26.決戦 続
魔獣化した足立は、ふいに動きを止めた。
半分が馬と化した顔の奥で、まだ人間のまま残っている片眼だけが、ゆったりと焦点を結ぶ。濁っていない。狂気に呑まれきっていない刹那の自意識。
足立は肩で息をしながら、熱い吐息を白く吐き出した。
「……僕はさ」
喉の奥には獣の軋みが混ざっているのに、言葉はまだ言葉だった。
「ただ、一生懸命に生きてるだけなんだけど」
透は顔を上げる。皐月も銀の星を構えたまま、目を細めた。
足立は苦しそうに片頬を引き攣らせ、それでも笑うみたいに言葉を続ける。
「自分の幸福のために生きて、何が悪いのさ。皆そうしてるでしょ。食いたいから食うし、気持ちいいことしたいからするし、嫌なことは嫌だし、痛いのは嫌いだし、死にたくない。僕にも、自由に生きる権利ぐらいあるはずじゃん」
その声音に、悪びれたところはなかった。
言い訳をしているのではない。開き直っているのでもない。本気でそう信じているのだと、透には分かった。代表を刺したことも、白枝会を捨てたことも、他人を取り込みながら生き延びてきたことも、足立の中では全部が「自分が生きるため」に必要なだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
透は、そこでようやく理解した。
足立は、悪意でこうなったわけじゃない。
世界の中心が自分だと、心の底から信じているだけなのだ。
そのためなら他人の痛みも、記憶も、生活も、未来も、いくらでも踏み潰せる。そこに罪悪感がないから、笑える。悪いと思っていないから、平気で誰かを取り込める。異常なのに、本人だけがそれを異常だと分かっていない。
透の胸の奥を、怒りより先に冷たいものが撫でた。
気持ちが悪い、と思った。
足立はそんな透の顔を見て、馬の口元と人の口元の両方で、どこか似たような歪みを作った。
「でも、まあ……少し予定は狂ったよね」
その視線が、透の右肩へ落ちる。肩口には、失った腕の断面がまだ熱を持って脈打っていた。炭骨が再生を始めてはいるものの、以前みたいな速度ではない。肉が寄り、骨が伸びかけては、どこかで止まる。その半端な再生が、むしろ今の透の不完全さを際立たせていた。
「キミの身体、やっぱり欲しいなぁ」
足立の目が、妙に熱っぽく細まる。
「まだ助かるかもしれない。キミさえ良ければ、ねぇ」
透は、反射的に一歩退きかけた。だがすぐに踏みとどまる。恐怖で退いたと気づかれたくなかった。
「ふざけるな」
吐き捨てるように言う。
「誰が、あんたなんかのために」
足立は、その拒絶にほんの一瞬だけ悲しそうな顔をした。
本当に一瞬だけだった。次の瞬間には、もう諦めたみたいに笑っていた。
「そっか」
その声の軽さが、透にはむしろ怖かった。
そして、空気が切り替わる。
次の一撃で決めるつもりだと、透には分かった。足立の足運びが変わる。さっきまでの荒々しさはそのままに、狙いだけがはっきり定まっていく。対して透は、左腕だけで槌を支えながら、頭の中で必死に勝ち筋を探した。
長引けば負ける。それはもう分かっている。
足立の再生を上回る決定打が必要だ。脚を折っても、肩を抉っても、足りない。人の構造が残っている場所に、もっと深く、もっと中心へ届く一撃を入れなければならない。
そのとき、透の頭にひとつの絵が浮かんだ。
足立は処女馬の頭部を半ば取り込んでいる。なら、突進して噛み砕こうとする動きが来るはずだ。口が開いた瞬間、その奥へ大槌を突き込めば、顎でも歯でもなく、喉から頭蓋の内側へ衝撃を通せる。外から殴るより、中を壊したほうが早い。巨人の炭骨が頑丈でも、脳や喉の奥まで完全に変質しているとは限らない。
透はその考えを、言葉にしないまま皐月へ視線で送った。
皐月が察したのかどうかは分からない。ただ、皐月はわずかに顎を引き、銀の星の先を低く構えた。足立の足元に残る泥水と、散らばった鉄片の位置を見ているのが透にも分かった。
いけるかもしれない。
一度だけでも、そう思ってしまった。
足立が咆哮し、突っ込んでくる。
透は真正面から待った。ぎりぎりまで動かない。皐月の魔術が、足立の片脚へ一瞬だけ氷を絡ませ、重心をわずかに前へ崩す。さらに足元の泥水が透の靴裏を押し、前へ出る勢いを補う。
今だ。
透は左腕だけで大槌を逆手に近く持ち替え、突っ込んでくる足立の顔へ、自分から踏み込んだ。怪物の口が大きく裂ける。馬じみた上顎と人の顎の名残が、獲物を丸ごと噛み砕こうと閉じかける。
その奥へ、大槌の頭部を叩き込む。
――はずだった。
足立の動きは、透の予想より一枚上だった。
裂けた口が閉じる寸前、足立はわずかに顎の角度を変えた。噛みつきの軌道そのものをずらし、槌の頭部を真正面から飲み込むのではなく、身体ごと透を抱え込むような噛み方へ変える。透は手応えの異常でそれに気づいたが、もう遅い。
次の瞬間、巨大な歯が透の胸へ食い込んだ。
「――っ、ぁああッ!」
背中側へ下顎の歯が突き立ち、胸元へ上顎の尖った歯が沈む。透は反射で大槌を支えにしようとして、右腕が途中までしか再生していないことを思い出すより早く、左腕だけで柄を胸の前へねじ込み、かろうじて全身を噛み砕かれることだけは防いだ。
だが、防げたのはそれだけだった。
皐月には、その瞬間に透の身体へ何が入ったのかが見えた。
足立の牙の根元から、赤黒いものが滲んだ。血ではない。肉でもない。呪いが形を持つ寸前の、もっと悪いものだった。それは透の傷口へ触れた途端、餌を見つけた虫の群れみたいに広がり、胸骨の奥へ、炭骨の火へ、まだ生きている心臓へ向かって這い込んでいく。
◆
貴船透の身体に、ついに呪いが入ってしまった。
その再生能力があれど、呪いの生物を等しく狂わせる力に抗うことはできない。
呪い、疫病、厄災、穢れ、悪意、タール、祟り、怒号。多くの名を持つということは、それは淘汰できない事実の裏付けに等しい。
かの呪いは、ついに貴船透の命に指をかけた。
「透くん!」
皐月は銀の星を振った。
水の刃が足立の頬を横から裂き、氷混じりの斬撃が馬じみた皮膚と歯肉を切り開く。足立の頭がのけぞり、噛みつきが緩み、透の身体がようやく牙の間から落ちた。だが、落ちた、というより、吐き捨てられた死骸に近かった。泥と瓦礫の上を転がった透は、左手で大槌の柄を握ったまま、しばらく動かなかった。
皐月は駆け寄ろうとした。
その進路へ、足立の尾のように伸びた肉塊が叩きつけられる。瓦礫が爆ぜ、泥水が跳ね、皐月は銀の星を掲げて氷の壁を作ったが、壁は一撃でひび割れ、砕けた破片が頬を掠めた。両腕の内側から、もう熱というより炭の臭いが上がっている。指先の感覚は薄く、ルーンを活性化させるたびに骨そのものが削られていくようだった。
それでも、皐月は止まれなかった。
透の胸元では、黒い枝模様が広がっていた。皮膚の上へ描かれているのではない。内側から浮かび上がっている。枝は肋骨に沿って走り、鎖骨へ伸び、首元へ届こうとしている。透の喉がわずかに震え、血の泡が唇からこぼれたが、その目は開かない。
治癒が追いついていない。
それどころか、再生が呪いに食われている。
皐月はその事実を、理解したくない速さで理解してしまった。
「起きたまえ、透くん」
声はいつもの調子を保てなかった。
足立が、ゆっくりとこちらを見る。
人間のまま残った片眼には、まだ濁りきらない焦点があった。その眼が、倒れた透と、透へ近づこうとする皐月と、皐月の焼けていく腕とを順に眺める。馬の口元から、赤黒い唾液が糸を引いた。
「あー……惜しかったなぁ」
足立は、裂けた頬から血を垂らしながら笑うように言った。
「あと少し深くいければ、そのまま食べられたのに」
皐月は返事をしなかった。
銀の星を構え直し、足立の前脚へ氷の杭を撃ち込む。杭は鱗と甲殻の混じった皮膚へ突き刺さったが、深くは入らない。足立は少しだけ身体を揺らし、煩わしそうに脚を振っただけで、それを砕いた。これまで皐月の魔術は、透が殴るための一瞬を作れていた。けれど、今はその一瞬を使う者がいない。
皐月だけでは、止めきれない。
その計算が、冷たく胸の奥へ落ちた。
逃げることもできない。透を置いて逃げれば、足立は透を喰らう。透を抱えて逃げようとすれば、追いつかれて終わる。対魔局の救援は間に合わない。壁外の瓦礫地帯に流されたこの場所で、今この瞬間に足立を止められる戦力は、もうここにしかない。
そして、その片方は倒れている。
皐月は、銀の星へさらに魔力を流した。
包帯の下で、皮膚が裂けた。指先の黒ずみが手首へ伸びる。痛みで視界が白く滲み、耳の奥に砂を詰められたような音がする。それでも、足立の足元の泥水を凍らせ、瓦礫の影に残る鉄片を氷で縫い止め、次に透へ向かう動きを少しでも鈍らせる。
足立は笑った。
「皐月ちゃんも、そんなに頑張らなくていいのにさ」
その声音は、かつて工房で軽口を叩いていたときとひどく似ていた。
「僕は別に、キミに用はないんだよ。今ほしいのは、そっち」
足立の視線が、倒れた透へ落ちる。
皐月は足立の視線を遮るように立った。自分の身体で透を隠せるはずもない。巨体の前では、薄い白い外套など紙より頼りない。それでも、そこへ立つ以外に選べる場所がなかった。
足立の前脚が、地面を踏みしめる。
砕けた石が沈み、瓦礫の下の水が濁る。次の突進を止めるだけの魔力はもうない。皐月はそれでも銀の星を構え、照準を足立の喉元へ合わせた。届くかどうかは分からない。届いたとしても、致命には足りない。だが、最後に使うならそこしかない。
そのとき、背後で小さな音がした。
金属が、泥の中で擦れる音だった。
◆
透は、自分が泥の上に倒れていることを、少し遅れて理解した。
胸が熱い。けれど身体の奥は、底から冷えていく。裂けた肉を繋ごうとする再生の熱が、傷口から入り込んだ赤黒いものに絡め取られ、炭骨の内側で黒く濁っていくのが分かった。
治らない。
その感覚が、何より怖かった。
呪いは枝のように胸の奥へ伸び、心臓へ向かって根を張ろうとしていた。息を吸うたびに肺の内側で何かが蠢き、自分の身体の中に、自分ではないものがいるという嫌悪が、痛みよりも先に透を震わせた。
いやだ。
死にたくない。足立に食われたくない。皐月を一人で立たせたまま終わりたくない。父と母の言葉も、未見婆さんの顔も、辺居の暗がりも、まだ見たことのない海の青さも、全部が黒い枝に呑まれていくようで、透は血の混じった息を喉の奥で詰まらせた。
左手が泥の中を這う。
指先が小袋に触れた。
無垢鋼。
使い方なんて分からない。けれど、分からないから使わないで死ぬほど、透は物分かりがよくなかった。
生きる。
逃げるためではなく。
やるべき事を果たすために――。
◆
皐月は振り向きかけ、すぐに足立から目を逸らしてはいけないと判断した。だが、視界の端で、透の近くに散らばっていた鉄片がわずかに震えているのが見えた。風ではない。足立の振動でもない。瓦礫の隙間に落ちていた釘、折れた配管の欠片、砕けた大槌の金具、そのすべてが、同じ一点へ向かって引かれるように微かに動いていた。
足立も気づいた。
「……ん?」
次の瞬間、倒れていた透の身体の周囲で、白金色の火花が散った。
皐月は息を止めた。
透の胸元から広がっていた赤黒い枝模様が、火花に触れた部分から焼けている。完全に消えているわけではない。だが、侵食の勢いは止まっていた。透の右肩、失われた腕の断面に押し当てられた赤い無垢鋼が、泥と血にまみれながら雷を孕み、心臓の鼓動とは別の拍動で明滅している。
透の左手が、無垢鋼を離さずに押さえていた。
いつの間にそれを取り出したのか、皐月には分からなかった。牙から解放され、地面を転がったわずかな時間に、透は意識を失いながらもそれを掴んだのかもしれない。あるいは、意識がなくても、身体の奥に残った生への執着だけが手を動かしたのかもしれない。
無垢鋼が融ける。
金属でも、血でも、炎でもないものになって、透の右肩の炭骨へ沈んでいく。皐月はそれを、ほとんど呆然と見ていた。宝物が形を成す瞬間を、理論としては知っている。文献でも読んだ。銀の星を得たときの記憶もある。だが、こんな乱暴な生成は知らない。時間も儀式も整わないまま、死にかけた身体と呪いの侵食と狩る意志だけを燃料にして、無垢鋼が強引に形を選んでいる。
まず、赤い鋼骨が生えた。
肩口の炭骨から、失われた腕の輪郭をなぞるように、内部骨格が伸びる。次に、その上へ黄金の琥珀に似た半透明の鉱石が流れ、筋肉と皮膚の代わりに関節を覆い、手首を作り、掌を作り、五本の指を組み上げていく。硬質な結晶でありながら、完成していく動きは生々しく、皐月にはそれが武器なのか、身体なのか、宝物なのか、ひとつに分類できなかった。
雷が走った。
義手の内側の赤い鋼骨に沿って、白金色の火花が奔り、それが透の胸へ食い込んでいた呪いへ噛みつく。赤黒い枝が一斉に焼け、透の背が痙攣した。血を吐く音が、瓦礫の上で生々しく響く。
それでも、透は膝をついた。
足立の顔から、笑みが消えた。
皐月はその瞬間、自分の腕の痛みを忘れた。
泥と血にまみれた透が、ゆっくりと顔を上げる。右肩から先には、人の腕ではないものがあった。黄金の琥珀のような半透明の義手。その内側を赤い鋼骨が走り、関節の奥で雷が瞬いている。傷だらけの胸には、焼け残った呪いの痕がまだ黒く残っていたが、それ以上は広がっていない。
透は、立ち上がった。
ふらついていた。まともな状態ではない。呼吸も荒く、顔色は死人のように悪い。それでも、足は地面を踏んでいた。左手で拾った大槌の柄を、今度は新しく生まれた右手へ渡す。雷鋼の義手が柄を握った瞬間、周囲の鉄片が一斉に震え、まるで彼女の帰還に応えるように乾いた音を立てた。
『宝物』は、その者の心象を形と成す文字通りの宝物。
それを透は手にした。文字通り、手にしたのだ。
透は皐月の横へ並んだ。
皐月が何か言うより早く、透は足立を見据えたまま、血に濡れた口元を乱暴に拭った。
「――あとは任せて」
声は掠れていた。
けれど、折れてはいなかった。
皐月は銀の星を握り直した。もう腕は限界に近い。だが、さっきまで足元から崩れていた戦場の空気が、確かに変わった。絶望の重みで沈んでいた瓦礫の上を、白金色の雷が細く走り、透の黄金の右腕へ吸い込まれていく。
足立が、低く唸った。
透は雷鋼の義手で大槌を担ぎ直し、わずかに口角を上げる。
「終わらせよう、足立明季」
次の瞬間、透は白金の雷を散らしながら、魔獣化した足立へ向かって駆け出した。




