28.エンディング
足立明季だったものが動かなくなったあと、透はしばらく、自分がまだ生きていることをうまく理解できなかった。
琥珀色の義手は濡れた泥の上で微かに明滅し、近くに残っていた呪いの残滓が寄ろうとするたび、白金色の火花を散らしてそれを焼いた。胸元の傷は深く、焼けたような痛みが呼吸のたびに走り、砕けた大槌の柄はまだ左手に残っていた。足立を討ったという実感よりも、これ以上動けば身体の中身が全部こぼれそうだという感覚のほうが先にあった。
皐月もまた、透のそばで座り込んでいた。白い外套は水と泥で重くなり、両腕は包帯を巻く前から痛々しいほど赤黒く変色していたが、銀の星だけは最後まで手放していなかった。透が何か言おうとすると、皐月はそれより先に、浅い息の合間で「喋らない方がいい」とだけ言った。その声はいつもより掠れていたが、それでも妙に落ち着いていた。
対魔局の回収班が到着したのは、その少しあとだった。
照明を積んだ車両が壁外の暗がりを切り裂き、武装した局員たちが周辺を封鎖する。透は担架へ乗せられながら、誰かが足立の遺骸へ封印用の布を掛けているのを見た。あれが本当に足立明季だったのか、それとも足立明季という名前を最後まで被っていた別の何かだったのか、透にはもう分からなかった。ただ、あの怪物がもう立ち上がらないことだけは、雷鋼の義手が沈黙していることで分かった。
砕けた大槌の破片も回収された。
真っ赤な頭部は、もう元の形を留めていない。その破片が証拠品用の箱へ入れられていくのを見て、透はなぜか胸の奥を掴まれたような気がした。寂しいのとは違う。惜しいのとも違う。
対魔局本部へ戻されたあと、透と皐月は治療棟へ収容された。
それから、治療と検査は、休みなく続いた。透の胸に入った呪いの残滓、雷鋼の義手と炭骨の接続、無垢鋼が宝物として形を成した過程、足立の歯による傷、戦闘中に起きた再生の停止と再開。そのすべてが調査対象になった。透は治療されているのか、調べられているのか、途中からよく分からなくなった。
皐月の方も同じだった。
両腕の魔術焼けは深く、しばらく銀の星の使用を禁じられた。医師は冷静な顔で、これ以上無茶な魔術行使を続ければ指先の炭化が不可逆になる可能性があると告げられたそうだ。皐月はその説明を聞きながら、「それは困るねぇ」とだけ返したが、透はベッドの上から、その指が布団の端をわずかに握り込んでいるのを見てしまった。
聴取も終わらなかった。
白枝会で何をしていたのか。誰から命令を受けたのか。足立明季は何者だったのか。ニコラエヴナ・ロズール家の書庫で見つけた本に何が書かれていたのか。代表が報道機関へ渡した資料に、どこまで事実が含まれていたのか。透は何度も同じことを聞かれ、何度も同じことを答えた。答えるたびに、代表の煙草の匂いや、足立の薄笑いが、頭の奥で勝手に蘇った。
数か月、帝都は騒がしかった。
白枝会の違法活動は連日のように報道され、辺居で非正規の狩人が運用されていた事実や、国が見落としてきた危険な旧設備の接続部、魔獣災害への備えの不足が、町中の市民にも広く知られることになった。これまで辺居の問題は、辺居の中だけで押し込められてきた。けれど、足立の逃走と呪いの拡散によって町中にも魔獣被害が出たことで、その境目は一気に薄くなった。
抗議の声は、辺居からだけではなかった。
町中の住民も、中央市場で店を壊された者も、幻獣を失った業者も、避難所で夜を明かした家族も、もう同じ言葉を口にするようになっていた。壁の内側にいるはずなのに、なぜ安全ではないのか。旧設備の穴はどれだけ残っているのか。辺居で起きていたことを放置した結果、なぜ町中まで危険に晒されたのか。
国は、辺居の安全確保を本格的に進めると表明した。
それと同時に、辺居の人々も〝同じ土地に生きる人々〟として認めざるを得なくなったようだ。
旧設備接続部の調査、防壁下部の補修、魔獣侵入路の封鎖、辺居内の照明塔増設、対魔局の常駐拠点設置、そして露珠工営を含む複数の建築企業への公共工事委託。発表された言葉は立派だったが、それで死んだ人が戻るわけではなかったし、辺居に暮らす者たちがすぐに安全を信じられるわけでもなかった。
それでも、辺居は、帝和は、変わりつつある。
透と皐月の処遇が正式に伝えられたのは、事態が一応の鎮静を見せた頃だった。
対魔局の白い会議室で、東阿高玲子はいつものように背筋を伸ばして座っていた。机の上には分厚い書類が置かれ、透と皐月の前には、まだ外れることのない銀色のチョーカーが冷たく光っている。
「貴船透、ならびに皐月」
東阿高は二人を見据えた。
「貴方たちの刑事上、行政上の扱いについては、今後も継続して審査されます。かの魔獣討伐における功績は認められますが、それによって過去の違法行為が消えるわけではありません」
透は黙って聞いていた。
分かっていたことだった。足立を倒したから全部許される、などという都合のいい話はない。白枝会に関わり、非正規の狩人として戦い、霊薬によって成霊化した事実は変わらない。
東阿高は続ける。
「あらためて、対魔局は貴方たちを即時処分するより、監視下で運用する方が帝都の安全に資すると判断しました。よって、貴方たちは監視付きの狩人候補生として、対魔局の任務に従事することになります」
皐月が横で、わずかに息を吐いた。
「候補生、かい。ずいぶんと柔らかい言い方をするんだねぇ」
東阿高は表情を変えなかった。
「正式な狩人として認めるには、貴方たちは問題が多すぎます。ですが、使えないと切り捨てるのも勿体ないでしょう。人材は有限なのですから」
東阿高は書類を一枚めくる。
「貴方には新しい礼装が支給されます。壊れた大槌の代替品です。義手との適合試験も済ませます。なお、以前の大槌の破片は証拠品として保管されますが、一部については、後日、加工素材としての扱いを検討します」
透は、少しだけ目を伏せた。
あの大槌は戻らない。
けれど、それでいいのかもしれない。
東阿高は最後に、静かに告げた。
「貴方たちは許されたわけではありません。ですが、役目は与えられました。帝和の民として、狩人として、やるべきことをやりなさい」
透は首元のチョーカーへ触れそうになり、途中で手を止めた。
銀色の輪はそこにある。
罪人の印のように。
監視対象の証のように。
それでも透は、顔を上げた。




