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30.エンディング 終

 辺居南東区画の旧設備接続部付近では、警報の音が遅れて届いた。


 女は、最初それを遠くの火災警報だと思った。古い集合住宅の二階、ひびの入った壁と、雨漏りの跡が残る天井と、秘傘の弱い光だけが頼りの部屋で、膝の上に子どもの頭を抱えたまま、息を殺していた。窓の外では、何かが建物の外壁を引っ掻く音がする。爪なのか、牙なのか、硬い枝のようなものなのか、音だけでは分からない。ただ、人間の出す音ではなかった。


 廊下の向こうでは、誰かが泣いている。


 けれど、誰もその声を止めに行けない。扉を開ければ、そこにいるものに気づかれる。階段の下には、さっき一階の入口を破って入ってきた魔獣がいる。元は犬か、あるいは荷運び用の小型幻獣だったのかもしれないが、今では背中から黒い棘を生やし、頭部が縦に裂け、赤黒い涎を床へ垂らす怪物になっていた。


 建物内に残されたのは、女と子どもだけではない。


 隣室の老夫婦。向かいの部屋に住む若い男。下の階には、避難の途中で戻れなくなった家族がいるはずだった。端末は避難指示を出していたが、廊下には出られない。窓から飛び降りるには高く、下には別の魔獣がうろついている。対魔局へ通報はした。けれど、本当に来るのか、来る前に扉が破られないのか、女には分からなかった。


 子どもが腕の中で震える。


 女はその口を手で覆い、「声を出さないように」という内容の言葉を耳元で囁いた。子どもは涙をこぼしながら何度も頷いた。秘傘の光が小さく揺れ、そのたびに壁へ映る影が伸び縮みする。外壁を引っ掻く音が止んだ。次に、廊下の床板が軋む。


 来る。


 女はそう思った。


 扉の向こうで、濡れた肉が床を擦る音がする。何かが扉の下の隙間へ鼻先を押しつけ、ぬるりとした息が部屋の中へ入り込んできた。子どもの肩が跳ねる。女は台所から持ってきた包丁を握り直した。こんなもので何ができるのか分からない。分からないが、何も持たずに待つことだけはできなかった。


 扉が、内側へ歪んだ。


 一度目の衝撃で、鍵が悲鳴を上げる。

 二度目で、蝶番が半分外れた。

 三度目が来れば、扉は破れる。女は子どもを押し入れの奥へ押し込み、自分は扉の前に立った。足が震えている。包丁の刃先も震えている。それでも、ここを退く訳にはいかない。


 そして、三度目の衝撃が来る寸前だった。


 廊下の向こうで、雷が鳴った。


 女は最初、それを本物の雷だと思った。けれど、辺居の天井越しに雷鳴が聞こえるはずもない。次の瞬間、壁へ何かが叩きつけられる音。骨が砕ける音。赤黒い液体が床へ散る湿った音。


 女は何が起きたのか分からず、包丁を握ったまま立ち尽くした。

 半ば壊れた扉の隙間から、廊下が見える。


 そこに、少女が立っていた。


 若い。あまりにも若い。自分の子がもう少し大きくなれば、あれくらいになるのかもしれないと思うほどの年頃だった。けれど、その少女の右腕は人のものではなかった。蜂蜜のように半透明で、内側には赤い骨が這い、指先からは白金色の雷が微かに散っている。左手には大きな槌があり、その頭部には今しがた付いた赤黒い血をべっとりと纏わせている。


 だが、女が最初に目を奪われたのは、黄金の腕ではなかった。


 少女の首に嵌められた、銀色の細い輪だった。

 蛇の鱗を思わせる意匠のチョーカー。危険な人物――犯罪者とかに嵌める監視礼装。逃走を防ぎ、命令違反を許さず、必要とあればその場で対象を止めるための拘束具。女はそれを、報道で何度か見たことがあった。


 犯罪者がどうして、と思った。

 助けが来たと思うより先に、その言葉が胸の奥へ落ちた。まだ年若い少女の首に、そんなものが嵌められている。その事実だけで、女は押し入れの中の子どもを背に庇うように、一歩後ろへ下がっていた。しかし、そこで不意に思い出した。その女の子の顔は同じく報道番組で見たことがあり、それは帝和全体を騒がせた魔獣騒動が起きる前、白枝会の違法行為についての報じられていた折に、女子高生の顔写真が載せられていた。

 

 確か、無理やり成霊化させられたって。


 少女は、こちらの視線に気づいたのかもしれない。

 けれど、首輪を隠そうとはしなかった。

 ただ、壊れかけた扉越しに、少しだけこちらへ顔を向ける。泥と血で汚れた頬には、まだ幼さが残っている。それなのに、目だけは廊下の奥の暗がりを見ていた。


「驚かせてしまって、ごめんなさい」


 少女はそう言った。

 声は、思ったより普通だった。泣き叫ぶ者を落ち着かせるために無理やり優しくした声でも、偉そうに命令する声でもない。ただ、今ここで何をすべきかを決めている人間の声だった。


「対魔局の狩人です。これから周辺の魔獣を掃討します。静かに、息を殺して、そこから動かないでください」


 対魔局の狩人。

 対魔局という言葉だけで、腕の中の子どもが小さく息を吸った。助かるのかもしれない。そう思ったのかもしれない。女自身はまだ分からなかった。目の前の少女は狩人で、罪人で、子どもみたいで、怪物みたいな腕を持っている。そのどれを信じればいいのか、すぐには選べなかった。


 廊下の奥から、別の魔獣が飛び込んでくる。


 天井を這うような四肢を持ち、頭部の半分が裂けた異形だった。女は反射的に子どもの頭を抱え込んだ。だが、その魔獣は少女へ届く前に、横合いから走った氷の槍に胸を貫かれた。凍った血肉が壁へ縫い止められ、怪物の動きが止まる。


 階段の手すりの上に、もう一人の狩人が立っていた。

 白い外套。灰青の瞳。手には銀色の星。両腕に薄い包帯を巻いたその人物は、廊下へ降りるでもなく、瓦礫と水溜まりを利用して次の魔術を組み上げているようだった。


「透くん、右からもう一体来るよ」

「任せて!」


 黄金の腕を持つ少女が、大槌を握り直す。


 その右腕に雷が走った。


 女は息を呑んだ。秘傘の光しか知らない辺居の暗がりで、その雷はあまりにも鮮やかだった。白く、鋭く、恐ろしい。けれど、その光が照らしたのは、こちらへ迫る魔獣の牙であり、それを防ぐために前へ出る少女の背中だった。


 魔獣が跳ぶ。

 少女も踏み込む。


 大槌が振り抜かれ、雷が廊下いっぱいに爆ぜた。魔獣の頭部が砕け、壁へ叩きつけられ、赤黒い呪いの肉片が床へ散る。すぐに白い外套の狩人が銀の星を振り、氷でそれらを封じる。二人の動きは完全に同じではなかった。少女の方は荒く、力強く、どこか危なっかしい。白い外套の狩人は冷たく、細かく、少女の荒さを補うように次の道を作っている。


 女は、その背中を見ていた。

 いまこの瞬間、あの少女は魔獣よりも近くにいて、魔獣よりも恐ろしい力を持っていて、そして確かに、自分たちを生かすためにそこにいる。


 押し入れの奥で、子どもが小さく呟いた。

 女にはその言葉が聞き取れなかった。けれど、子どもの目が、恐怖だけではない何かで雷の光を追っているのは分かった。

 廊下の奥から、さらに咆哮が響く。


 少女は一度だけ振り返った。女と子ども、隣室から顔を出しかけた老人、階段の陰で震えていた若い男、その全員をまとめて見るような短い視線だった。


「大丈夫」


 少女は言った。


「あたしたちに任せてください」


 その言葉のあと、少女と白い外套の狩人は、市民たちに背を向けた。

 罪人の印を嵌めたまま、少女は魔獣のいる暗がりへ踏み出していく。

 辺居の古い集合住宅には、まだ秘傘の弱い光が揺れていた。けれどその光よりも強く、黄金の腕に走る雷が、女の子どもの濡れた頬を一瞬だけ白く照らした。

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