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24.水浸しの逃走


 足立は壁へ片手をつきながら、よろめくように後ずさった。


 人の形を保っているのが不思議なほどだった。肥大した頭部、馬じみた横顔、肩口から覗く余分な肢、片方だけ異様に太くなった腕、そして首筋から胸元へ這い回る蛇のような刺青。それらはもう同じ身体の上にあるべき部位同士には見えないのに、なお足立明季という一個の意思だけが、そこへ無理やり縫い止められているみたいだった。


 皐月が低く息を吐く。


「透くん」


 呼ばれたそれだけで、透は歯を食いしばった。大槌を左手で握り直し、立ち上がった。


 肩へ無理やり乗せた重量が、失った右腕の不在を嫌というほど教えてくる。以前なら身体の中心へ自然に落ちていた重みが、いまは片側へ偏っていて、構えるだけで骨が軋んだ。だが、その不均衡ごと押し切るしかない。


 透が走り出すのと、皐月が銀の星を振るうのは、ほとんど同時だった。


 床一面に薄く走った霜が、瞬く間に鋭い氷の筋へ変わる。大型水道管の足元へ、足立の退路を裂くように氷が走り、同時に頭上の配管からも結露を奪って小さな氷刃が降る。足立はそれを避けながら延々火劇を振るった。熱と光の弧が、地下水路の湿った闇を一瞬で照らし、氷のいくつかが蒸気になって散る。


 透はその蒸気の中へ飛び込んだ。


「逃がすか!」


 大槌を横殴りに振るう。片腕では威力も安定もしない。それでも、まともに当たりさえすれば足立の細い身体は持ちこたえられないはずだった。だが、足立はそこで真正面から受けるのではなく、太く歪んだ片腕で槌の柄を弾き、刃のない側から延々火劇を叩きつけてくる。


 鈍い衝撃が透の肩へ返った。片腕の支えでは押し切れず、足が半歩滑る。


 その隙へ肉塊が群がった。


 足元、壁、配管の陰、あらゆる場所から小さな異形が這い出してくる。透は悪態をつきながら、一つを柄の石突で潰し、もう一つを蹴り飛ばした。潰れた肉塊から黒い汁が飛び散り、それが床の上でまた蠢く。生きが悪いどころではない。切っても終わらず、潰しても静かに死なない。


 皐月の氷槍が一本、足立の脇腹を掠めた。


 だが掠めただけで、決定打にはならない。足立は苦しげに息を詰め、それでも嗤った。


「しつこいなぁ、ほんと」


 その言葉と同時に、彼の身体からまた肉塊が剥がれ落ちる。今度は人の顔の半端みたいなものを表面に浮かべた塊だった。目に相当する窪みだけを持ち、そこから真っ黒な液を垂らしながら、床を跳ねるようにして皐月へ飛びつく。


 皐月はすぐに氷壁を一枚噛ませ、それを弾いた。だが、次の瞬間には別の塊が配管の支柱へ噛みつき、もう一つが隔壁の下端へ体当たりしている。地下区画そのものが、じわじわと悲鳴を上げ始めた。


 透は、そこでようやく気づいた。


 肉塊は自分たちだけを狙っているわけではない。逃走に都合のいい場所を本能的に広げるみたいに、周囲の設備へも食らいついているのだ。水道管の継ぎ目、隔壁の留め具、保守路の手すり、そういう「壊れれば厄介な場所」ばかりへ集まっている。


「皐月、管――!」


 叫ぶより早く、足立が動いた。


 延々火劇が、水道管の基部を薙いだ。おそらく最初から狙っていたのだろう。刃の熱が金属へ走り、そこへ肉塊の一つが噛みついた継ぎ目が、嫌な音を立てて歪む。皐月の氷も、足止めのために配管の外側へ這わせていたぶんだけ、金属の膨張と収縮を加速させてしまった。


 透は反射で前へ出た。足立を殴ってでも管から引き剥がそうと、大槌を振り上げる。


 だが、その一撃が届く直前、さらに別の肉塊が足元へ絡みついた。透は体勢を崩し、それでも振り切った槌は、足立ではなく、管を支える補助柱の一部を打ち砕いてしまう。


 がん、と鈍い破砕音。


 次の瞬間には、何かが決壊する音が地下全体を揺らした。


 大型水道管の側面が裂けた。


 最初は細い白い筋だった。だが、ひびは一瞬で広がり、そこから圧力のかかった濁流が噴き出す。冷たい水が槍みたいな勢いで地下通路へ叩きつけられ、砕けた氷も肉塊も、倒れた器具も全部まとめて跳ね上げた。透はまともにそれを受け、肺の空気ごと後ろへ押し流される。


「っ、が――!」


 息ができない。


 立とうとしても、水圧がそれを許さない。膝から下が一瞬でさらわれ、片腕の身体では重心も取りようがなかった。皐月が銀の星を床へ突き立てて踏ん張ろうとしたのが見えたが、その足元へさらに別方向から水が噴き込み、足立の肉塊ごと流れ込んでくる。隔壁も耐えきれず、継ぎ目から崩れ始めた。


 足立の姿も、水煙の向こうで大きく揺れた。逃げるために自分で壊したはずなのに、その当人ですら、もはや流れを制御できていないのが分かる。太くなった腕でどこかへしがみつこうとするが、次の波がそれを引き剥がした。


 透は流されながら、大槌だけは離すまいと必死に握りしめた。手放せば次は拾えない、という予感だけが鮮明だった。片腕に全体重がかかり、肩が千切れそうになる。それでも槌の柄を掴んだまま、透は水の中で無理やり顔を上げる。


「皐月!」


 叫んだつもりだった。だが声は水に呑まれ、喉へ泥水が入り込むだけだった。


 皐月は少し先で、銀の星を胸へ抱えるみたいにして流されていた。白い外套が水を吸って重くなり、それでも皐月は一瞬だけこちらを見た。助けを求める顔ではない。ただ、意を決したような表情だった。


 その直後、三人をまとめて濁流が呑み込む。


 対魔局の地下区画は、旧都市時代の排水路と繋がっている。壊れた隔壁と放流管から流れ込んだ水は、一気に保守用通路を満たし、そのまま古い下水道へ流れ込んでいった。肉塊も、砕けた設備も、鉄骨も、全部一緒だった。後ろからまた崩落音が響き、水路そのものがところどころで潰れ始める。もし対魔局側がすぐ追ってきたとしても、あの濁流と崩落の中では、とても同じ経路を辿れない。透にも、それだけは分かった。


 水は冷たいはずなのに、痛みで熱かった。


 何度も壁へ叩きつけられる。肩、背中、腰、脚。片腕のままではまともに受け身も取れず、ただ槌を抱えたまま転がされるしかない。途中で肉塊らしきものが首筋へ触れ、反射的に振り払おうとしても、水の勢いのほうが速い。息継ぎの隙もなく、上も下も分からないまま、ただ流される。


 やがて、流れの勢いが変わる。

 狭い水道管の圧迫感が一瞬ゆるみ、次の瞬間には、身体が空中へ放り出された。


 透は半ば打ち上げられるようにして、水と瓦礫の塊ごと地面へ叩きつけられた。泥と雪が混じった冷たい地面が頬へ食い込み、遅れて全身の痛みがまとめて襲ってくる。何度か咳き込み、濁った水を吐き出して、ようやく呼吸を取り戻す。


 見上げれば、夜空があった。


 帝都の管理された白い灯りではない。壁外の、照明塔の光が遠くから滲むだけの夜だ。崩れた旧都市の残骸と、雪を被ったコンクリートの影が、見慣れた壁外の輪郭で透を囲んでいた。


 対魔局本部ではない。

 壁の外だ。


 透は泥水に濡れた髪を払う余裕もなく、すぐに身体を起こした。少し離れた場所に、皐月もまた水路から吐き出されていた。白い外套はずぶ濡れで、息も荒いが、銀の星はまだ手から離していない。そのさらに先、瓦礫の山の向こうで、足立の影がゆらりと立ち上がるのが見えた。


 人の形は、もうほとんど残っていない。

 それでも、まだ足立明季の意志だけが、あの異形の中心でこちらを睨み返している。


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