2.不同意の救済
透は死んだ――はずだった。
左胸を貫いた、あの冷たい爪の感触。骨が割れて、心臓を直接掴まれたみたいな圧迫。肺に空気が入らなくなって、頭の中が真っ白になって、ああ、死ぬんだと腹の底で理解した瞬間。
それが、夢の話だと思えないほど、新鮮で明瞭なのに、まるで痛みは無かった。。
代わりに、妙に柔らかいものの上に寝転がっている感覚と、耳の奥でくぐもった機械音が鳴っていた。一定のリズムで点滅する電子音。低く唸るポンプの音。
……どこだ、ここ。
瞼が重い。けれど、透は力をこめて目を開けた。
視界いっぱいに、薄く曇った透明な壁があった。内側から指先で触れれば、ひやりと冷たい。カーブした透明板――ガラスか、それに近い素材だろう。
自分の吐息で白く曇るその向こう側に、ぼんやりと光が揺れている。蛍光灯の白っぽい光。天井は思ったより近い。何かの機械が林立している影が、歪んで見えた。
透は左胸へと右手を伸ばす。
ぐっと握り込んだ掌の下は、布越しの自分の胸板だった。
湿った包帯も、縫合の凹凸もない。あるはずの、抉られた穴も、ひび割れた骨の感触もない。薄い生地の下の皮膚は、どこまでもなめらかだ。
「……は?」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。息を吸い込む。肺が素直に膨らむ。
そこでようやく、自分の格好に気づく。
透の身体を包んでいるのは、見慣れない薄緑色の患者服だった。胸元と袖口に小さなタグが縫い付けられ、布は安っぽいけれど清潔で、洗剤の匂いがほのかに残っている。
……ジャケットと制服は?
いつも着ていた赤いダウンも、制服のシャツもない。スカートも、靴も、全部見慣れない布に置き換わっている。足首を動かすと、布がさらりと肌に擦れた。
違和感よりも先に、奇妙な「調子の良さ」が胸に広がる。
身体が軽い。喉も、肺も、脚も、どこにも鈍い怠さがない。疲れを自覚する前から当たり前みたいに抱え込んでいた重りが、まとめて剥がれ落ちたみたいだ。吐く息が軽やかで、絶好調な体調と言い表しようのない不安の差異に混乱していた。
さっきまで、確かに死にかけていたのに。
馬の魔獣。蒸気を上げる血。大槌を噛み砕く顎。自分の左胸を貫いた骨の爪。灰色の空。遠ざかっていく声。
夢じゃ……ない、よね。
左胸のあたりが、記憶に引きずられるように、じわりと熱を帯びる。けれど、痛みはない。ただ、鼓動の速さだけが、そのとき抱いた「死にたくない」という感情の残り火みたいに胸の内側で跳ねていた。
そのとき、透明板の向こう側で、何かが覗き込んできた。
曇った視界の向こうで、白いものが揺れる。
「――ああ、目が覚めたか」
落ち着いた、少し低めの女の声がした。透は思わずそちらを見る。
透が入っている容器が、どうやら横倒しに設置されているらしい。自分から見て「右側」にあたる透明板の外側に、白いコートの人物がしゃがみこんでいた。
白のフード付きコート――さっきぶつかった、あの少女だった。
薄い金とも銀ともつかない色の髪が、肩のあたりでさらりと揺れた。冷ややかな灰色の瞳がこちらを覗き込む。蛍光灯の光を受けて、瞳孔の縁が金属みたいにきらりと光った。
彼女は、唇の端だけでわずかに笑う。
「お早い覚醒だ。何者なんだい、キミは?」
透は咄嗟に眉をひそめた。
知らない女だ。年は自分より少し上くらいか。白いコートの下には、防寒用の黒いタートルネックとパンツ。研究者か医者の類に見える。声や目の温度は、妙に「楽しんでいる」ようだった。
透が睨み返すと、女はそれを面白がるように首をすくめる。
「名乗るのが先だったね。私の名は皐月。ただ皐月と呼んでくれればいい」
さらりとそう言って、容器の側面に手を伸ばす。指先で、透には読めない記号が並んだパネルを軽く叩いた。
かちり、と何かが外れる音がする。
耳元で、空気が抜けるような音がして、透の顔の前の透明板がわずかに浮いた。くぐもっていた機械音が、一気に鮮明になる。冷たい外気が流れ込んできて、透は反射的に目を細めた。
「さ、起きられるかい? 吐き気や痺れは? 骨に軋みはあるかい?」
皐月と名乗った女が、覗き込んだまま問いかける。
透は、喉に引っかかった言葉を無理やり押し出した。
「……ここは?」
自分の声が思ったよりはっきり出たことに、自分で驚いた。
皐月は肩をすくめる。
「まあ、当然の疑問だね。まずは、ポッドから自分の足で立てるかどうか、確かめようか」
そう言って、彼女はポッドの縁に手を掛け、横倒しになっていた筐体を少し傾けた。中にいた透の身体が、ずるりと滑る。
「おわっ――」
慌てて手を突く。柔らかいパッドと、冷たい金属の感触が混じる。身体を起こそうとして、透はその軽さにまた驚いた。
腹筋に力を入れれば、あっさりと上体が起き上がる。頭は少しふらついたが、目の前が暗くなることはない。
ポッドから半身を出した透を、皐月が白い手袋越しに支える。彼女の指は細く、無駄な力がなく、卵白の中から黄身を救い上げるように、やさしくも、どこか乱暴さもあった。
興味深い標本を眺めるような、そんな視線。
透の背筋に、ぞくりと小さな寒気が走った。
◆
ポッドの中の冷気と外の空気の温度差が、肌に薄い膜みたいにまとわりつく。
透は皐月に支えられながら、ゆっくりと身を起こした。
視界が開ける。横倒しになったポッドの縁をまたいで外に出ると、そこは長方形の広い空間だった。金属の床に、同じようなポッドがいくつも並んでいる。天井からは青白い霊子灯が吊るされ、冷たい光が皐月の背中と機械の縁を淡く照らしていた。
何人もの視線が、一斉に透へ向く。
個性的な服装の人が三人。壁際の端末に腰掛けている細身の人物。少し離れたところ、腕を組んで立つ長身の女は腰まで伸びる金髪を自由にさせ、軍服じみたジャケットの下に褐色の肌を覗かせる。口元には、まだ煙の残る煙草。
耳先が尖ってる。南国の『森人』?
「……」
足の裏が頼りなく、金属床の冷たさだけがやけにリアルだ。
その沈黙を破ったのは、金髪の女だった。
「――本当に、成功するとはな」
その言葉とともに、薄く煙が吐き出される。霊子灯の光を切り裂くように揺れて、透のところまで漂ってくる。女の視線の先には、床のバケツに入れられた〝血まみれの破けた制服〟があった。
あたしの制服?
成功?
何が?
意味がわからず、透は眉をひそめた。
「……成功?」
自分の声が、思ったより掠れている。さっきまで死にかけていたのだから、それも当然かもしれない――と、そこで思考が止まる。
「驚くのも、無理はないね」
穏やかで、どこか笑っているような少女の声。
声の方を向くと、ピンクの外套にだらしなく腕を通した少女。額に透明なゴーグルを持ち上げて、柔らかい表情を浮かべているが、その目だけは静かに透を観察している。
「僕らが現場に着いた時、君の状態は……そうだな、極めて危ない状態だった。魔獣に胸を抉られて、心臓が外気に晒されていたからね」
さらりと言う内容じゃない、と思う。透は思わず口を引き結んだ。
「普通なら、あそこで死んでた。病院に運ぶどころか、ここまで連れてくる時間もなかった」
少女は、指で胸のあたりを軽く示す。その視線は透の胸元と、ポッドの内部を交互に行き来していた。
「ただ、運が悪いのか、いいのか。その少し前に、僕たちは対魔局から“霊薬”をひとつ盗み出していてね。まだ誰にも使われていない、狩人候補用の薬だ。所謂『レイゾニック化合体』」
透は、そこで初めて、頭の奥にいた“嫌な予感”が顔を出すのを感じた。
だが少女は気にした様子もなく、話を続ける。
「君の心臓は、ちょうど丸見えだった……伝説曰く、最初の狩人は死体の心臓に僧侶が霊薬を注いだことで生まれたそうだ」
唇に、うっすらと皮肉めいた笑みを乗せる。
「一か八か、傷口から霊薬を流し込んでみた。結果としては――」
少女は肩をすくめ、透の胸元を顎で示す。
「傷は塞がった。霊薬は君の心臓に“根を下ろした”。奇跡的、と言ってしまってもいいくらいさ」
奇跡、という言葉は、冷たく細い枝が伸びていくように、身体の隅々に張り付いた。霊薬によって変異した個体は狩人と呼ばれるが、あくまでも狩人は職業名であり、正しくは『成霊体』と呼ぶ。
あの痛みと熱が幻ではないのだとしたら――ここに傷がないことも含めて、その説明は、確かに筋が通っている、のかもしれない。
霊薬を、心臓に……押し込んだ? そんな簡単に成霊体とやらになれてしまうのか?
透は、患者服の上からそっと左胸を押さえる。そこに違和感はない。むしろ、さっきまでより呼吸が楽だ。体の隅々まで、血がよく回っている感じがする。視界もやたらとクリアだ。
身体の調子は、人生で一番いいぐらい――それが、かえって不気味だった。
「……狩人でも致命傷、ってところだろうねぇ、あれは」
今度は、すぐそばから声がした。
皐月が、興味深そうに透を覗き込んでいる。灰青の瞳が、研究対象を見る目だ。
「キミは生体変質系魔術に、相当な適性があるんだろうね。骨の反応も……ふむ」
そう言いながら、彼女はためらいなく透の腕を掴んだ。指先で筋肉の付き方や皮膚の反応を確かめるように、押したり撫でたりする。次に首筋、鎖骨のあたり。患者服の襟ぐりを、ぐいっと指で広げる。
「ちょ、な、何して――っ」
透の頬が一気に熱くなる。反射的に皐月の手をはねのけた。
「触んな! 変態!」
「ああ、ごめんごめん。驚かせたかい?」
謝罪のわりには、声に悪びれた様子はあまりない。皐月は口元だけで笑い、少しだけ距離を取った。
「でも、データとしては興味深いんだ。狩人でさえ即死しかねない損傷を、傷跡すら残さず短時間で再生させた身体に。普通はこうはいかない。ねぇ?」
ねぇ、と確認する相手は、透ではなく、部屋の奥で腕を組んでいる金髪の女だった。
透は、先ほどから引っかかっていた単語をようやく口にする。
「……今、“盗み出した”って言った?」
対魔局から。霊薬を。
さらっと流されたが、それは完全にアウトなやつだ。
問いかけると、金髪の女が、ゆっくりと額に指を当てた。まるで頭痛を誤魔化すみたいな仕草。
「その嫌な予感は、まあ、正しい」
短くため息をつき、女は視線だけで透を見る。
「お前は、正規の手順を踏んで成霊体になったわけじゃない」
狩人。
その単語が、ようやく現実味を持って透の耳に届く。
狩人――あの、魔獣を相手に戦う、選ばれた連中。教科書やニュースでしか見ないもの。自分とは縁がないと思っていた存在。
それが、今の自分?
「…………」
足元が、じわじわと遠くなるような感覚。透は無意識にポッドの縁を握りしめた。
「ちょっと、待って。あんたら、一体何なんなの」
ようやく、言葉が出た。
透は白金の髪の女を真っ直ぐに睨む。
彼女はこちらの視線を受け止めても、表情をほとんど変えない。灰色の瞳に、霊子灯の光が細く映る。
「自己紹介がまだだったな」
女は煙草を足元の灰皿に押し付け、火を消した。
「私はシルバーピット・リッレクランス。外郭居留区で支援団体《白枝会》の代表をしている。表向きは、辺居の連中に飯と医療を提供する慈善団体だ」
そこまでは、透も耳にしたことがある。ニュースやプリントの片隅に出てくる名前。辺居で炊き出しをやっている団体。
シルバーピットは、言葉を区切り、わずかに顎を上げる。
「裏の顔は、非正規の狩人部隊の運用だ。対魔局の登録を持たない狩人を抱え、辺居の防衛に回している。生憎、対魔局の連中は辺居を守っちゃくれないから、こっちで何とかするしかなくてな」
さらっと、“裏”まで口にした。
透は思わず瞬きをする。
「……それ、あたしが聞いていい内容じゃない気が」
「そうかもな。だが、これで自分の立場がわかっただろ?」
シルバーピットは肩をすくめる。
「わかるだろ? 問題は、白枝会が狩人を保有していることが、世間にバレちゃいけないってことだ」
灰色の視線が、鋭くなる。
透は、そこでようやく、自分の立場を想像する。
対魔局から盗まれた霊薬。非正規の狩人部隊。謎の地下施設。
そこに、巻き込まれた自分。
「助けてくれたのは、わかってる。言いふらしたりなんか――」
「気が利くじゃないか。そうしてくれ」
口を挟もうとした透の言葉を、シルバーピットはすっぱりと切る。声は落ち着いているが、目は笑っていない。
「だが、これは一個人の口約束でどうにかなるものでもない。お前の学校でも、定期的に健康診断があるだろ?」
唐突な質問。透は眉をひそめる。
「……胸のレントゲンとか、血液検査とか」
「炭骨検査もあるはずだ」
シルバーピットの言葉に、透は小さく息を呑んだ。
炭骨検査。人類特有の炭骨に異常がないかを調べる検査。
「狩人の炭骨検査の値は、普通の炭骨種とはまるで違う。一発でバレるぞ。もしそうなったら――」
灰色の瞳が、ぐっと射抜くように細くなる。
「対魔局、あるいは世間はどう動くと思う?」
冷たい問い。
透は答えられなかった。頭の中で、可能性だけが勝手に増殖していく。
非正規の狩人を抱えた団体。対魔局から盗まれた霊薬。
その霊薬で勝手に狩人になった女子高生。
「万が一にも、世間に白枝会が秘密裏に狩人を保有しているなんて知れ渡るわけにはいかない。ましてや、霊薬を盗み出しているなんて報道されちゃあな」
シルバーピットは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「わかるだろ?」
わかりたくないが、わかる。
透は唇をかんだ。
「……じゃあ、あたしを、どうするつもり」
こわごわと、だが目を逸らさずに問う。
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
透の問いに、シルバーピットは一拍だけ沈黙した。灰色の瞳が、透の胸元――傷があったはずの場所――をなぞるように止まって、それから、吸い殻の残り香みたいに淡々とした声が落ちてくる。
「まあ、処理するしかないな」
言葉が、霊子灯の白い光より冷たかった。
透の背中に、ぞわりと汗が噴いた。指先が痺れる。膝が笑いそうになるのを、ポッドの縁を握り締めて必死に押さえつける。
――殺される。
確信が、胃の底に沈んだまま浮かんでこない。
「……っ、ふざけんな」
喉が乾いて声が割れる。怒りで出た声なのに、震えが混じってしまうのが悔しい。
「勝手に霊薬までぶちこんで、それで不都合だから消しますって、そんなの」
訳が分からない。邪魔なら、そもそも助けなければよかったじゃないか。
透の言葉を聞いて、シルバーピットは肩をわずかに竦めた。否定しない。彼女自身も、自らの行いに確固たる正当性を見出せずにいるのだろう。
「それはごもっとも。その文句は勝手に霊薬をぶち込んだ馬鹿どもにいいな――」
彼女は視線を外し、壁際に立てかけられていた大槌へ手を伸ばした。
真っ赤な長方形の頭部。側面の縁に沿うように刻まれたルーン文字。円形の窓の奥で、小さな光点が静かに透を見つめている。
その大槌を、シルバーピットは片手で持ち上げた。
金属が床から離れる、低い擦過音。空気が重くなる。誰かが息を呑む気配。
シルバーピットは、ゆったりと歩み寄ってくる。
透は反射的に後ずさった。金属床が冷たい。足裏にぴったりとタイルが張り付く。
――なんだこれ。
――あたしが、何した。
魔獣に突っ込んで、死にかけて、助けられて、いま殺される。こんなものが自業自得だと? そうなの? そうなのかもしれない。でも、納得はできない。
死にたくない。
透は、後ずさる足を止めた。
震える膝を、無理やり前に出す。
シルバーピットを正面から見つめて、透は声を張った。
「あたしを雇ってほしい」
部屋の空気が、ぴたりと止まる。
皐月の灰青の瞳が、ほんの少しだけ見開かれたように見えた。ピンクの外套の人物は、首にかけた透明な防護眼鏡を指で弾いて、愉快そうに口元を歪めた。
シルバーピットは立ち止まり、低い声で返す。
「どこのだれとも知れん奴を雇う訳ないだろ。しかも、ただの学生を」
「ただの学生じゃない」
透は唾を飲み込み、言い切った。
自分の言葉の重さに、喉の奥が熱くなる。けれど、ここで一歩たりとも引くわけにはいかない。
「証明する。あたしが誰よりも優秀な狩人になれるってことを」
シルバーピットの眉が、ほんの僅かに動いた。煙草の火を消すときみたいに、冷静な仕草で。
「私が欲しいのは安心なんだ。考え無しに突っ込む馬鹿の面倒を誰が見る? 私か? 冗談じゃない。中流の小娘なんて、何をやらかすか分かったもんじゃない。特に、お前みたいな考え無しに動くような馬鹿は、私が一番嫌いなタイプだ」
透の胸が、きり、と痛む。
「あたしを、殺すのか?」
そう言うと、シルバーピットは鼻で笑った。乾いた音。金属みたいな嘲り。
「……やる気のある馬鹿はいらない。そういう奴が、いつだって状況を悪化させるんだ」
答えになってないけれど、それは透に確信を授けた。
透の中で、何かがぷつりと切れた。
怒りじゃない。意地でもない。もっと根っこの、生き物が持つ何かが透を動かした。
「なら、覚悟を示すよ」
シルバーピットの目が、細くなる。
「一丁前なこと言うんじゃねぇよ」
その瞬間、大槌がゆっくりと振りかぶられた。
透の視界が、一点に絞られる。
恐怖が思考に追いつくよりも先に、身体が動いた。
「――っ!」
透は咄嗟に前へ飛び込んだ。大槌の柄へ両腕を絡める。金属の冷たさが掌に刺さる。
次の瞬間、力の支点がずれる。シルバーピットの握りが、ほんの一瞬だけ緩んだ。
透は、その隙に全力で飛びついた。
ずしり、と重みが腕へ落ちる。先刻の騒動の時よりも軽く感じるのは、霊薬が身体を作り替えた影響なのだろうか。そんな疑問を他所に透はそのまま大槌を構えた。
部屋の全員が警戒の体勢に入り、部屋全体に緊張が張り詰める。毛穴の一つ一つに針先が宛がわれたように、誰も動かない。
皐月は半歩引き、視線だけを鋭くする。ピンクの外套の人物は、衝撃映像を観るかのように、肩の力を抜いてリラックスしている。シルバーピットは――動かない。ただ、ジッと透の動きを観察しているようだった。身体全体の向き、動き、力みを余すことなく見られている。そんな感覚に透は襲われつつ、大きな竜に睨まれているかのように錯覚する。
呼吸が、荒くなる。
自分が何をしたか、遅れて理解が追いかけてきた。
覚悟を示す、と言った。
なら、どうやって。ていうか、その必用はあるの? このまま逃げてしまえるんじゃないか?
この大槌で脅して逃げる? それから、今すぐ警察や対魔局に駆け込んで事情を説明すればいい。
だが、逃げ切れるとは到底思えなかった。この場に自分以外に成霊化している人はどれだけいるだろうか。きっと、その人は自分より荒事に長けた人だろう。白枝会の代表自身がそうなのかもしれない。
それに、私物はすべて見られているだろうし、顔も覚えられている。中流の小娘なんて皮肉っぽい言い回しをされているのだから、間違いない。これっぽっちも逃げ切れるイメージが明確にならない。
ぎりっと歯を食いしばった。
示すのは――自分の価値。捨てるには惜しいと思わせる何かが必要だ。
透は大槌を下ろし、まっすぐにシルバーピットを見つめた。
「生き延びれたことに感謝すべきなのか、勝手に成霊化にされて怒るべきなのか、どっちが正しいのかわからない」
言葉を吐きながら、透は胸の奥で“何か”を掴む。
心臓の鼓動と一緒に、骨の内側で熱が生まれる感覚。炭骨が、火種みたいにうずく。
透はそれを、大槌へ流し込んだ。
ぶわ、と。
頭部の円窓の上で光点が灯る。それから、円の上を走り出す。徐々に速度が増し、ルーン文字の溝が、薄く熱を帯びたように見えた。
透の腕が、内側から灼ける。
「別に死にたかった訳じゃないし、あんたらみたいに大義名分があって魔獣にちょっかいかけた訳でもなかった」
さらに、魔力を生成する。
死ぬ気か、と骨が憤慨しているかのように、熱が増す。皮膚の奥が、焦げる匂いを立てる。
透の前腕が黒ずみ始めた。
血肉まで炭化していく感覚。痛い。すごく痛い。けれど、徐々に痛みの感覚すら失せていく。
「ただ、あの時は――」
透は言葉を区切った。
両腕の肘から先が、完全に黒くなった。
火の粉を纏った炭みたいに、表面がぱちぱちと小さく爆ぜる。涙が勝手に溢れた。息がひゅう、と喉を鳴らす。
それでも、透は視線を逸らさない。
「あれが正しいことだと思ったんだ」
透は――大槌を手放した。
金属が床に落ち、鈍い音が響く。
全員が困惑する。おそらく、抵抗して逃げると思っていたのだろう。透自身だって、数秒前までそうするしかないと思っていた。
シルバーピットが、低く呟く。
「……ほんと、どうかしてるぞ、お前」
透は膝から崩れ落ちた。
激痛が波になって襲う。視界が滲む。喉の奥から嗚咽が漏れる。それでも、透は歯を食いしばり、頭の中で必死に形を作った。
見慣れた指の形、爪の色、皺の数、血管の太さ、炭骨の熱を思い出す。どれもこれも曖昧な記憶しかなく、目にした記憶も無いモノを必死にイメージする。意識的に無意識に命じる。
治れ治れ治れ――治れっ!
そうして、まもなく――透の手首から先が、急速に再生を始めた。
黒い炭の腕が、ひび割れて崩れ落ちる。次に、内側から赤い肉が盛り上がってきた。骨が、筋が、皮膚が、生々しく組みあがっていく。
熱と痛みが、恐ろしい速度で引いていった。
そして、透は震える息を吐きながら、床を押して立ち上がった。その腕はすっかり元通りになっていた。
部屋の誰もが顎をぶらさげて呆けている。
透は興奮とも恐怖とも言えない感情を噛みしめていた。
これが、霊薬の力。これが、狩人の身体なのか。
透はシルバーピットをまっすぐに見つめ、宣言した。
「あたしは簡単には死なない。あたしが使える奴だって、証明する」
シルバーピットは、呆れたように息を吐いた。
「まったく……若さって奴は恐ろしいな」
彼女は拾い上げた大槌を構えることなく、そっと床へ立てた。
それから、透を見下ろし、淡々と告げる。
「確かに、その再生能力は驚異的だ。成霊体であっても肌まで炭化した状態から回復するのに、おおよそ七日はかかるもんだ。不死身なんて言われちゃいるが、それが当てはまるのはお前ぐらいだろうよ……確かに、その〝死ににくさ〟ってのは稀有な才能だな」
シルバーピットは視線を横へ投げた。
「足立」
ピンクの外套の人物が、肩を竦めるようにして前に出た。透明の防護眼鏡が首元で揺れる。相変わらず軽そうな笑みを貼り付けていた。
「お前の責任だ。面倒はお前が見ろ」
足立は、両手を軽く上げて降参の仕草をした。
「えぇ、なんで僕がぁ」
肩を落とす動きが、妙に芝居がかっているのに、透はそこに救われた気がした。空気が、ほんの少しだけ緩む。
だが、次の言葉で、透の背筋はまた凍った。
「辺居の端に魔獣に奪われた場所がある。明日、そこを掃除してこい」
透の頭に、あの馬型の魔獣が浮かぶ。
蒸気を吐く鼻先。大槌を噛み砕こうとした顎。骨の爪の冷たさ。
恐怖が、胸の内側を引っ掻いた。
足立が、雰囲気に似合わない真面目な声音で口を挟む。
「もう戦わせるんですか? さすがに早すぎるんじゃ」
シルバーピットは、その抗議に答えなかった。
代わりに透へ視線を戻し、挑戦的に言う。
「証明、するんだろ?」
透は、拳を握り締めた。
心臓が、さっきより強く打つ。
怖い。逃げたい。けれど、逃げられない。それなら――。
透は背筋を伸ばし、色を正した。
「あんたの度肝を抜いてみせるよ」
貴船透は、確かにそう宣言した。




