17.何者なるや?
白い独房のような留置区画に、しばし沈黙が落ちていた。
東阿高玲子が投げかけた問い――足立明季とは何者なのか――は、答えようとすればするほど、透の中で足立明季という人物像が崩れていく。娼館で身体を売っていた森人。白枝会の礼装開発者。ふざけた調子で他人を煙に巻く。そして、代表を刺し、呪いに侵され、それでもなお逃げ延びた狩人。どこを切り取っても本当なのに、その本懐は深い煙の中に潜み、おぼろげな影だけを残している。
答えられないまま時間だけが過ぎるかと思われたとき、皐月が白い壁へ背を預けた姿勢のまま、静かに口を開いた。
「いくつか、隠れ家として代表が用意していた物件がある。そこを当たってみるのはどうだろうか」
その言い方は、提案というより、まずは確認すべき手順を並べただけの調子だった。
東阿高は、頷きもせずに答えた。
「その件でしたら、すでに貴方たちの代表自ら報道機関に渡した情報をもとに捜索していますが、今のところ足立明季と思われる人物は見つかっていません」
透は、思わず身を乗り出しかけた。
「辺居の外に出た可能性もあるんじゃない?」
それは咄嗟に出た言葉だった。足立のことだ。辺居の抜け道も、外郭の綻びも、町中の裏路地も、透なんかよりずっと知っている。呪いで弱っているにせよ、このまま辺居の内側へ留まるとは限らない気がした。
だが東阿高は、すでにそこまで考え終えている人間の顔で、淡々と返す。
「そちらも手配してありますが、同様に成果はありません」
透は口を閉じた。
そこでふと、別の可能性が頭をよぎった。村正の工房。足立が礼装の調整や無垢鋼の件で出入りしていた、あの鍛冶場街の工房だ。あそこなら、傷を抱えて逃げ込むことも不可能ではない気がした。だが、それを口に出しかけた瞬間、透は喉の奥で言葉を止めた。
あらゆる情報が報道機関へ流れた、と代表は言っていた。けれど、どこまでが流れて、どこまでが残っているのか、透には判断がつかない。もし村正の工房の名がまだ対魔局へ届いていなかったとしたら、自分の一言で、あの頑固で乱暴で、それでも白枝会に品を流していた鍛冶師の暮らしを破綻させるかもしれない。鍛冶場街の店は、噂ひとつで潰れる場所ではないにせよ、対魔局の捜索対象になれば話は別だ。
透は唇の内側を噛み、結局、その考えを飲み込んだ。
東阿高は、二人の沈黙をどう受け取ったのか、手元の端末を一度だけ確かめてから、別の話題へ移る。
「足立について、こちらが把握していることは多くありません」
その前置きだけで、部屋の空気が少し変わった。透は無意識に背筋を伸ばす。皐月は目だけを細めた。
「もともと彼が娼館で最も人気のある男娼だったことぐらいです。白枝会の代表はもちろん、白枝会と関わりのあった職人や白枝会職員も、客として関わっていたことまでは調べがついています」
透の眉がぴくりと動いた。
足立自身の口から、それに近い話は聞いたことがある。けれど、こうして対魔局局長の口から、公的な事実みたいな顔で読み上げられると、妙に生々しかった。白枝会の中であの人がどういう位置にいたのか、自分はたぶん、まだ何も知らないのだと改めて思い知らされる。代表も、職員も、鍛冶師も、みんな足立とそういう関わりを持っていた。その事実は、足立がどれだけ多くの場所へ出入りし、どれだけ多くの顔を見てきたかという証でもあるようだった。
東阿高は、その反応をいちいち拾わなかった。
「それと、ひとつ気になる点があります。貴方たちの検査記録についてです」
皐月の視線が、そこでわずかに上がる。透もつられて東阿高を見る。
「検査記録は一切残されていませんでした。なぜでしょう。指紋や血液に関するものが、何か一つでも残っていれば追跡できるんですが?」
その問いは、責めるためというより、純粋に欠けた部品を探しているようだった。
皐月は少しだけ首を傾げ、それから、つまらない仕組みを説明するみたいに答える。
「私たちの検査記録は、履歴が残らないよう設定されていたからね」
透は東阿高の横顔を見た。さすがに眉のひとつぐらい動くかと思ったが、局長は顔色を変えない。ただ、端末へ一言だけ打ち込む。
「なるほど。白枝会側で細工していたわけですね」
「そういうことになる」
皐月の返答も淡白だった。
そこから、短い沈黙が落ちた。
透はその沈黙の中で、首輪の存在を急に意識した。銀色の輪が喉へぴたりと沿っている感覚は、時間が経つほど忘れられなくなる。自分は質問される側で、記録される側で、管理される側だ。その事実が、こういう間のたびに思い出される。
やがて、その沈黙を破ったのは皐月だった。
「私からも気になる点が一つ、というより、確かめたい事が一つある」
東阿高の目が、少しだけ動いた。
「確かめたい事とは?」
「彼の刺青についてだ」
「刺青?」
東阿高の声音はわずかに怪訝さを帯びた。透はその単語で、足立の上半身を思い出してしまった。呪いに侵され、上着を剥ぎ捨てた細い身体。その皮膚を蛇みたいに這っていた、あの奇妙な線。
「あの蛇みたいな……」
透が口にすると、皐月は小さく頷いた。
「あれと似たものを、我が家の書庫で見たことがある。詳細なところまでは覚えていないし、関係ない可能性もあるが、一度確かめたい」
我が家。
皐月がその言葉を使うたび、透はいまだに少しだけ違和感を覚える。極刑の可能性を突きつけられた相手が、帝都でも指折りの家門の長女だったと分かったのは、ついさっきのことだ。だが皐月本人は、その事実を誇るでも嫌うでもなく、ただ自分の持ち物を指すみたいに口にする。
東阿高は皐月を見据えたまま問う。
「それが足立明季の捕獲の助けになると?」
皐月はそこで、わずかに肩をすくめた。
「さあね。ただ、彼が何者であるか知る手がかりになる、かもしれない」
灰青の目が、白い天井ではなく、もっと遠い何かを見ているように細くなる。
「もしも、彼が我が家で保管されている蔵書と関わりがあるのだとすれば、ニコラエヴナ・ロズール家とも関わりがあるということだろう。なんせ、書庫の本は全て前ニコラエヴナロズール家のものだからね」
前ニコラエヴナ・ロズール家。
透はその言い回しに引っかかった。現当主の家と、前の家。家名は同じなのに、そこに断絶があるような言い方だった。けれど、いまそこへ口を挟む空気ではない。透はただ、皐月が本気でその書庫に何かを見ているのだということだけを受け取った。
東阿高はしばらく黙っていた。
留置区画の白い静けさの中で、その沈黙はやけに長く感じられる。透は思わず東阿高の指先を見ていた。動かない。迷っているようにも、計算しているようにも見えない。ただ、必要な天秤に必要なものを載せ終わるまで待っている人間の沈黙だった。
やがて東阿高は、ゆっくりと口を開く。
「わかりました」
透と皐月が、同時に顔を上げる。
「首輪をつけてさえいれば、監視役を一人つけていれば十分でしょう」
その言い方は許可というより、条件付きの運用変更に近かった。それでも透には、独房の中から一歩外へ出られる話として聞こえる。足立を追うための手がかりがあるなら、どんな形であれ掴みたい。そう思った瞬間、自分がまだ足立を追う側にいられるのだと知って、胸の奥が少しだけ熱くなる。
東阿高は二人を順に見た。
「何としてでも、足立明季に関する手がかりを見つけてきなさい」
命令だった。選択の余地があるような声ではなかった。
そして最後に、東阿高はほんのわずかに顎を引き、凛とした声音で言い切る。
「帝和の民として、やるべきことをやりなさい」
その言葉が落ちたあと、部屋の白さが少し変わって見えた。
透は自分の膝の上で握った手を見下ろす。右も左も、まだちゃんと揃っている。だが、白枝会にいた頃とは違う。守られる側でも、ただ巻き込まれる側でも、もういられないところへ来てしまったのだと、その一言があらためて突きつけていた。
皐月は壁から背を離し、静かに立ち上がった。その横顔はいつも通りに見えるのに、透には、それが“覚悟を決めた人間の静かさ”のように思えた。
透もまた、遅れて立ち上がる。
足立が何者なのか。なぜあの書庫と関わるのか。そこへ踏み込めば、また知らなくてよかったものを見るかもしれない。けれど、それでも行くしかないのだろうと、透は首輪の冷たさを喉で感じながら思った。




