、なんとなくは」
透は受け取った。重い。だが、昨日の〝重さ〟とは違う何かを感じた。
「入ろうか」
足立が先導する。透と皐月が、その後ろに続いた。
◆
工場の中は暗かったが、煤と金属粉が積もった床が、秘傘の光を鈍く跳ね返していた。
そこの空気は外よりも冷たいのに、どこか湿っていた。鉄の匂いに混じって、古い油と、焦げと――それから、言葉にできない生臭さが薄く漂っている。
そして、工場の中は、すっかり荒れ果てていた。
床には部品らしきものが散乱し、棚が倒れ、箱が潰れている。部品工場だったのだろう、同じ形の金属片が無数に転がり、踏めば派手に音が出そうだった。
透は大槌を持つ指に力を込め、足の裏の感覚だけに集中した。
「まず、灯りを戻そう。駆除するためにも、できる限り暗がりは減らしておきたいからね」
足立が言って、壁際を探る。透もまた床と天井と壁を往復し続けた。
まもなく、足立が壁のパネルを見つけ、手を伸ばした。
次の瞬間、天井の灯りが、ぱち、ぱち、と不規則に瞬いた。
いったん消えて、息を詰めた沈黙のあと、白っぽい光がじわりと広がっていく。
透は喉の奥が乾くのを感じながら、大槌の柄を握り直した。
光の中で、足立が振り返って笑う。
「よし。じゃ、探そっか」
透は返事をしなかった。あるいは、できなかったのかもしれない。
灯りが戻ると、工場で起きた悲劇の残り香が、いっそう生々しくなった。
床に散った部品の群れ、倒れた棚、破れた袋からこぼれた金属片。足を置く場所ひとつにさえ、誰かの作業の名残があるのに、人の気配は自分たち以外にまるで無い。
しばらくして、部品の箱が積まれた区画を抜けたあたりで、皆の足が止まった。
そこに――穴があった。
床が抜けている。丸でも四角といった行儀の良いものではなく、引き裂かれたような形の暗い口。その穴から落ちた床の残骸も覗ける。あまり高くはないけれど、飛び込んでみようとは思えないぐらいの高さだった。
そのとき、透の視界がぐらりと歪んだ。
「は?」
声が小さく漏れた、その瞬間に浮遊感に包まれる。押された? 誰に?
「それじゃ、頑張っておいで」
頭上から降ってきた足立の声は、あくまで軽かった。透は咄嗟に体勢を整え、辛うじて足先から可能な限り衝撃を減らして着地に成功した。それもきっと、成霊化のお陰なのだろう。ここまで運動神経が良かった覚えはない。
透は眉を顰めて二人を見上げ、「危ないだろ」と言い返す――そのとき、穴の闇が動いた。
伸びた。
黒く、細長く、敵意に満ちた何かが。
それが、透の足を――貫いた。
「ぎっ……!」
喉が衝撃で歪み、言葉にはならなかった。針金みたな何かが肉を割り、骨に触れる感触。足が勝手に跳ねた。だが跳ねた先に、もう一本が絡みつく。足首を締め上げ、膝を引き、身体ごと闇へ引き込もうと動き出す。
「っ、離せ――!」
透は大槌を抱え込むみたいにして、床に手をついた。指が煤と粉塵に滑る。爪が割れそうになる。
床が、遠ざかった。
透の身体は次の瞬間、背中から地面に叩きつけられた。肺の空気が一気に抜ける。視界がパチパチと散って、コマを回すみたいに世界がグラついた。
大槌の頭部が床に当たり、鈍い金属音が響いた。
「……っ、ぐ……っ!」
痛みで呼吸が乱れる。足が熱い。貫かれた場所が、焼けるように脈打っている。
透は歯を食いしばり、足を見た。
パックリと開く皮膚の裂け目が、じわり、と自分の意思と関係なく縮んでいく。傷口の縁が無意識の生存本能に従って、塞がろうと躍起になっていた。
バケモノみたいに。
「……クソ、クソクソクソッ……!」
透は吐き捨てて、身体を起こす。
顔を上げた瞬間、背中側の闇がざわりと震えた。
気配。
一つじゃない。
いくつも。近い。囲んでいる。
呼吸とも衣擦れともつかない微細な音が、暗がりのあちこちからする。透の首筋が木のように硬く強張る。
こういうのを敵意っていうのか。
透は大槌を抱え直し、ゆっくりと視線を巡らせた。
闇が濃すぎてハッキリと姿は見えない。なのに存在していることだけはわかる。
穴の上で、足立が少し身を乗り出し、闇に目を凝らした。
「入会試験だ。そいつらをキミ一人で片づけてくれ」
透の喉が、乾いた音を立てた。
「無茶でしょ」
声が震えた。震えを抑えたくて、透はさらに強く大槌を抱きしめた。
穴の上から、皐月の声が降ってきた。
「逃げ出しても構わないさ。ただ、キミの身の安全は保障できないがね」
戦うと、死ぬかもしれない。
でも、逃げたとしても、無事で済むとは限らない。警察に駆け込めたとしても、きっとその間に家族や友人に危害が及ぶ可能性だって、ゼロじゃない。
冷や汗が背中を流れ、手のひらが湿り、握りしめた手が熱を帯びる。
闇の中の気配が、じり、と距離を詰める。
やるしかないんだ。
そして、ぬるりと〝それ〟は顔を出した。
現れたのは、鹿に似た輪郭だった。
半ば二足で立ち、上半身だけが異様に肥大している。肩から胸にかけて肉が盛り上がり、首の位置がわからないほどだ。枝角は枝角の形をしていない。うねる。触手みたいに、たわんだりしている。先端が空気を探るように揺れ、そのたびにぬめった光を振りまいた。
透の胃がひっくり返りそうになる。
バケモノ。
昨日の馬型とは違う。違うバケモノが目の前にいた。
「……やっぱ、無理かも」




