25.決戦
旧都市のはずれ、崩れた水路の終着に近い瓦礫地帯であるらしく、見渡す限り、雪を薄く被ったコンクリートの残骸と、錆びた鉄骨と、黒い泥が折り重なっている。照明塔の薄光が遠くから滲んでくるだけの夜で、対魔局の管理された白い明かりとは違い、何もかもが輪郭を失いかけていた。耳に届くのは、水路からまだ吐き出されつづける濁流の音と、どこかで折れた鉄が軋む音だけで、人の気配はひとつもない。
透は泥と血にまみれたまま立ち上がろうとして、片膝をついた。
全身が痛い。右肩は以前から負っていた傷がまだ癒えきっておらず、水に打たれたせいで内部の痛みまで掘り返されたようだった。それでも大槌は手から離していない。柄の感触だけが、いまここに自分がまだ立っている証拠みたいだった。
少し離れた場所に、皐月が倒れていた。
透がよろめきながらそちらを見ると、皐月は水路脇の瓦礫へ身体を預けるようにして、かろうじて上体を起こしていた。銀の星はまだ手放していないが、両腕は発熱で赤くなっており、外套の袖口から覗く皮膚は痛々しいほど色を変えている。魔術の使いすぎだと、透にも分かった。これ以上無理をさせれば、皐月の炭骨のほうが先に限界を迎えるかもしれない。
そして、そのさらに先、水煙の向こうで、ひとつの影がゆっくりと立ち上がった。
足立明季――だったもの。
もはや人の均衡は、そこには残っていなかった。
巨人の血に由来する巨大な体躯は、そのまま異様な迫力を保っていたが、顔の右半分はすでに処女馬を思わせる馬の頭部へ変じており、額からは黒くひび割れた一本角が前方へ伸びている。片眼は人のまま、いやになるほど焦点を失わず残っていて、もう片方は馬の獣じみた濁った目となり、アンバランスな顔の上で一緒に透を見ていた。
上半身は異様に肥大していた。右腕は鱗とも甲殻ともつかない硬質な皮膜に覆われ、光の乏しい闇の中でも鈍く照り返している。左腕や脇腹からは、これまで取り込んできた命の残滓みたいな手足や肉片がうごめき、独りでに痙攣し、時折そこだけが別の生き物みたいに動いた。下半身は処女馬のような筋肉質の脚へ寄っており、蹄が地面を踏み砕くたび、泥と火の粉が跳ねる。その全体像は、呪いが気まぐれに組み上げた悪夢でしかないのに、中心にいる意志だけは確かに足立明季のままだった。
皐月が苦しげに息を吐き、それでも目だけは怪物から逸らさずに言う。
「目に焼き付けておくといい。あれほど呪いが進行した人類は珍しいからね」
透は、その言葉を聞きながら、眼前の怪物を見つめた。
勝ち目が薄いことぐらい、本能で分かる。
いまの皐月は限界が近い。透自身も、全身を濁流に叩き回されたうえ、まともに休んですらいない。対する足立は変貌を続け、時間と共に強大に、強靭になっているように思えた。ここで真正面からぶつかれば、どちらが先に潰れるかなんて考えるまでもない気さえした。
それでも、ここで逃げれば、あれはまた人のいる場所へ向かう。
対魔局の外へ出た以上、すぐに誰かが止めてくれる保証もない。あの巨体と呪いを抱えたまま、もし辺居へ、あるいは帝都の綻びへ戻られたらと思うと、透の足は自然に前へ出ていた。
透は皐月を背に庇うように一歩前へ出る。すると皐月が、息の熱を抑えきれないまま、かすかに笑うような声で問うた。
「本当にやるのかい?」
透は視線を怪物へ向けたまま答える。
「獣を狩るのは、あたしたち狩人の義務なんでしょ」
それから、ほんの一瞬だけ皐月へ振り向く。
泥と血でぐちゃぐちゃの顔のまま、それでも口元だけは少し吊り上がった。
「これは、あたしがやるべき事なんだ」
そう言って、透は魔獣化した足立へ向き直った。
◆
怪物と化した足立が、泥を踏み砕いた。
最初に来たのは声だった。馬のいななきに似ているのに、どこか歪な音。喉の奥で潰れた人の呻きが無理やり押し広げられ、その上へ獣の咆哮を被せたような、聞いているだけで鼓膜の裏がざらつく異様な声だった。それを合図にするみたいに、足立の巨体が一直線に透へ突っ込んでくる。下半身は処女馬じみた筋肉質の脚へ寄っており、蹄が瓦礫まじりの地面を蹴るたび、泥と砕石が爆ぜた。
透は、ほとんど反射で横へ跳んだ。
直後、足立の前脚――もう腕と呼ぶべきか蹄と呼ぶべきか分からないそれが、さっきまで透のいた場所へ叩きつけられる。地面が砕け、濁った水と泥が噴き上がった。その一撃の重さに、まともに受けていたら骨ごと平たくされていたと、透は跳んだ先で息を呑みながら思い知る。
だが、躱したただけでは終わらない。
透は着地の反動をそのまま前へ返し、大槌を振り抜いた。真っ赤な頭部が、怪物の脇腹へめり込む。手応えはあった。けれど、返ってきた感触は異様に硬かった。肉を殴ったというより、分厚い甲冑の下へ鈍器を叩きつけたみたいな重く鈍い衝撃だ。足立の身体はぐらりと傾いだものの、倒れない。むしろ打撃を受け止めたまま、残った人の眼だけが透を見据えていた。
「ちっ……!」
透が舌打ちを漏らした、その横から、皐月の魔術が走る。
銀の星が低く唸り、足立の足元の泥水が一瞬で凍りつく。さらに、水路からはみ出した水と空気中の湿気までも巻き込み、氷の枷が処女馬じみた脚へ絡みついた。だが、怪物の体格と膂力、そして呪いによる変質が相まって、それだけでは止まりきらない。足立は筋肉の膨張だけで氷を軋ませ、次の瞬間には半歩、無理やり前へ出ていた。
透はその隙へ、今度は顎を狙った。
人の顔と馬の頭部が歪につながった、その境目。そこなら少しは柔らかいかもしれないと踏んで、大槌を斜め下から跳ね上げる。鈍い音がして、足立の頭がわずかに跳ねた。そこへ皐月が横合いから氷の杭を撃ち込む。半透明の杭が肩口へ食い込み、怪物の巨体が初めて、はっきりとよろめいた。
――効いてる。
透の胸の内でその確信が灯るより先に、足立は地面をひねるように踏み抜いた。
蹄が瓦礫を抉り、砕けたコンクリート片と鉄骨の切れ端が、大砲みたいな勢いで撃ち出される。透は咄嗟に身を捻り、一つ目を避け、二つ目を槌の柄で弾いた。だが、その間にも三つ目、四つ目と飛んでくる。怪物の力任せの攻撃なのに、質量と速度が洒落にならない。
巨人の炭骨は、他の人種よりも遥かに頑強だ。森人や人間の骨格では考えられない熱量と圧力に耐えられる。その分だけ、表面を殴ったところで生半可な一撃ではひびすら入らない。だから真正面から上半身を潰すような戦い方では押し切れないのだ。
「透くん、あれだけ巨大になろうと内臓機能は大して変わらない、はずだ」
銀の星の先で氷の線が弧を描き、足立の進路へ薄い足場が次々と生まれていく。
「脚部や関節を狙いたまえ。あるいは内部へ響かせる打撃だ」
透はそれを聞き、即座に狙いを切り替えた。
上を殴っても崩れないなら、まずは脚を折る。倒れさえすれば、どうにかなる。そう腹を括った瞬間、足立の周囲へ散っていた肉塊が一斉に動いた。地面へ落ちていたそれらは、泥の上を這い回り、小型の魔獣みたいな速度で透へ食らいつこうとしてくる。透は前進しながら、その一つを蹴り飛ばし、もう一つを槌の石突で叩き潰した。潰れた肉塊は黒い液を飛び散らせ、それでもなお痙攣を止めない。
「きっしょ……!」
吐き捨てながらも、透は止まらない。
だが、足立の反応は早かった。
魔獣化した右腕が、空気ごと潰す勢いで振り下ろされる。まともに受ければ終わると、透の身体が先に判断した。透は滑り込むように地面へ身を沈める。視界のすぐ上を、鱗とも甲殻ともつかない硬質な皮膜に覆われた腕が通り過ぎ、風圧だけで頬が引きつった。
その瞬間、皐月の援護が入る。
透の足元に薄い氷の足場が走り、その上を水流が押す。滑るのではなく、射出される感覚だった。透の身体が強引に加速し、足立の脚の外側へ回り込む。皐月はさらに、斜め上へ持ち上げるような水の流れを重ねた。
「行け!」
透はその声に乗った。
ほとんど跳ぶというより、空中へ投げ出される勢いで浮き上がり、そのままの速度と体重を全部乗せて、大槌を足立の膝へ叩き込む。狙うのは関節だ。肥大した筋肉と皮膜の継ぎ目、その一瞬だけ露出した脆さへ、真っ直ぐ打ち込む。
衝撃が足立の脚を貫いた。
怪物の巨体が、確かによろめく。膝が落ちかけ、泥を大きく踏み外す。足立の喉から、人とも獣ともつかない苦鳴が漏れた。
――いける。
透の胸に、ほんの一瞬だけ手応えが灯る。
だが、その直後だった。
足立の反撃は、さっきまでの比ではなかった。
巨体が大きくしなり、次の瞬間には足元の瓦礫ごと地面を蹴り上げる。砕けた石、鉄骨、配管の破片、泥に埋もれていた旧都市の残骸、その全部が一斉に飛んできた。もはや投擲というより、地面そのものを砲撃に変えたみたいな攻撃だった。
透は着地と同時に一発目を叩き砕く。二発目も、身を捻って避けるか迷った末、真正面から大槌で弾き飛ばした。だが、三発目は見えたときにはもう遅かった。
鉄骨の切っ先を含んだ瓦礫の塊が、右肩口を正面から抉った。
嫌な音がした。
肉と骨が同時に裂け、透の右腕が肩から吹き飛ぶ。
血が噴き、視界が一瞬で白く染まる。何が起きたのか理解するより先に、痛みが脳天へ突き抜けた。呼吸が止まる。身体の右半分がごっそり消えたみたいな空白と、そこに遅れて押し寄せる激痛が、思考を叩き潰そうとする。
それでも透は、腕が千切れるその前に、大槌だけは宙へ放っていた。
自分でも何故そんなことができたのか分からない。ただ、これを手放したら終わるという本能だけが、身体を動かした。透は着地の衝撃でよろめきながら、左腕一本で落ちてきた柄を掴み直す。重い。片腕だけでは腕の付け根が軋み、肩が抜けそうになる。それでも離さない。
皐月が水流で透の落下を和らげる。泥水が足元へ集まり、最後の一撃を受け止めるようにクッションになる。透はそれに滑るように着地し、数歩ぶん後退してようやく止まった。
「無事かい? 呪いは?」
皐月の声が飛ぶ。
透は歯を食いしばり、肩口から噴く血を見た。痛みで眩暈がする。だが、まだ黒ずんではいない。少なくとも、いまの一撃で呪いそのものが深く食い込んだ感触はない。
「大丈夫!」
叫び返した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
右肩の断面は熱を持ち、炭骨が再生を始めようと蠢いている気配はある。けれど、腕一本を失った状態で、その間ずっと戦い続けるのは現実的ではない。皐月の両腕もすでに限界が近い。足立は膝へ確かにダメージを受けたはずなのに、それでも未だ倒れる兆しは無い。




