20.混乱拡大
足立の姿が塀の向こうへ消えたあとも、屋敷の混乱は続いた。
庭のあちこちで、幻獣たちの咆哮が重なっていた。黒ずんだ毛並み、濁った眼、赤黒く脈打つ筋。ついさっきまで人に飼われ、管理されていたはずの生き物たちが、呪いに侵されて形を崩し、理性の代わりに痛みと暴力だけを撒き散らしている。しかも、その数が多かった。屋敷の広さに見合うだけの飼育区画があり、そこにいた個体のいくつかが一斉に異常を起こし始めているのだから、被害が庭の一角だけで収まるはずもない。
透は切断面を押さえたまま、荒い呼吸を繰り返した。
右腕は戻らない。血は皐月の応急処置でどうにか抑えられているが、痛みまでは誤魔化せない。肩の先に何かがあるはずなのに無いという感覚が、絶えず神経を引っ掻き回してくる。そこへ幻獣たちの咆哮が重なるものだから、頭の中の整理が追いつかなかった。
だが、立ち止まっているわけにもいかない。
屋敷の奥で、使用人の悲鳴が上がった。
「っ……!」
透は反射的に顔を上げる。視界の先、回廊へ通じる石段の脇で、魔獣化しかけた小柄な幻獣が、逃げ遅れた女中へ飛びかかろうとしていた。黒い斑が毛皮の下を這い、牙の根元からぬらついた呪いが糸を引いている。あの一撃をまともに受ければ、人間の身体など簡単に裂ける。
透は歯を食いしばり、左手だけで大槌を持ち上げた。
重い。
いままで当たり前に両腕で支えていた重量が、急に別物みたいにのしかかってくる。柄の長さも、頭部の偏りも、全部が左肩へ無理を強いる。だが、それでも持ち上がる。持ち上げられるのなら、やるしかない。
透は片腕のまま踏み込み、身体ごと振り回すようにして大槌を叩きつけた。直撃はしたが、重心が甘い。以前なら吹き飛ばせたはずの一撃が、魔獣の肩を砕くところまで届かず、横へ大きく弾くだけに終わる。怪物は地面を転がり、すぐに起き上がろうと四肢をばたつかせた。
「浅い!」
透が舌打ちしかけたその瞬間、横から氷の刃が走った。
皐月の魔術だった。雪と水分から生まれた鋭い氷片が、魔獣の首を斜めに貫く。血と呪いの混じった液が散り、怪物は今度こそ動きを止めた。皐月は透の後ろへ半歩寄りながら、低く言う。
「受け止めようとするな。片腕で正面から止められると思わないことだ」
「分かってる……!」
言い返しはしたものの、透自身がいちばん分かっていた。片腕では、防御が成立しない。大槌は振れる。だが、いままでのように衝撃を受け止め、押し返し、間合いをこじ開ける戦い方はできない。動きの全部を組み替えなければならないのに、そのための余裕が、いまの戦場には無かった。
屋敷の中では、避難誘導も始まっていた。
侍女たちが使用人を先導し、兄と父親が護衛へ命令を飛ばしている。統率は取れている。だが、それでも庭から建物の中へ、恐怖がじわじわ染み込んでいくのが見えた。幻獣はただ暴れているだけではなく、囲いを越え、門を破り、敷地の端へまで散ろうとしている。
皐月は銀の星を掲げながら、透の位置と、逃げ遅れた人々と、暴走する幻獣たち、その全部を同時に見ていた。以前ならもっと大胆に火力を出せたはずなのに、いまは透を庇い、避難のための動線を空け、人を巻き込まない角度を選び続けている。その分だけ、魔術の切れ味が削がれていた。
透はそれが悔しかった。
自分が片腕を失ったせいで、皐月まで足止めを食っている。
そこへ、新たな異変が重なった。
屋敷の外門の方から、警報がひときわ大きく鳴ったのだ。
庭を走っていた護衛の一人が、顔色を変えて叫ぶ。
「敷地外へ出た個体がいます!」
透は思わず振り返った。
門の向こう、石畳の先の街路へ、小型の幻獣が二体、三体と駆け抜けていくのが見えた。いずれもすでに毛並みの半分以上が黒ずみ、魔獣化が始まっている。町中へ出た。そう理解した瞬間、透の背筋に冷たいものが走る。
庭の惨状だけでは終わらない。
この屋敷を中心に、呪いが街へ漏れたのだ。
それはすぐに現実になった。
遠くから悲鳴が上がる。遠くの通りで何かが倒れる音がして、さらに別方向からも警報が重なる。屋敷の敷地から逃げた幻獣の一部が、そのまま周辺へ拡散し、各所で魔獣化を進めているのだと、もう疑いようがなかった。
対魔局の端末を持った監視役の一人が、青ざめたまま報告を叫ぶ。
「応援要請が殺到しています! 西区画、南側通り、外環沿い――複数地点で魔獣出現!」
透は呆然とその言葉を聞いていた。
遠く、帝都の空が赤く明滅していた。警報灯の色だ。日光の代わりに照明塔の白が街を支える世界で、その赤だけがやけに生々しく見える。
そこで、監視役の端末へ直接通信が入った。
男が一瞬だけ姿勢を正し、すぐに外部音声を共有する。聞こえてきたのは、東阿高玲子の声だった。冷たいほど落ち着いていて、こちらの混乱を知った上で、それでも一段高い場所から全体を見下ろしている声音だ。
『事態は町中へ拡大した。対魔局は各地の魔獣への対処に追われる。緊急事態宣言が発令される』
透は片腕の切断面を押さえたまま、唖然と空を見た。警報灯の赤が、屋敷の白い壁にも、雪にも、使用人たちの顔にも反射して、まるで全部がすでに呪いの色へ染まっていくみたいだった。
少し離れた高台では、皐月がその空を見つめていた。風に髪を揺らしながら、ただ一言も発さない。
東阿高の声が続く。
『貴方たちは直ちに対魔局へ戻りなさい。負傷者の治療と聴取を優先します』
透ははっとして、端末へ向き直った。
「でも、あいつを逃がしたのは――」
そこまで言ったところで、東阿高は切るように言った。
『貴方は片腕を失ったのでしょう』
その口調に怒気はない。ただ、反論の余地を最初から認めていなかった。
『それに貴方はいまだ子ども。これ以上は貴方の役目じゃないわ』
透は言葉を失った。
対魔局の増援が次々に到着し、庭へ飛び込んでくる。白と黒の礼装、統一された装備、短く交わされる命令。彼らは透たちの混乱など最初から考慮に入れていない。魔獣化した幻獣を処理し、避難経路を確保し、屋敷の周囲に封鎖線を引く。そのための歯車として動いていた。
透と皐月は、その流れの中で半ば強制的に切り離された。
輸送車へ向かう途中、透は何度も振り返った。庭に残る黒い血、崩れた柵、走り回る対魔局狩人、遠くの通りへ散っていく赤い警報灯。さっきまで自分たちがいた場所が、もう自分の手を離れた大きな災害へ変わっていくのが、はっきり見えた。
車へ押し込まれるように乗り込んだあとも、透は窓へ額を寄せた。
燃え上がる町中が見える。
照明塔の白の下で、いくつもの地点から煙が上がり、対魔局の狩人たちが走っている。どこかで爆ぜる光、倒壊した屋根、避難する人の列。そのすべてが遠ざかっていくのに、胸の痛みだけが近かった。
隣の皐月は、やっぱり何も喋らない。
透もまた、何を言えばいいのか分からなかった。
足立明季は何者なのか。
なぜ、あの書庫へ入れたのか。
許可された者しか入れないはずの場所へ、どうして彼は先回りできたのか。
彼が探していたのは、本当に呪いを取り除く方法だけだったのか。
考えても答えは出ない。それでも透の頭は、そのことばかりを繰り返し噛んでいた。燃え上がる帝都を横目に、対魔局本部へ戻る道のりの中で、透の中に残ったのは痛みと悔しさだけではなかった。
足立明季という存在の輪郭が、ますます人間の形から遠ざかっていく。




