23.その者は
保管区画を出てから先は、対魔局の中でもさらに空気の悪い場所だった。
透と皐月は、壊れた扉や壁にこびりついた赤黒い痕と、床を引きずるように伸びる呪いの残滓を辿って、施設の奥へ進んでいく。そこは本来、狩人用の医療設備と実験設備を兼ねた区画らしく、廊下の幅は広いのに、灯りは必要最低限しかない。白い壁の合間に、古い配管や補強材が剥き出しになっている場所もある。
廊下には、倒れた職員がいた。
壁際に崩れるように座り込んだまま動かない者。礼装を握ったまま気絶している者。床には壊れた防護具や、ねじ切られた器具の残骸が散らばっている。透はその横を通るたび、喉の奥がざらつくのを感じた。助け起こすべきだと頭では思う。けれど、いま自分たちが追っているものを野放しにしていれば、被害はもっと広がる。
壁や床には、赤黒い肉片が張りついていた。
最初はただの飛び散った残骸に見えた。だが近づくと、それが微かに脈打っているのが分かる。水気を含んだ肉の表面が、ゆっくりと収縮している。
皐月がそれを一瞥して、小さく呟く。
「生きている」
透は顔をしかめた。
そのまま二人は、さらに地下へ降りる。
途中から、空気が変わった。消毒薬と薬品の匂いが薄れ、代わりに湿った鉄と泥水の臭いが強くなる。通路は細くなり、天井の低い保守用の廊下へ変わっていった。やがて視界が開ける。
そこには、大型の水道管と保守用通路が入り組んだ地下区画が広がっていた。
施設の下を走る巨大な水路だ。壁面に沿って何本もの太い管が通り、その一部は対魔局内部だけでなく、外郭の排水系統や、さらに壁外の旧設備へ繋がっているのだろうと透にも分かる。水の流れる低い音が、足元から絶えず響いていた。
その通路の先に、人影があった。
足立明季。
壁にもたれかかるように立っている。顔色はさらに悪く、左脇腹を押さえた手の隙間から、黒い湿り気が滲んでいるようにも見えた。全身の刺青は前よりもはっきりと浮き上がり、皮膚の上で熱を持っている。線ではなく、本当に蛇が何匹も這い回っているみたいだった。
その周囲には、肉塊がいくつも転がっていた。
ただの肉片ではない。足立の身体から剥がれ落ちたような、生ぬるい質感の塊。中にはまだぴくぴくと動いているものもある。長く伸びた指のようなものを生やした塊、口のような裂け目だけを持つ塊、形になりきれないまま蠢いている塊。それらが水路の縁や床に散らばり、薄暗い灯りの下でぬらぬらと光っていた。
透は、喉の奥をこじ開けるように声を出した。
「足立!」
足立はゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。苦しそうな息を吐きながら、それでも口元だけはいつものように歪める。
「あれ、もう追いついちゃった」
軽い言い方だった。だが、その声には掠れが混じっている。いまにも倒れそうなのに、笑うことだけはやめないのが、かえって不気味だった。
皐月が銀の星を構える。灰青の瞳は、情け容赦なく真っ直ぐだった。
「投降したまえ」
足立は一度、喉の奥で笑うような息を漏らした。
「嫌だね」
そして、押さえていた脇腹へ視線を落とし、顔をしかめる。
「対魔局の癖に呪いに関して、まったく打つ手がないなんて、そんな事ある? 僕たちの税金で今まで何してたんだよって思うよね」
「もう十分でしょ!」
透は怒鳴った。
「何人巻き込めば気が済むの! どうして、こんな事を!」
足立の顔から、そこで一瞬だけ笑みが消えた。
「知らないよ」
冷たい声だった。それはどちらに対する答えなのかは分からないけれど、確かな拒絶を感じた。
「そもそも、これはシルバの所為じゃないか。あの女が変に抵抗しなければ、こんな事にならなかったでしょ」
透は更に声を荒げようとして、なぜか喉が詰まる。理解しがたい。あまりにも勝手な言い分に、同じく拒絶を示しているのだ。目の前の男は本気でそう思っているらしい。その目にあるのは後悔ではなく、理不尽を押し付けられた側の苛立ちに近かった。
皐月が、透よりも一歩前へ出る。
「どうして、代表を刺した?」
足立は目を細めた。答えるまでに、わずかに間があく。
「なぜって、そりゃあ、都合が悪かったからだよ」
「都合が悪かった?」
透が反芻すると、足立は肩を竦めた。もうその仕草にも余裕はなく、ただ癖だけが残っているみたいだった。
「僕の身体ってね、今まで取り込んできた人の所為か、身体検査の結果が訳の分かんない数値になるんだよ。せっかく、今までバレないように数値を弄ってたけど、対魔局にまで顔が割れたら、どうしようもないじゃん?」
取り込んできた。
その言葉が、透の背筋をぞわりと撫でる。書庫で見た“他者の血肉を核とする同一化術”“肉体の置換”“種の擬装”という文言が、一気に現実へ繋がった気がした。
……ひとつの推測が頭に浮かんでいた。それは、単純で安直なものだったけれど、状況証拠から〝そうなのだ〟と判断するには十分だった。
「あんたはあの家に仕えていた森人だったの?」
透が言いかけると、足立は鼻で笑った。
「キミってさ、本当に馬鹿だよね」
そのまま、空気が切り替わる。
足立が炎の剣を抜く。刃が薄暗い地下水路の光を受け、白熱した線のように浮かび上がる。透も大槌を構え、皐月の銀の星が低く唸るように空気を裂いた。
次の瞬間には、もう交戦に入っていた。
足立の剣は、以前より荒い。
明らかに動きは乱れている。踏み込みも呼吸も綺麗ではない。左脇腹の呪いが足を引っ張っているのも見て取れる。それdめお、一撃一撃が重い。そこへ取り込んだ他者たちの残滓が混ざっているのか、動きの節々に統一の取れない異様さがある。
透は真正面から大槌を合わせた。
金属と炎熱がぶつかり、耳障りな音が響く。大槌越しに熱が伝わってくる。透は歯を食いしばり、力任せに押し返そうとする。だが足立の剣はそこで弾かれず、刃の角度を変えながら圧力だけを残してくる。押し込まれる。足元が滑り、水気を含んだ床が嫌な感触を返した。
皐月が援護に入る。
銀の星によって刻まれたルーンが、水路の湿気と壁面の霜へ走る。氷の壁が足立の横を塞ぎ、さらに氷槍が斜めから喉元を狙う。だが、足立の周囲で勝手に蠢いていた肉塊が、その軌道へ割り込んできた。氷槍は肉塊を貫くものの、そのぶんだけ足立本体から逸れる。
「邪魔っ……!」
皐月が珍しく苛立ちを滲ませる。
透はその隙に踏み込んだ。大槌を横から叩き込む。足立は受けきれずに肩口を打たれ、壁へ半歩叩きつけられる。だが次の瞬間、足元に転がっていた肉塊のひとつが生き物みたいに跳ね、透の脚へ食らいつこうとした。
「あぶなっ!」
透は反射的に大槌の柄でそれを潰す。ぬめった感触が返り、黒い汁が飛び散った。その一拍が命取りだった。足立の刃が、すぐそこまで迫っている。
皐月の氷壁が間に滑り込まなければ、透の胴はそのまま焼き切られていたかもしれない。
戦いは、少しずつこちらの不利へ傾いていった。
透は大槌で正面から打ち合うが、足立の剣撃は火炎をまとい、受け止めるたびに腕と肩へ熱が残る。ある一撃をまともに受け、後方へ吹き飛ばされた。
背中から壁へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。視界が白く揺れた。皐月もまた、肉塊の群れに一度足を取られ、その隙へ足立の炎熱が走ったことで、大きく距離を取らされる。銀の星はまだ手元にあるが、あの人にしては明らかに押されていた。
それでも足立のほうも無傷ではない。呼吸は荒く、膝もぶれている。今にも崩れそうに見える。
「ここで決めるんだ!」
皐月が声を張った。
銀の星の先で、空気が変わる。水路の湿気と壁面の水滴と、足元の冷えきった水が一斉に引き寄せられ、鋭く捻じれた氷槍が形成されていく。足立の胸から背までまとめて貫けるだけの大きさと密度だ。
透はその意図を察し、同時に動いた。
真正面から足立へ突っ込む。大槌で打ち合い、わざと真正面の圧を押し付ける。狙いは、皐月の氷槍を通すための一瞬を作ることだけだ。
足立が透へ意識を向ける。その瞬間だった。
足立の身体の一部が、膨れた。
左脇腹のすぐ下、刺青の集まったあたりが不自然に盛り上がり、次の瞬間には皮膚が裂ける。そこから、新たな肉塊が弾けるように飛び出した。
「な――」
皐月の視線が揺れる。飛び出した肉塊は、そのまま皐月へ食らいついた。肩口へ、腕へ、銀の星を握る手へと絡みつき、噛みつく。皐月の集中が乱れ、形成されていた氷槍がわずかに逸れた。
足立はその隙を見逃さなかった。
反撃が、直撃した。
炎をまとった衝撃が正面から爆ぜ、透も皐月もまとめて叩き飛ばされる。透は背中から壁へ激突し、息が完全に詰まった。喉の奥で変な音が鳴り、視界がしばらく白む。皐月も床を転がり、銀の星を取り落としかけた。
数秒遅れて、ようやく視界が戻る。
そして透は、そこで初めて、足立の変貌を正面から見た。
もう均衡が崩れていた。
頭部は不自然に肥大し、顔の半分は馬のように長く突き出している。片腕だけが異様に太く、肩口からは別の手足らしきものが覗いていた。首筋の刺青は、もはや模様ではなく、本当に脈打つ蛇そのもののように蠢いている。人間の皮膚の上で起こっていい変化ではない。あれは足立明季でありながら、もう足立明季だけではない何かだった。
足立は苦しげに笑う。喉が潰れたような音を混ぜながら、それでもなお笑っている。
「ああ、くそ、くそっ……、なんでこんなことに」
吐き捨てるみたいに言ってから、その目がふいに別の方向を向いた。
「まだ、終わる訳には……」
視線の先には、大きな水道管があった。




