21.予兆
ニコラエヴナロズール家から対魔局本部へ戻るまでの車中、皐月はほとんど口を開かなかった。もともと多弁な方ではないし、黙っていたからといって不機嫌だと決めつけられるような人でもない。けれど、透にはその沈黙が、いつもとは少しだけ質の違うものに思えた。白い外套の裾を膝に整え、窓の外へ目を向けたまま、一度も「別に気にしていないよ」とも「どうということはないさ」とも言わない。その静けさのせいで、透の頭には、父親から縁を切ると告げられたときの皐月の横顔ばかりが残りつづけていた。
ほんの一瞬だけ、目を伏せたこと。
そのあと、すぐに「そうかい」と返したこと。
平気そうにしていたけれど、平気そのものではなかったのだろうと、透はいまさら思う。だからといって、車内で何を言えばよかったのかは分からない。慰めるのも違うし、同情するのはもっと違う気がした。透自身、片腕を失った痛みと、足立を取り逃がした焦りと、街へ被害が広がってしまった現実とで、頭の中はずっとざわついていた。
対魔局本部へ着いたときには、時刻は午後九時を過ぎていた。
冷たい廊下を、透と皐月は監視役に挟まれるようにして歩かされる。首輪は相変わらず喉へぴたりと張りついていて、呼吸のたび、そこに何かがあることを思い出させてくる。右腕の切断面は包帯と固定具で処置されていた。
留置区画へ戻されるものだと思っていた、その途中だった。
「貴船透さん」
局員の一人に呼び止められ、透は足を止める。皐月も同時に立ち止まったが、呼ばれたのは透だけらしい。局員は事務的な顔のまま、必要事項を読み上げるように告げた。
「面会の申し出が来ています。相手はご両親です。すでに面会室へ通されています」
透は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。返事をするまでにわずかに間が空いた。
「……はい」
面会へ向かう前に、透は別室へ通された。手続きの一環として押収品の確認を求められたのだという。通された先は証拠品保管庫の一角だった。冷たく乾いた空気の中、透明な保管箱が整然と並んでいて、その中のひとつに、透の持ち物が収められていた。
壊れた端末。
血や煤で汚れ、切り裂かれた制服の一部。
使い込んだ秘傘。
大槌。
そして、小さな袋に入れられた無垢鋼。
透は透明な箱の向こうにそれを見て、ほんの少し息を止めた。
無垢鋼の入った小袋だけが、不思議なほど目立って見えた。
まだ何者にもなっていない赤い塊。宝物になるかもしれないと言われながら、結局まだ形を持たないまま、薄い袋の中でじっとしている。その無垢鋼まで、番号の書かれたラベルを貼られて保管されている光景は、妙に胸へ引っかかった。
局員は透の視線の先を一度だけ確認し、それから保管箱の位置を示す。
「今後の手続き次第では返還も検討されます」
それだけ言って、話を打ち切った。慰める気配も、補足する気配もない。透は「わかりました」とだけ返し、再び廊下へ連れ出される。
面会室の前へ着いたとき、透は自分の喉が思った以上に強張っていることに気づいた。息を吸うと、首輪の下の皮膚がやけに冷たく感じる。ここへ来るまで、両親に何を言えばいいのか考えていたはずなのに、扉の前へ立つと全部飛んだ。
局員に促されて中へ入る。
厚い防弾ガラスの向こうに、父と母が座っていた。
透の姿が見えた瞬間、母は立ち上がりかけた。だが、すぐにその動きを押し戻すようにして座り直す。父もまた険しい顔のまま、娘をまっすぐ見ていた。怒鳴るでもなく、泣くでもなく、ただ視線だけが逃がさない。その真っ直ぐさが、透にはたまらなくきつかった。
透は何か言おうとする。ごめん、と言うべきか、ただいま、は違うし、心配かけた、も何か薄い気がする。言葉が決まらないまま口を開きかけたところで、母が低く言った。
「座りなさい」
その声の強さに押されるように、透は椅子へ腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。防弾ガラスが分厚いせいか、両親の輪郭は少し遠く見えるのに、その目の強さだけは変に近かった。
最初に口を開いたのは父だった。
「どうして何も言わなかった」
怒鳴るわけでもない、低い声だった。けれど、その声のほうが透には堪えた。怒鳴られるなら、こちらも縮こまりながら「ごめん」と言える。だが父の声音には、怒りよりも先に、理解できなかったことへの痛みみたいなものが滲んでいた。
透は答えられなかった。
どうして、と問われても、うまく説明できる理由ばかりではなかったからだ。言う暇がなかったことも本当だし、自分でも何に巻き込まれているのか分からないまま進んでしまったことも本当だ。けれど、いちばん奥には、言えば止められると思ったから黙っていた、という卑怯な気持ちも確かにある。
透が黙ったままでいると、母が言葉を継いだ。
命が危険にさらされていたこと。狩人になっていたこと。白枝会と関わっていたこと。どれひとつとして、家族へ相談しなかったこと。母の言葉は厳しく、容赦がなかった。問い詰めるというより、ひとつひとつ事実を突きつけ、その全部に「なぜ」がついている。
透は俯いたまま、何も言い返せなかった。
言い返す資格がないと思ったし、なにより、母の言っていることが何ひとつ間違っていなかった。透はひとりで抱え込んだつもりだったけれど、その結果、両親はニュースで娘の顔と名前を知らされ、対魔局の面会室まで呼び出されることになったのだ。
母の語気が途中で荒くなる。
あんたがどこで死にかけていたのか分からなかったこと。あんたが何を背負わされていたのか、親としてまるで知らされなかったこと。そういう言葉の端々に、抑え込んでいた感情が滲み出る。だが母は、そこで自分で深く息を吸った。肩がわずかに上下し、次に口を開いたときには、声はまた整っていた。
「透」
真正面から、名を呼ぶ。
「あんたは私たちの手に負えないことに巻き込まれてるの。私たちにできる事は殆ど無いと思う」
透は思わず顔を上げた。
母は泣いていなかった。悔しさも、恐怖も、腹立たしさも、全部飲み込んだうえで、なお娘を見据えていた。その目にあるのは絶望ではなく、最後まで親であろうとする固さだった。
「私から言えることは一つだけ――あんたは、あんたのやるべき事をやり遂げなさい。どんなに苦しくても、辛くても、正しく生きなさい。何があっても正しく生きることが肝要なの」
透は言葉を失った。
慰めではない。赦しでもない。大丈夫だとも、帰ってこいとも言わない。その代わりに、母は生き方の指針だけを、真正面から透へ渡してきた。
父もそこで頷いた。
母はさらに言葉を継ぐ。
「どれだけ偉くとも、お金を持っていようとも、悪事に手を染めたり、後ろめたい事をした時点で負け犬よ」
透の脳裏に、代表の顔が一瞬よぎる。辺居を守るために違法行為へ手を染めた人。悪事であっても必要だったのだと、どこかで思っていた自分がいる。けれど、母の言葉はそういう理屈を挟む余地もなく、真っ直ぐだった。
「立派な大人っていうのはね――どんなに辛くても、正しく在れる人のこと。私たちがあんたに求めるのは、ただそれだけよ」
透は息が詰まった。
正しく在れ、と言われる。こんな場所で、こんな立場で、片腕を失って、首輪までつけられて、それでもなお。透の胸の奥で何かが強く締まり、熱くなって、うまく呼吸ができなくなる。
ようやく絞り出せたのは、謝罪だけだった。
「……ごめんなさい」
それ以上の言葉が続かない。何をどこから謝ればいいのか分からないまま、それでも、その一言だけは本当だった。
面会終了の合図が鳴る。
短い電子音が、この場だけの猶予が終わったことを告げる。両親は立ち上がった。母は最後にガラス越しに娘を見つめる。その目に見慣れない揺らぎがあるように思えた、そのとき、透は職員に連行されるような形で、ガラスから引き剥がされた。
「 」
母が何かを言ったようだったが、透の耳には届かなかった。ただ、その口の動きから何となく読み取ることは出来たと思う。
きっと――。
『ごめんね』
そのときだった。
施設内に警報が鳴り響いた。
赤い警告灯が面会室の外で点滅しはじめ、館内放送が異常事態を告げる。透が反射的に顔を上げた直後、遠くで何かが壊れる音が響いた。続いて、職員たちの怒号と、どこかで上がった悲鳴が混じり合う。
面会室の外を、武装した局員たちが走っていく。
赤い警告灯が、面会室の白い壁を不気味に染めていた。




