16.独房
透が目を覚ましたとき、最初に見えたのは、眩しいぐらい白い部屋だった。
壁も、天井も、床も、何もかもが均一な白で塗り潰されていて、そこに影らしい影がほとんど落ちていない。近いはずの壁がやけに遠く見え、遠いはずの天井が妙に低く感じられる。身体を起こそうとした瞬間、透はベッドの表面が妙に身体へ馴染むことに気づいた。沈み込みすぎず、硬すぎもせず、まるでこちらの重さに合わせて反発を変えているみたいな寝心地だった。
寝起きの頭で一番先に出てきたのは、場違いなくらい素直な感想だった。
――寝心地は、悪くないかな。
そこまで思ってから、透は自分の意識がどこまで続いていたかを探ろうとして、頭の奥に爆炎の残像が張りついているのを感じた。足立が礼装を振り上げたこと。部屋の中心から火が咲いたこと。身体ごと吹き飛ばされ、そこで景色が途切れたこと。その先は、靴音と怒号と、誰かに運ばれている感覚だけが曖昧に残っている。
「おはよう。ぐっすり眠れたかい?」
声のした方を見ると、もうひとつあるベッドの上で、皐月が壁に背を預けていた。白い患者服に着替えさせられているのは透と同じだった。
透は反射で上半身を起こし、自分の身体を確かめた。腕は動く。肋も、肩も、脚も動く。爆炎で焼かれたはずの場所には痛みの名残こそ薄く残っているが、致命的な損傷はすでに塞がっているらしい。自分の回復力に慣れたつもりでも、こうして目覚めるたびに気味の悪さは消えない。
それから、ようやく部屋の全体が視界へ入った。
ベッドは二つ。便器は一つ。食事を通すためらしい小さな穴が、扉の下部にひとつだけある。家具らしい家具はそれだけで、逃げ場も、隠れる場所も、余白すらない。しかも異様なのは、白いのが部屋の内側だけだということだった。
強化ガラスらしき透明な壁の向こうは、すべて黒かった。
床も、天井も、壁も、奥に続く通路も、光を吸い込むような黒で統一されていて、その中心に白い服を着た女が一人、まっすぐ立っていた。黒の中に置かれた白は輪郭だけがいやに鮮明で、その姿だけが切り抜かれたみたいに見える。
「対魔局お抱えの職人が作ったベッドよ。寝心地はどうかしら?」
女は、透がようやく自分へ気づいたのを見計らったみたいに言った。声音は柔らかくも乱暴でもない。ただ、相手の反応を最初から計算に入れている人間の喋り方だった。
透は自分でも驚くくらい素直に返してしまう。
「ああ、はい。悪くないと思います」
その返答に、女はほんのわずかに鼻で笑った。
「ずいぶんと良い暮らしをしているのね、お嬢さん」
その一言で、透はようやく、自分が不用意な受け答えをしたのだと気づいた。頬が熱くなる。だが、反論しようにも状況が分からない。ここは病院ではない。白い部屋と黒い外側の対比は、快適さのためではなく、こちらに「閉じ込められている」と思い知らせるために作られているようにしか見えなかった。
「……ここは?」
透が問うと、先に皐月が答えた。
「対魔局が管理する狩人専用の“留置所”だそうだ」
その単語が、透の頭の中で遅れて沈んだ。
留置所。
つまり、捕まったのだ。
透はゆっくりと、ガラスの向こうの白い女を見た。長い黒い外套の上から、雪みたいに白い衣を羽織っている。姿勢はしゃんと伸びていて、指先から首筋まで隙がない。顔立ちは整っているのに、柔らかさより冷たさのほうが先に立つ。整えられた髪、抑えた化粧、そしてこちらを見下ろす目だけが、異様に静かだった。
皐月が、透へ視線を促すように顎を動かした。
すると女は、一歩も動かずに名乗った。
「東阿高玲子。対魔局の局長、といえば分かるかしら」
対魔局局長。
透はその言葉を頭の中で繰り返した。局長。対魔局の、一番上。ニュースや教科書の向こうにいる側の人間が、いま、自分の目の前に立っている。そこまで理解したところで、透はようやく、自分が“保護された”のではなく、“確保された”のだと確信した。
その瞬間、別の不在に気づく。
足立がいない。
透はベッドの端へ手をついたまま、東阿高へ問いかけた。
「……足立は?」
東阿高は一拍も迷わず答えた。
「経緯は聞いています。足立明季と名乗る森人は、今現在行方知れず。警察と対魔局が合同で捜索していますが、成果はありません」
そこまで言ってから、ほんの少しだけ間を置く。
「白枝会代表の遺体は、我々が保管しています」
透の身体が固まった。
白枝会代表の遺体。
その言い方で、最後の逃げ道まで塞がれた。爆炎の前、血を流して倒れた代表の姿は確かに見た。けれど、どこかで、あの人ならまだ立ち上がるのではないかという、何の根拠もない期待が残っていた。それが、東阿高の淡々とした口調で、容赦なく潰される。
透は口を開いたが、何も言えなかった。胸の奥が空洞になったみたいで、その空洞に冷たい風だけが吹き込んでくる。
東阿高は、そんな透の反応を待つことなく、まっすぐ名を呼んだ。
「貴船透さん」
それだけのことなのに、部屋の温度が変わったように思えた。さっきまでの観察ではなく、いまこの瞬間から、これは明確な“通告”になるのだと、透にも分かった。
「あなたの罪状を確認します」
東阿高は手元の端末へ目を落とし、ひとつずつ読み上げていく。白枝会との関与。無許可の狩人活動。魔獣討伐に伴う複数の非正規戦闘行為。公的管理下にない礼装の運用。辺居への無断侵入。そして、霊薬の未許可使用。
最後のひとつに触れたときだけ、東阿高の声音がわずかに硬くなった。
「とりわけ、霊薬の未許可使用は、極刑に値します。あれは国が管理するべきものです。成霊体を生み出す技術は、個人の願望や現場判断で扱ってよいものではありません」
極刑。
その単語が、部屋の白さより冷たく透の耳へ入った。
現実味がない、と思った。いまどき、そんな言葉が自分へ向けて使われるのかと、半歩引いた場所から考える自分がいる。だが一方で、東阿高の口調は妙に現実的だった。怒鳴りもしない。脅しのために声を張り上げることもしない。ただ制度としてそこにあるものを、そのまま読み上げているだけだからこそ、かえって逃げ場がなかった。
「しかしながら」
東阿高はそこで、透から皐月へ視線を移すでもなく、言葉を継いだ。
「あなたが成霊化した経緯、その時点での年齢、ならびにあなた自身に明確な反国家的意図が認められないことを考慮し、情状酌量の余地ありと判断しました」
透は眉を寄せた。助かった、とすぐには思えない。極刑だと言われたあとで“余地がある”と言われても、それは助命というより、処分方法の選択肢が一段階増えただけに聞こえる。
東阿高はそのまま皐月へ視線を向けた。
「次に、そちらの件です」
皐月はベッドに背を預けた姿勢を崩さず、ただ目だけで東阿高を見返した。
「帝和学術院に飛び級で在籍し、学内でも極めて高い評価を得ていたこと。その一方で、自らに試作の魔法陣を刻む人体実験を行い、退学処分となったこと。その後、白枝会にスカウトされ、狩人化し、以降は白枝会における実務と並行して、独自の研究活動を継続していたこと」
東阿高はそこで皐月の本名を読み上げた。透は思わず隣を見た。皐月は表情をほとんど動かさなかったが、目の奥だけがわずかに暗くなったように見えた。
「あなたが、帝和の建築分野において極めて重要な位置を占めるニコラエヴナ・ロズール家の長女であることも把握していますよ。皐月・ニコラエヴナ・ロズール」
透は目を見開いた。
ニコラエヴナ・ロズール家。
その名前には聞き覚えがあった。学校で習う都市構造だの、壁の維持だの、帝都の大規模施設だの、そういう話題の中で、たまに出てくる名家だ。さらに言うと、父が務める天保の親会社である露珠工営の代表こそ、その家の当主に他ならない。
だが、隣のベッドにいる皐月が、その家の長女。しかも飛び級だの退学だの、人体実験だの。情報が多すぎて、透の頭は一瞬で追いつかなくなる。
東阿高は、その反応も込みで切り捨てるように言った。
「ですが、身分が高ければ軽く、低ければ重い、という裁き方をするなら法の意味はありません。平等でなければ秩序は成立しない。あなたにも相応の責任を負っていただきます……とはいえ、それは私の信条であって、国の意向に沿うものではないので、貴方に限っては寛大な処罰になるでしょうが」
透は皐月を見た。
皐月は難しい顔をしていた。悲しんでいるようには見えない。かといって、諦めた顔でもなかった。もっと別の、透にはまだ名前のつけられない苦悩が、薄く顔へ差している。家の名を出されたことへの反発なのか、研究者としての計算なのか、それとも白枝会が終わったことへの実感なのか、透には判別できない。
東阿高は再び二人へ視線を戻した。
「本来であれば、あなた方をここへ閉じ込めておき、法に従って順次処分すれば話は済みます」
その物言いは恐ろしく淡々としていた。
「ですが、成霊化した人材をただ独房へ入れ、大工仕事でもさせて終わらせるのは、国家にとっても損失です。白枝会が失われたいま、辺居では次々と魔獣の発生が報告されています。さらに、足立明季の行方も追わねばならない」
東阿高はそこで、ほんのわずかに顎を上げる。
「そこで、あなた方には条件を提示します」
透の喉が鳴った。
「刑期の間、対魔局所属の狩人として活動すること。功績に応じ、減刑の可能性を設けること。足立明季の捜索に協力すること。二十四時間監視用の礼装を常時装着すること。監視対象となるのは、体温、骨温、脈拍、脳波その他、必要と判断される生体情報全般です。普段は専用の隔離施設で過ごし、家族との面会は年二回までとします」
ひとつひとつは理解できる。だが全部を並べられると、息が詰まる。
狩人として働き続けること。功績を積まなければ減刑もないこと。監視されること。家にもろくに帰れないこと。つまり、生かしてはやるが、自由はほとんど残さない、という話なのだ。
透は自分でも驚くほど掠れた声で尋ねた。
「……もし、その条件をのまない場合は?」
東阿高は、まるで子どもが当たり前の確認をしたとでも言いたげに、少しだけ眉を動かした。
「のまない選択なんてありませんよ」
それから、声を少しも荒げずに続ける。
「子どもだからといって、なんでも許されるとは限りません。無知であることも、無謀であることも悪ではない。けれど、動機がどうであれ、最終的に問われるのは結果の良し悪しです、貴船透」
透は唇を噛んだ。
反論したい。自分は勝手に霊薬を打ち込まれたのだと言いたい。助かるためには白枝会にしがみつくしかなかったのだと言いたい。けれど、その言い分が、いま目の前の女にとってどれほど意味を持つのかは、透にも分かった。東阿高は事情を知らないのではなく、知ったうえで、それでも秩序の側から判断している。
そのとき、部屋の下部にある食事用の小さな穴が、機械音とともに開いた。
銀色のものが二つ、滑るように押し出される。
皐月が先に立ち上がって、それを拾い上げた。透も続く。受け取ったそれはチョーカーだった。表面は滑らかな銀色なのに、指先で撫でると、蛇の鱗みたいな細かい凹凸が続いている。内側はひやりと冷たく、外側の一部には丸いスイッチが埋め込まれていた。
透がそれを押し込むと、金具部分が静かに開き、硬い輪が紐のようにしなる。
「首に巻きなさい」
東阿高が言う。
「それが、あなた方の新しい身分証明になります」
透はしばらく、それを見つめていた。装着した瞬間、自分が完全に対魔局の管理下へ置かれるのだと、理屈ではなく手触りで分かる。だが、拒む余地が本当に存在しないことも、もう十分すぎるほど理解していた。
皐月が先に、自分の首へチョーカーを巻いた。銀の鱗が喉元へぴたりと沿い、かちり、と小さな音がして閉じる。皐月はその感触を確かめるように一度だけ指先でなぞり、それから透を見た。
透は息を吸い、同じように首へ巻いた。
金属は思ったより柔らかく首へ馴染み、けれど閉じた瞬間、輪であることだけははっきりと主張してきた。軽い。軽いのに、逃げ場のなさだけがやけに重い。
東阿高は二人が装着したのを確認して、ようやく本題へ入るみたいに目を細めた。
「白枝会代表を殺害したとされる足立明季の行方は、いまだ掴めていません。呪いに侵されているのであれば、じきに魔獣化するでしょう。我々、対魔局がそれを野放しにはできません。魔獣から人々を守るのが、我々の義務ですから」
義務。
その言葉は、プロローグの最初に聞いたものと同じ重さで、けれどまるで違う側から透へ落ちてきた。
東阿高は最後に、二人を順番に見た。視線は厳しいのに、感情的ではない。だからこそ、その問いがいっそう逃れがたいものになる。
「答えていただきましょう」
白い部屋の中で、その声だけがやけに鮮明に響いた。
「足立明季について、彼は一体、何者なんです?」




