22.拡大する混乱
警報が鳴り始めた直後、面会室の外の空気は一変した。
赤い警告灯が点滅しつづける廊下を、職員たちが次々に駆け抜けていく。放送は最初、機械的な音声で避難と封鎖の指示を繰り返していたが、ほどなくして内容が具体的になった。対魔局医療棟の一角で魔獣が発生した、というのだ。
透は、その文言にすぐ違和感を覚えた。
医療棟。しかも対魔局内部。
外部からの侵入ならまだ理解できる。壁の綻びや旧設備との接続部を使って魔獣が入り込む例は、透だってもう知っている。だが、ここは対魔局本部だ。狩人も、被検体も、礼装も、すべて管理下にあるはずの施設で、突発的に魔獣が出るというのは、どう考えても普通ではない。
「ご両親は別経路で避難誘導します。あなたは留置区画へ戻ってください」
局員がそれだけ告げて、透を半ば急かすように廊下へ出した。透は思わず振り返る。防弾ガラスの向こうで、母が一瞬だけこちらを見た。表情は読めなかったが、叫びも縋りもせず、ただ立っていた。父もまたその横にいて、局員に促されるまま、別の通路へ向かっていく。
透はそのまま連れ戻された。
元の留置区画へ押し込まれたあとも、施設のざわめきは壁越しに伝わってきた。重い足音、短い指示、どこかで鳴る破壊音。対魔局の中が動いている。しかも、普段の訓練や演習ではなく、本物の非常事態として。
しばらくして、別の入口から皐月が連れてこられた。
どうやら面会かなにかの最中だったらしいが、そのあたりを問う余裕はお互いになかった。皐月はいつも通りに見える顔のまま部屋へ入り、透を見るなり短く尋ねる。
「ご両親は?」
「別ルートで避難、だって」
「そうか」
それだけ言って、皐月はすぐに耳を澄ませるように顔を上げた。透も同じように気配を探る。警報の向こうに、何か別の音が混じっていた。湿った肉が床を擦るような、耳慣れない不快な音だ。
監視役の狩人が二人、留置区画の外に立ち、こちらへ短く命じる。
「ここを動くな」
その声が終わるか終わらないかのところで、廊下の向こうから何かが飛び出してきた。
黒ずんだ肉塊だった。
最初は、ただの血肉の塊が転がってきたのかと思った。だが、それは止まらない。人の輪郭をどこか残していた。頭らしい膨らみ、胴らしい厚み、そこから腕とも触手ともつかない肉の束が何本も伸びている。片側だけ異様に膨れ、もう片方は裂けたまま繋がっている。表面は濡れて赤黒く、ところどころに焼けたような痕があり、その合間を黒い筋が脈打ちながら走っていた。
それが、いきなり職員の一人へ飛びかかった。
「っ、伏せろ!」
監視役が叫び、防御用の礼装を起動する。白い障壁が展開され、肉塊の一撃をかろうじて受け止める。だが衝撃は強く、障壁の表面へ粘ついた黒い何かが飛び散った。肉塊は、人の悲鳴みたいな声と獣じみた唸りの中間のような音を立てながら、さらに暴れる。
透と皐月は思わず顔を見合わせた。
「呪いの気配が濃すぎる」
皐月が低く呟く。
透もまた、ぞっとするような違和感を覚えていた。自然発生の魔獣とも、呪いに侵された幻獣とも違う。生き物が魔獣化したというより、何か“切り離されたもの”が、それ単体で動いているように見えるのだ。肉だけが独りでに暴れているような、不自然さがあった。
対魔局の狩人たちはすぐ応戦に入った。だが、施設内での戦闘ゆえに大技が使えない。廊下は狭く、壁の向こうには病室や留置室がある。大きな礼装や広範囲の魔術を振るえば、魔獣より先に施設や人間を巻き込む。対応はどうしても後手に回る。
透は歯噛みした。
首輪の制約がある以上、勝手に戦闘へ割り込めば、それ自体が処罰対象になる可能性が高い。だが、肉塊の魔獣は防御線を押し込み、じわじわと面会室側へ迫っていた。ここで放っておけば、避難の遅れた誰かに届く。
そのうえ――透には武器がない。
「くそ……っ」
思わず漏れた声に、皐月が即座に反応した。
「押収品保管庫へ行くしかない」
透は顔を上げた。
「場所は分かるの?」
「ついてきたまえ」
答えた瞬間には、皐月はもう動いていた。留置区画の扉が半開きになっていた隙を突き、監視役と魔獣の間を抜ける。透も反射で続く。止める声が背後で飛んだが、それに構っている暇はなかった。
廊下はすでに混乱していた。
避難誘導の流れと逆行する形で、透と皐月は保管区画を目指す。途中、壁際にしゃがみ込んだ職員が血を流していた。別の角では、押し倒された台車の上で医療器具が散乱している。赤い警告灯の光が、床の白と血の色をひどく不気味に混ぜていた。
そして、一体だけでは終わらなかった。
二つ目の角を曲がったところで、二体目が現れる。
今度は、肉塊でありながら足のようなものが二本あり、その先端が人の脛骨みたいに妙に長い。上半身らしき部分には裂け目がいくつも走り、そこから小さな手のような突起が幾つも生えていた。顔に相当する場所は陥没しているのに、そこから湿った呼吸音だけがする。
「うっわ……」
透が思わず顔をしかめる。
皐月はその異形を一瞥して、低く言った。
「これ、切り分けられた呪いそのものが独立してるんじゃないか」
透はぎょっとして振り返った。
「切り分けられた……?」
「まだ断定はできないがね」
皐月は簡潔に答え、壁際の消火設備の金属ケースを蹴り飛ばした。蓋が外れ、中の重たい筒が転がる。透はすぐに意図を理解し、左手だけでそれを掴んだ。片腕では頼りないが、素手よりはましだ。
肉塊の魔獣が跳ぶ。
透は消火器を横薙ぎに叩きつけた。重さで勢いを殺し、その隙に皐月が床に残った水分へ簡易の刻印を走らせる。銀の星はない。だから本来の遠隔起動はできず、威力も速度も落ちる。それでも、床を這う薄い氷膜が肉塊の脚を一瞬だけ取った。
その一瞬で十分だった。
透は二度目の打撃を叩き込み、皐月が近くの破損した器具棚を押し倒して押し潰す。肉塊はねじれたような悲鳴を上げ、それきり動かなくなった。
だが、そこで息をつく暇もない。
さらに先、保管区画へ近づくにつれて、同じような異形が増えていく。どれもサイズは違うのに、共通して“不完全な人型”だった。腕とも脚ともつかない肉の寄せ集め。人の名残を嫌な形で留めた膨らみ。自然の魔獣ではなく、人工的な失敗作みたいな気持ち悪さがある。
透はそれを見ながら、ニコラエヴナ・ロズール家で見た幻獣たちの暴走を思い出していた。呪いの広がり方、理性が剥がれていく感じ、異常の臭い。その全部が、足立明季へ繋がっている気がした。警察署での騒ぎも、屋敷の幻獣の魔獣化も、そしていま対魔局本部の内部で起きているこの異常も、根の部分は同じなのだと、透にはほとんど確信に近い形で分かる。
「……あいつの仕業だ」
透が吐き出すと、皐月も頷いた。
「十中八九ね」
ようやく保管区画へ辿り着いたとき、透は息を呑んだ。
そこは、すでに半壊していた。
警備扉は内側から破られたように歪み、金属がねじ曲がっている。床には血と肉片が散っていて、壁へ叩きつけられたらしい職員の痕跡まで残っていた。冷気の強い保管庫のはずなのに、空気は生ぬるく、生臭い。赤い警告灯の反射で、飛び散ったものの色が余計に悪く見える。
皐月はすぐに棚の崩れた一角へ向かった。透も遅れて押収品の並んでいた区画を探す。
「……あった」
皐月の声に振り向くと、壊れた棚の中から、銀の星が姿を現していた。彼女はそれを拾い上げる。銀の杖は薄く傷ついていたが、折れてはいない。皐月が指を滑らせた瞬間、それだけで空気の流れが変わった気がした。ようやく本来の皐月が戻ってきたような、そんな感覚だった。
透も破損したケースの中から、大槌を見つけた。真っ赤な頭部を掴んだ瞬間、ようやく手のひらへ馴染む重みが戻る。片腕では扱いづらいはずなのに、それでも消火器なんかよりずっと身体が覚えていた。
その脇に、自分の押収品を入れられていた小袋も落ちている。
透はしゃがみ込み、中を確かめた。壊れた端末、細々した私物、そして――まだ宝物になっていない鋼。赤い塊は薄い袋の中で静かに沈んでいた。透はそれを反射的に胸元へ押し込む。理由はうまく説明できない。ただ、ここへ置いていく気にはなれなかった。
大槌を握り直した、その直後だった。
保管区画の壁が、内側から膨らんだ。
嫌な音を立てて石膏と金属が裂け、そこから新たな魔獣が飛び出してくる。さっきまでのものより一回り大きい。人の胴に近い太さの肉塊から、節の多い脚が何本も突き出し、正面には歪んだ顔面みたいな膨らみがあった。目も口もないはずなのに、こちらを認識した気配だけは確かにあった。
透と皐月は押収品を取り戻したばかりの姿勢のまま、迎撃へ入る。
透は片腕だけで大槌を構えた。重い。だが、さっきまでの代用品とは違う。柄の長さ、頭部の重さ、振り抜いたときの軌道、その全部がようやく手へ戻ってくる。
皐月も銀の星を掲げ、遠隔刻印を開始する。床の水分、天井の配管に残った結露、砕けた保管箱の内側の霜まで拾って、氷と壁を同時に展開していく。銀の星があるだけで、その速度はまるで違った。
魔獣が突っ込んでくる。
透は横へずらし、真正面からは受けない。片腕を失ったことで、それだけはもう嫌でも学んでいた。皐月の氷壁が進路をひとつ狭め、そのわずかな隙に、透は大槌を下から振り上げた。鈍い衝撃。肉塊が持ち上がり、すぐさま皐月の氷槍が横から貫く。
異形はひしゃげたような声を上げ、それでもまだ動こうとした。透は二撃目を叩き込み、今度は頭部らしき膨らみを潰す。黒い液が飛び、肉の束がびくりと跳ね、それきり沈黙した。
皐月が銀の星を下ろし、短く息をつく。
「とりあえず、呪いの痕跡を追いつつ、魔獣に対処しよう」
透は一瞬だけ、両親のことを思い出した。別ルートで避難したはずだ。無事だと信じるしかない。いまこの本部内で起きている異常を止めなければ、親だけでは済まないかもしれない。
正しく、ありなさい。
あんたのやるべき事をやり遂げなさい。
さっき渡された言葉が、痛いくらい胸の内側へ残っている。
透は大槌を握り直し、頷いた。
「やってやる」
保管区画の奥へ、まだ赤黒い痕跡が続いている。壁に飛び散った肉片、床を引きずるように残る粘ついた跡、そしてその先へ伸びる、呪いの臭い。
透と皐月は、それを追う決断をした。




