29.エンディング 続
両親との再面会が許されたのは、対魔局での配属を告げられた翌日だった。
許された、といっても、自由な面会ではない。対魔局本部の面会区画、防弾ガラス越し、監視付き、時間制限あり。透の首には銀色のチョーカーが嵌められたままで、雷鋼の義手にも黒い拘束帯のような安全具が巻かれていた。暴走防止だと職員は説明したが、透にはそれが、自分の身体の一部でさえまだ信用されていないという意味に聞こえた。
面会室へ向かう廊下は、以前と同じように白かった。
清潔で、静かで、冷たい。壁には無駄な装飾がなく、床は磨かれ、電灯の光は影をほとんど作らない。その場所を歩いていると、自分の靴音だけが際立つ。透は左手で雷鋼の義手の指先を一度だけ触った。黄金の半透明な表面の内側で、赤い鋼骨が沈んでいる。いまは雷も走っていない。ただ重いだけの腕みたいに、身体の横に下がっていた。
それでも、この腕は透のものだった。
痛みと呪いの中で、無垢鋼から生まれた腕。足立を討った腕。失ったものの代わりであり、もう元の自分には戻れないことを突きつける証でもある。
面会室の扉の前で、監視役の職員が立ち止まる。
「規定時間を超えた場合、面会は終了します。接触は禁止。大声、暴力的な言動、監視礼装への干渉が認められた場合も同様です」
「分かってます」
透はそう答えたが、自分の声が少し硬いことに気づいた。
扉が開く。
厚いガラスの向こうに、父と母が座っていた。
前に会ったときより、二人とも少し疲れて見えた。父は背筋を伸ばしていたが、目元の皺が深くなっている。母は両手を膝の上で組み、透が入ってきた瞬間、ほんのわずかにその指へ力を込めた。泣いてはいない。取り乱してもいない。ただ、透の首元と右腕を見たあと、視線を逸らさずに娘を見た。
透は椅子へ座った。
前回と同じように、何から言えばいいのか分からなかった。謝罪はもう一度いくらでもできる。生きていたことを伝えたい気もする。心配をかけたことも、嘘をついたことも、全部言わなければならない気がする。けれど、口を開くより先に、父が低く問うた。
「やっていけるのか」
透は顔を上げる。
父の目は厳しかった。怒っているというより、こちらの返事を誤魔化さずに受け止めようとしている目だった。
「覚悟は出来ているのか」
その言葉が、ガラス越しにまっすぐ届く。
透は反射で「大丈夫」と言いかけて、やめた。大丈夫ではない。怖いものは怖い。右腕はもう前の腕ではないし、首輪は外れない。これから何度も魔獣と戦う。誰かを助けられない日も来るかもしれない。自分が正しくいられる保証なんて、どこにもない。
だから、軽く答えてはいけない。
透は一度だけ息を吸い、両親を見た。
「怖いよ」
言うと、母の眉がわずかに動いた。
透は首元のチョーカーへ触れた。蛇の鱗みたいな銀色の輪が、指先に冷たく触れる。
けれど、言わなければいけないと思った。ここで格好つけて、何も怖くないふりをすることこそ、父と母がいちばん嫌う逃げ方だと分かっていた。
「でも、やるよ」
その言葉が自然に出た。
家に帰るわけではない。自由になるわけでもない。けれど、これから自分が向かう場所へ、両親の言葉を持っていくのだという意味で、透にはそれしか言えなかった。
父も母も何も言わなかった。
母はガラスの向こうで、透をしっかりと見つめながら、、
「わかった」
ただ一言、そう言った。
◆
その待機室には、窓がなかった。
代わりに壁の一面に大型の映像板が嵌め込まれている。対魔局が職員の精神衛生のために設置したものらしく、普段は森や水辺、雲の流れる空、旧時代の都市風景などが無音で映し出されていた。もっとも、この部屋にいる者たちがそれを眺めて気を休めているかどうかは、透にはよく分からない。少なくとも、首に監視礼装を嵌められ、腰の近くに新しい大槌を立てかけ、右腕に雷鋼の義手をぶら下げた自分が見ていると、休息というより、どこか遠くのものを窓のない部屋で見せられている気分になった。
その日の映像は、海だった。
砕けた太陽の下ではもう存在しないのではないかと思えるほど、青い水面が画面の向こうで揺れている。波が白く崩れ、水平線の近くには雲が薄く伸び、岬の先に灯台が立っていた。透は無意識に、その映像をじっと見ていた。昔、音楽室で見ていたものと似ている。けれど、あのとき手元にあったのはギターで、今ここにあるのは対魔局から支給された新しい大槌だった。
形は以前のものに似せてある。
だが、足立が作ったあの真っ赤な大槌とは違う。対魔局製の新しい礼装は、黒に近い金属の柄と、鈍い赤銅色の頭部を持ち、雷鋼の義手との通電と磁力補助を前提に調整されていた。柄には対魔局の管理番号が刻まれていた。
右腕を軽く開く。
黄金の琥珀のように半透明な義手の内側で、赤い鋼骨が静かに走っている。普段は人の腕に近い動きをするが、力を入れれば奥で雷が小さく瞬き、近くの金属が薄く応える感覚がある。もうそれは、透の一部になりつつある。だが、完全に馴染んだと言うには、見た目の異物感が強すぎた。
隣の席で、皐月が同じ映像を眺めていた。
白い外套は新しいものに替えられていたが、両腕にはまだ薄い包帯が巻かれている。銀の星は膝の上に置かれていた。以前よりも少しだけ動きが慎重になったように見えるが、声の調子は相変わらずだった。
「この映像に映っている灯台は、我が家の――ではなく、露珠工営が建てたものだね」
皐月はそう言いかけて、自分で言葉を直した。
透は横目で皐月を見る。皐月本人は特に気にした様子もなく、画面の岬の先を指した。
「ほら、ここに金色の円盤みたいなものが付いているだろう」
透は映像へ目を凝らした。
灯台の白い外壁の中ほど、波と霧に霞んで模様までは見えないが、確かに何か金色のものが取りつけられている。小さな円盤のようにも、紋章のようにも見えた。
「本当に露珠工営のものなの? 他の会社のものかもしれないじゃん」
透が言うと、皐月は少しだけ愉快そうに目を細めた。
「ビルや集合住宅であれば有り得る。露珠工営の繁栄にあやかろうとする企業も少なくはないからね。似た意匠を使うことで、国や自治体の仕事を受けやすくしようとする者もいる。とはいえ、灯台のような公共の建物においては、その殆どに露珠工営が直接関わっている。たとえ名前が出てこずとも、息はかかっているだろうね」
「……灯台まで?」
「あらゆる建物にね」
皐月は淡々と頷く。
その言葉を聞きながら、透は画面の灯台を改めて見た。
皐月はああして隣に座っている。首には透と同じチョーカーがあり、対魔局に管理される身で、両腕には包帯が巻かれている。今はもう、ニコラエヴナ・ロズール家の家系図からも外されている。
皐月は途方もなく大きなものの一部だったのだな、と透はあらためて思った。
自分が想像していた「金持ちの家」とか「偉い家」とか、そういう言葉では足りない。建物を建て、国の仕事を受け、灯台や防波堤のような公共物にまで手を伸ばし、連綿と受け継がれ、現存している。その一族から切り離された皐月は、透の隣で海の映像を眺めている。
「そういえばさ」
透は少し迷ってから言う。
「本当に佐藤でよかったの?」
皐月は映像から目を逸らさず、穏やかに答えた。
「よかったとも」
「もっと、なんか、あるじゃん。格好いい名字とか」
「名字は記号のようなものだ。こだわるようなものでもない」
皐月は膝の上の銀の星へ指を置いた。
そう言われると、透は反論しづらかった。
事件後、皐月は正式には新しい身分が与えられた。今の名は佐藤皐月。
それが強がりなのか、本当にどうでもいいのか。たぶん、本当に何でもよかったのだろう。彼女はそういう人間だ。ただ、皐月が「我が家」と言いかけて「露珠工営」と言い直した瞬間、その境目が完全に消えたわけではないのだと分かる。
映像の中で、波が灯台の足元へ砕ける。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
待機室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、対魔局の職員だった。制服の上から防護具を着け、腰には短銃型の礼装と拘束具が見える。案内役というより、明らかに武装した監視役だった。透と皐月に任務を伝える者であり、同時に、二人が命令に背かないかを見張る者でもある。
職員は端末を確認し、短く告げた。
「出動命令だ。辺居南東区画、旧設備接続部付近で魔獣発生。一般住民が建物内に取り残されている。貴船透、佐藤皐月、両名は直ちに装備を整え、輸送車へ」
透は海の映像から目を離した。
青い海は以前のように透の心を惹きつけた。どうしてか、いつか辿り着けるような予感があったけれど、それは今すぐではないだろうし、透にはやるべき事がある。そいつは義務であり、責任であり、透が何者かを示す確かなものだった。
新しい大槌の柄を握る。雷鋼の義手が、その金属に薄く応える。首元のチョーカーは相変わらず冷たく、そこにある。罪人の印のように。監視対象の証のように。だが、出動命令を聞いた瞬間、その重さより先に身体が動いていた。
皐月も銀の星を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
「腕は?」
透が尋ねると、皐月は包帯の巻かれた手首を軽く振った。
「最低限なら問題ない。もっとも、君がまた無茶をすれば、その限りではないけれどねぇ」
「それ、あたしだけのせい?」
「大抵は」
「ひどくない?」
「汚名を雪げるよう頑張りたまえ」
透は小さく息を吐き、笑いかけたが、すぐに表情を引き締め、大槌を肩に担いだ。
雷鋼の義手が、静かに重みを受け止める。
「行こう、皐月」
「ああ」
二人は武装した監視役の前を通り、待機室を出た。




