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23ー5.悪辣の巨人

 足立明季は濁流の中で、夢を見ていた。

 長い長い記憶は混然一体となって、坩堝のごとく混じり合う。

 走馬灯か、泡沫の夢か、あるいは呪いによる狂気が齎した一時の幻覚か、誰にもわからない。


 足立足立は実のところ森人ではなく、『巨人』であった。

 四種の人類の中で、もっとも強大で巨大な人種であったのだが、今は見る影もなく、傍から見れば森人にしか見えず、彼自身も自らの種族を森人として振舞っていた。


 彼が巨人の背丈を如何にして縮め、耳を尖らせたのかについて、それらを説明するのに多くの言葉は必用ないだろう。

 他者を取り込む魔法陣を身体に刻んで、それから〝森人を喰らった〟ことにより、その体躯と力を手に入れたのだ、

 

 足立明季――あるいは、ミハエル・ニコラエヴナ・ロズール。

 彼は東洋でも数えるほどしか残っていない巨人の家に、長男として生まれた。ニコラエヴナ・ロズール家は代々、皇族に仕える巨大建築の家系であり、防壁の基礎、砦都市の外郭、旧時代の高塔を流用した霊場設備、そして人間の尺度では測りきれないほど重い石と鉄を扱う仕事を任されてきた。


 屋敷にはいつも、石の匂いがあった。


 磨かれた設計台、壁一面に掛けられた図面、無垢鉱を含む岩盤の模型、皇族から下賜されたという古い測量具、歴代当主が関わった建築物を描いた絵画。父はそれらを誇りとして語り、母は一族の務めとして聞かせ、家に仕える者たちは、幼い長男がやがてその仕事を継ぐものだと疑っていなかった。


 けれど、ミハエルは石にも、鉄にも、建物にも、ほとんど興味を示さなかった。


 彼が見ていたのは、図面の外側だった。使用人たちが休憩中に交わす噂話、都市から運び込まれる芝居の記録映像、秘傘の下で歌う流行歌手、祭りの日だけ門の外へ聞こえてくる笑い声、旅芸人の手品、賭場の話、娼館の話、食べ物や音楽や遊びや恋や虚栄や欲望が、人間たちのあいだで次々と形を変えていくことの方が、何百年も残る石造りの塔よりずっと面白く見えた。


 ニコラエヴナ・ロズールの者たちは、それを子どもの気まぐれだと思っていた。


 巨人としての幼年期は長い。人間の子が数年で変わるところを、巨人の子はもっと長く、もっとゆっくり変わる。だから大人たちは、いずれミハエルも自分の血と家の重みを理解するのだと考えた。誰も、その退屈そうな目が、建築ではなく、生き物そのものを見ていることに気づかなかった。


 最初のきっかけは、森人の従者の腕だった。


 ニコラエヴナ・ロズールに仕える森人の一族は古く、巨人の家に奉仕するための特別な技を伝えているとされていた。幼いミハエルはある日、その従者が袖をまくった瞬間、皮膚の下へ沈むように刻まれたルーン文字を見た。装飾にしては深く、傷痕にしては整いすぎていて、皮膚の上に文字があるというより、肉体そのものが文字の形へ従わされているようだった。


 ミハエルはそれを指差し、何かと問いただした。


 従者は最初、何でもありません、と答えた。けれど、巨人の子の手が自分の腕を掴み、その細い骨が軋むほど力を込められると、やがて観念したように口を開いた。これは奉仕のための術であり、巨人の肉体の一部を食し、その性質を己へ馴染ませることで、森人の身でありながら巨人に近い耐久力と筋力を得るものだと、震える声で説明した。


 ミハエルは、森人の口から語られる〝秘密〟をひどく面白いものとして聞いた。


 自分以外のものが、自分ではない何かを取り込むことで変わる。肉体が、血が、骨が、種が、文字によって別の形へ近づいていく。建物の設計図より、父が語る皇族への忠勤より、その従者の皮膚に沈んだ文字の方が、ミハエルにはずっと鮮やかに見えた。


 だから彼は、自分の身体にも同じものを刻むよう命じた。


 従者は蒼白になり、それは畏れ多いことです、と首を横に振った。巨人の身へ、奉仕者の術を返すなどあってはならない。これは巨人に仕えるための秘伝であり、巨人の子へ施すものではない。そう何度も言った。けれど、足立がその肩へ手を置き、巨人の中でもとりわけ優れていた握力で骨ごと潰しかけると、従者はそれ以上拒めなくなった。


 ルーン文字は、長い時間をかけて足立の身体へ刻まれた。


 巨人の皮膚は厚く、血は熱く、術は何度も弾かれかけたが、従者は命じられるままに針を入れ、墨を入れ、血を混ぜ、文字を繋げていった。痛みはあった。だが、足立はその痛みすら面白がった。自分の身体が自分だけのものではなくなり、別の法則へ接続されていく感覚は、彼がそれまでに味わったどんな遊びよりも刺激的だった。


 術式が完成した夜、従者は膝をついて許しを乞うた。


「どうか、どうか、お許しください。我らの献身をお認めください。申し上げたではないですか。人の命は尊く、巨人も小人も森人も、すべての人類の命の重みは等しいのだと」


 ミハエルはその言葉を、最後まで聞かなかった。

 彼から見る命の価値は等しくなく、自分にとって利になれば重くなる。ただ、それだけに過ぎず、それだけが彼の善悪を定めていた。


 森人の従者を喰らったあと、ミハエルの身体には変化が起きた。耳の形がわずかに尖り、指先へ刻まれたルーンが自分の意思に合わせて淡く光り、文字を刻むという行為そのものが、手の動きではなく、呼吸や瞬きと同じくらい自然なものとして理解できるようになった。従者が持っていた知識の断片、肉体の性質、種としての輪郭が、巨人の身体の中でほどけ、混ざり、彼のものになった。


 ミハエルは、それを成功だと思った。


 それから彼は、密かに実験を始めた。


 小人を捕まえ、人間を捕まえ、時には屋敷に出入りする者の中から姿を消しても騒ぎになりにくい者を選んだ。だが、ただ喰らっただけでは何も起こらなかった。耳も、骨も、魔力の流れも、記憶らしきものも、何ひとつ自分の中へ残らない。肉は肉で、血は血で、腹を満たすほどの量も無いので、徒労だけを感じていた。


 そこで、ミハエルは考えた。


 従者には、あの入れ墨があった。巨人の性質を受け入れるために、肉体を術式へ従わせる文字が刻まれていた。ならば、取り込む相手にも同じように文字を刻む必要があるのではないか?


 試すと、結果はすぐに出た。


 ルーンを刻んだ者を喰らったときだけ、ミハエルの身体は相手の一部を獲得した。目の色、声の質、骨の軽さ、皮膚の柔らかさ、魔力の癖、指先の器用さ、種に固有のわずかな特徴。それらは完全ではなかったが、積み重ねることができた。ミハエルは一つずつ、欲しいと思ったものを選び、奪い、自分の中へ仕舞い込んでいった。


 誰も、すぐには気づかなかった。


 ニコラエヴナ・ロズールの大人たちは、ミハエルの嘘を見抜けなかった。彼は欲望のままに動いたが、欲望を隠すことだけは驚くほど巧かった。目撃者がいれば、別の話で塗り替えた。行方不明になった者がいれば、もっともらしい理由を用意した。疑う者がいれば、疑うこと自体が不自然に見えるよう周囲の空気を整えた。彼にとって嘘は、他者を騙すための道具というより、自分が自由に遊ぶための通路だった。


 やがて、ミハエルは姿を消した。


 ニコラエヴナ・ロズールの長男が行方不明になったという出来事は、巨人社会の内側で前代未聞の事件として密かに語り継がれることになる。幼い巨人が一人、屋敷から消えた。さらわれたのか、事故に遭ったのか、家を捨てたのか、誰も答えを持たなかった。だが真実は、もっと単純で、もっと醜かった。


 ミハエルは、自分の体躯を変えていた。


 喰らった人間たちの要素を寄せ集め、巨人の骨格を折り畳み、森人の術式で形を偽り、人の世へ紛れ込める大きさと顔を作った。尖った耳を持つ森人として振る舞うことも、人間に近い姿で群衆へ溶けることも、少しずつ可能になっていった。足立明季という名も、その頃に選んだものだった。


 人の世は、彼にとって尽きない娯楽だった。


 食べ物、音楽、酒、芝居、賭け事、恋、暴力、嘘、金、崇拝、軽蔑、秘密、裏切り。巨人の屋敷の中では遠くに聞こえるだけだったものが、街の中ではいくらでも手に入った。足立はそれらを貪った。欲しいと思えば手を伸ばし、邪魔なら排除し、必要なら抱き込み、飽きれば捨てた。人を傷つけることも、喰らうことも、殺すことも、彼の中では特別な境目を持たなかった。


 罪悪感はなかった。


 死が恐ろしいものだという認識はあった。自分が死ぬことは怖かった。痛みも、消滅も、終わりも、彼は嫌った。けれど、他者にとってもそれが同じように恐ろしいものだと、自分の欲望を止める理由として考える機能が、彼には備わっていなかった。他人は、笑う。泣く。怒る。怯える。愛する。憎む。そういう反応を返す存在ではあったが、彼の内側で自分と同じ重さを持つことは一度もなかった。


 シルバーピット・リッレクランスと出会ったのは、辺居の娼館だった。


 その頃の足立は、性欲を満たしながら金も得られるという理由で、娼館をひとつ立ち上げていた。自分自身も最高級の男娼として客を取り、相手が求める振る舞いを読み、望む言葉を与え、望む顔を作り、望むだけの嘘を差し出した。彼にとってそれは屈辱ではなく、人間たちが何を欲しがるのかを間近で観察できる、ひどく便利な遊び場だった。


 シルバーピットは、その客の一人だった。


 彼女は他の客のように、身体や言葉だけを買いに来たわけではなかった。辺居の荒れた空気を纏い、煙草の匂いと疲労を持ち込み、金を払ってもなお、どこかで誰にも頭を下げていないような目をしていた。足立はその目を面白いと思った。だから、いつもより少しだけ長く話を聞いた。


 辺居を変えたいという悲願。


 国にも、町中にも、まともな狩人制度にも届かない場所で、それでも人を救うための仕組みを作るという執念。一人の人間がそれほど大きな欲望を抱え、そこへ他人の命や金や法を巻き込んでいく様子は、退屈しのぎとして十分に魅力的だった。やがて足立は、シルバーピットとの関係を深め、白枝会へ出入りするようになった。


 そして彼は、狩人化の霊薬に手を伸ばした。


 理由は、使命ではない。復讐でもない。誰かを守りたいという願いでもない。ただ、なんとなく、やってみたいと思った。巨人の肉体、森人の術式、取り込んだ人々の断片、その上に狩人という別の性質を重ねたら、自分はどう変わるのか。それを知りたかった。


 霊薬が身体へ馴染んだとき、足立は笑った。


 ――胸が躍るって、こういう事なんだろうなぁ。


 白枝会で狩人として働くようになってから、明季が人を喰らう頻度は、以前に比べれば目に見えて減った。


 それは改心ではなかったし、飽きたというのも違う。単純に、霊薬によって狩人化した身体が、彼に新しい遊び場を与えたからだった。成霊化がもたらす骨の発火耐性と魔力生成能力の向上は、これまで明季が半ば諦めていた魔術や礼装の領域へ、改めて手を伸ばすための土台になった。


 どれだけ他者の肉体を取り込み、どれだけ別の種の性質を寄せ集めても、炭骨の問題だけは思うように越えられなかった。取り込んできた者たちの断片、それらを組み合わせても、魔術を扱ううえで必要な安定や耐性には限界があり、足立はいつしか、魔術や礼装そのものに対しても興味は失せていった。


 けれど、霊薬はその停滞を解きほぐした。


 狩人の身体になったことで、礼装への耐性が増し、魔力を生み出す骨の反応も変わった。自分の身体がまた別の段階へ進む。その感覚は、幼いころに森人の従者を喰らった時と似ていた。それは、久しぶりに見つけた退屈しのぎであり、もう一度熱中できる玩具だった。


 表向きの彼は、白枝会に所属する森人の礼装技師兼狩人である。


 礼装の開発、整備、武器の調整、現場での支援。どれも彼には向いていた。森人として得たルーン刻印の力と、長い年月をかけて覚えた人間社会の読み方があれば、周囲が求める程度の有能さを演じるのは難しくない。必要なときには狩人として前に出て、必要のないときには工房へ引っ込み、ほとんどの者は彼をなんだかんだ便利な同僚として扱った。


 あるとき、白い女が代表に拾われてきた。


 名は皐月。名字は知らされなかった。代表は足立に、後輩として面倒を見てやれという内容の指示を出した。足立はその白い女を観察した。灰青の瞳、白い外套、年齢に似合わない落ち着き、どこか浮世離れした言葉遣い。扱いづらそうではあったが、それ以上の興味は湧かなかった。


 彼の中で、他者への興味はいつも用途から始まった。


 皐月についても同じだった。戦力としてどう使えるか、礼装の適性はどの程度か、白枝会の中でどんな位置に置かれるか、そして女として消費できる余地があるか。そういった項目をひと通り確かめるように、足立は何度か距離を詰め、軽い誘いをかけ、冗談めかして身体の関係を持てないか言い寄ったこともある。


 皐月は、それを特に怒るでも怯えるでもなく、ただ面白くもなさそうに受け流した。

 足立は少しだけつまらないと思い、それ以上、皐月に深く踏み込むことはなかった。


 だが、貴船透が現れてからは違った。

 最初は、気の毒な女子高生だと思った。力の使い方も知らず、怒りも恐怖も顔に出し、白枝会の仕組みを理解しきらないまま大槌を握っている。けれど、その身体を見たとき、足立の中で久しぶりに熱い渇望が沸き立つのを感じた。


 透は、驚異的な不死性を見せてくれた。


 傷ついても、裂けても、砕けても、超再生によって力づくで元通りになる様は、足立をしてバケモノと思わせた。発火への耐性という意味では、足立が長い時間をかけても完全には手に入れられなかったものを、透は天性の素質で越えてみせた。そこに理屈の正しさはなく、完成された術式の気品もなかった。ただただ、野性的な生存本能だけがあった。


 当然、それが欲しくなった。


 透を喰らえば、自分の中で何が変わるのか。あの再生能力を取り込めば、炭骨の限界も、火への弱さも、肉体の崩壊も、もっと楽に越えられるのではないか。彼女の身体にルーンを刻み、術式で整え、その上で取り込めば、自分はまた別の段階へ進めるのではないか。そう考えるだけで、久しく感じていなかった熱が、身体の奥でゆっくりと膨らんだ。


 ただし、それは簡単な獲物ではなかった。


 透はすでに狩人であり、白枝会の身内であり、代表の目も、皐月の目もある。何より本人が気難しい。力で押さえ込んで刺青を刻み、喰らうことだけなら不可能ではないかもしれないが、その後に残る不自然さを処理するのは面倒だった。彼女の不死性を確実に取り込むには、時間をかけて関係を深め、同じ刺青を入れることに納得させ、死んでも周囲に疑いを抱かせない状況を作る必要がある。


 どうすれば、あの女子高生は自分を信用するのか。どうすれば、皐月の観察を避けられるのか。どうすれば、代表の管理をすり抜けられるのか。どうすれば、透自身に、自分の身体へ文字を刻むことを選ばせられるのか。面倒で、手間がかかり、失敗すればすべてを失うかもしれない。だからこそ、彼は少しだけ胸が躍った。


 けれど、その楽しみは、代表によって奪われた。


 シルバーピット・リッレクランスは、あだっちが思っていたよりもずっと早く、白枝会の終わりを選んだ。違法行為の資料を外へ流し、対魔局へ身を差し出すことで、自分の作った仕組みごと清算しようとした。その行動は、足立にとって都合が悪かった。白枝会が潰れれば、透との距離を詰めるための場も、狩人としての実験場も、代表の庇護の下で好きに振る舞える場所も失われる。


 だから、足立は代表を刺した。衝動的だったのは否めない。


 それは復讐ではなかった。怒りですら、彼の中では長く続かなかった。ただ、邪魔だった。都合が悪かった。自分の遊び場を壊そうとした。だから壊す。それだけの判断で、彼はシルバーピット・リッレクランスの身体へ刃を入れた。


 だが、代表も無抵抗のまま死ぬ女ではなかった。元愚人の意地か、白枝会代表の矜持か、彼女は足立に一矢報いる。


 呪いが付着した保存容器の破片、あるいはその中に封じられていた赤黒い血肉が、足立の身体へ突き立てられた。巨人の頑強さも、森人の術式も、狩人としての耐性も、呪いに対しては滅法弱い。傷口から入ったものは身体を侵し、彼の内側で、取り込んできたものすべてに触れていく。


 それは、足立にとっても致命傷になり得るものだった。


 彼は死を恐れていた。

 他者の死には何の重みも感じなかったが、自分の終わりだけは嫌悪した。喰らった者たちの悲鳴も、刻んだ刺青も、潰した骨も、捨てた名前も、すべては自分が生きて楽しむためにあった。だから、呪いが身体の内側から自分を壊し始めたとき、彼は初めて、自分の遊び場が奪われるかもしれないという恐怖を、はっきりと覚えた。


 足立明季は恐れていた。

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