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15.呪いの蔓延と悪手


 最初に異変へ気づいたのは、辺居の路地で秘傘を修理していた老人だった。


 その日の辺居は、いつもと同じように薄暗かった。壁の内側でありながら、町中ほど照明塔の恩恵は届かず、家々の軒先に吊られた秘傘の光が、濡れた石畳と細い排水溝を頼りなく照らしている。老人は作業台の上に置いた古い秘傘の骨を一本ずつ確かめながら、向かいの家の子どもが紙袋を抱えて走っていくのを横目で見ていた。


 その子どもが、路地の奥で足を止めた。


 老人は最初、三足鳥でもいたのだと思った。辺居では珍しくもない。けれど、子どもの背中が硬直したまま動かなくなり、抱えていた紙袋が腕から滑り落ちたのを見て、老人は工具を置いた。


 排水溝の蓋の隙間から、黒い泥のようなものが滲み出していた。


 それは水ではなかった。雨も降っていないのに、赤黒くぬめった筋が石畳の上へ広がり、そこへ近づいた痩せた犬の鼻先へ、糸を引くように絡みついた。犬は一度だけ甲高く鳴き、次の瞬間には、背中の骨格を内側から押し広げられるみたいに身体を震わせる。毛並みが黒ずみ、肋骨の間から赤い光が漏れ、口の端から泡と血を混ぜたものが垂れた。


 子どもが叫んだ。


 老人は作業台を蹴るようにして立ち上がり、軒先に掛けていた金属棒を掴んだが、犬だったものはもう犬の動きではなくなっていた。四肢をばたつかせるたびに爪が石畳を削り、背中から生えた黒い棘が、近くの木箱を内側から破裂させる。路地の奥で女の悲鳴が上がり、誰かが戸を閉めようとして、間に合わずに扉ごと弾き飛ばされた。


 老人は子どもの腕を引き、修理台の下へ押し込んだ。


「声を出さずに隠れていなさい」と早口で伝え、自分は作業台を倒して狭い路地を塞ぐ。秘傘の光が揺れ、影が伸び、犬だった魔獣の口が裂けるように開く。


 その遠くで、別の悲鳴が重なった。


 ひとつではない。

 辺居の複数の場所から、同じような叫びが上がり始めていた。


 ◆


 町中では、最初の報告は停電として扱われた。


 中央市場の一角にある飲食店で働く女は、客へ湯気の立つ皿を運んでいる最中に、頭上の灯りが一斉に瞬いたのを見た。照明が二度、三度と脈打ち、客たちの顔に不安の影が落ちる。誰かが「また設備の不調か」とぼやき、別の客が端末を見ながら眉をひそめた。


 それから、外で木材が砕けるような音がした。


 店内の全員が振り向いた。女も皿を抱えたまま入口へ目を向ける。通りには、荷運び用の小型幻獣を連れた配達人が倒れていた。幻獣の胴体には、どこから飛んできたのか分からない赤黒い肉片が貼りついている。それが脈打つたびに、幻獣の毛皮の下で何かが増殖していくように膨らみ、清潔な革具を押し裂いた。


 配達人が必死に手綱を引く。


 だが、幻獣はもう主人の方を見ていなかった。眼が濁り、角の根元が黒ずみ、喉の奥から低い唸りが漏れる。次の瞬間、幻獣だったものは荷車を引いたまま暴走し、石畳を削りながら通りの露店へ突っ込んだ。缶詰の木箱が弾け、小売屋台がひしゃげ、精巧な陶芸品が路上へ散らばる。


 女はようやく皿を落とした。


 割れる音が、自分のすぐ足元でした。けれど、誰もそれを咎めなかった。客たちは一斉に奥へ逃げ、店主が震える手で防火扉を下ろそうとする。だが通りの向こうでは、暴走した一体だけでなく、肉片に触れた別の幻獣や、路地裏にいた小動物までが次々とおかしな動きを見せ始めていた。


 店の端末が警報を鳴らす。


 魔獣発生。

 避難指示。

 周辺区画封鎖準備。


 女は文字を読んだはずなのに、意味がすぐには頭へ入ってこなかった。町中で魔獣が発生すること自体は、まったくあり得ない話ではない。けれど、同時に複数地点で、それも市場の中心で起きるなど、誰も想定していなかった。


 防火扉が半分まで下りたところで、通りの奥から対魔局の警報車が滑り込んできた。


 ◆


 対魔局第三出動班の若い狩人は、最初の現場へ到着した瞬間、自分たちが呼ばれた理由を理解した。


 通常の魔獣発生とは違う。

 通報では「市場区画に一体」と聞いていた。だが、実際にはすでに三体が暴れており、そのうち二体は元が幻獣で、残る一体は人型に近い肉塊だった。しかも肉塊は、魔獣の死骸から生まれたのではなく、どこかから剥がれ落ちた呪いの断片が勝手に形を取ったように見えた。


 班長が短く命令を飛ばす。


 若い狩人は防護面を下ろし、ルーン文字が刻印された槍を構えた。広い通りとはいえ、左右には店と避難する民間人が残っている。大技は使えない。炎熱系の礼装を振るえば延焼するし、爆裂系の術式を使えば建物ごと崩れる。だから彼は、まず足を止めるために低く槍を投げた。


 槍は魔獣化した幻獣の前脚へ刺さった。


 だが、魔獣は倒れない。刺さったまま走ろうとし、肉が裂けても構わず前へ出てくる。若い狩人は歯を食いしばり、槍へ刻んだルーンを起動して地面ごと凍結させた。魔獣の脚が止まり、別の狩人が横から首を落とす。そこまでは訓練通りだった。


 問題は、その首の断面から、赤黒い肉芽がこぼれたことだった。


 それが石畳へ落ちた瞬間、独りでに這い始める。小指ほどの大きさしかない肉片が、避難していた男の靴へ取りつこうとした。若い狩人は反射的にそれを踏み潰し、次の瞬間、靴底越しにぞっとするような悪寒を覚える。


 班長が怒鳴る。


「死骸に近づかせるな、血も肉も全部呪いだ!」


 若い狩人は返事をしたつもりだったが、自分の声が喉から出たのか分からなかった。市場の奥からまた悲鳴が上がる。端末には新しい出動要請が重なり続けている。辺居、中央市場、南側の住宅街、旧設備接続部付近。表示された地点が、地図の上で赤く増えていく。


 そして、違和感。

 呪いは一人でに動いたりしない。しかし、それは生き物のように蠢いていた。


 ◆


 辺居の古い集合住宅では、母親が子どもを押し入れの奥へ隠していた。


 窓の外では、何かが外壁を引っ掻いている。最初は酔った男が暴れているのだと思った。辺居では珍しくない。けれど、その音は次第に高い位置へ移動し、二階の窓枠の外側で止まった。母親は子どもの口を手で覆い、息を殺した。


 薄いカーテン越しに、影が揺れる。


 人間の影ではない。細長い腕が何本もあり、頭らしい部分が上下に割れている。呪いに侵された獣なのか、それとも別の何かなのか、母親には分からなかった。ただ、それがこの部屋の中にいる生き物の気配を探していることだけは分かった。


 廊下の向こうで、隣人が何かを落とした。


 その音に反応して、窓の外の影が一瞬で消える。直後、隣室の扉が破られる音がした。悲鳴。家具が倒れる音。何かが床を引きずられる音。母親は子どもの口をさらに強く覆い、子どもは涙を流しながら、それでも声を出さなかった。


 端末は避難指示を出している。


 だが、外へ出れば死ぬ。

 かといって、この部屋にいても助かる保証はない。


 母親は押し入れの戸を少しだけ閉め、そこへ子どもを残したまま、台所から包丁を取った。自分がそれで何をできるのかは分からない。けれど、何も持たずに扉の前で待つことだけはできなかった。


 そのとき、遠くから対魔局の警報音が聞こえた

 それでも母親の不安は消えず、絶望に染まりつつあった。


 ◆


 対魔局通信指令室では、地図の赤い点が増え続けていた。


 辺居で一件、中央市場で一件、南側住宅街で一件、それならまだ分かる。だが、同時刻にこれほど多くの魔獣反応が上がるのは、通常の侵入事案ではあり得ない。壁の穴が一つ開いた程度では、こうはならない。


 通話が重なる。


 現場狩人からの報告、警察からの応援要請、避難所の開設依頼、医療班の不足連絡、そして市民からの悲鳴に近い通報。指令室の空気は、数分前までの秩序を失い、端末の警告音と人の声が何重にも絡み合っていた。


 その中で、担当官はひとつの報告に目を止める。


 複数地点で確認された赤黒い肉片。

 死骸から分離して動く呪いの断片。

 白枝会本社付近から逃走した森人狩人。


 足立明季。


 その名が画面に表示された瞬間、担当官の指が一拍だけ止まった。彼はすぐに上席へ報告を上げる。非常線を拡大し、対魔局狩人を各地へ分散配置し、白枝会本社への突入班とは別に、市街地災害対応班を動かす必要がある。



 緊急事態宣言の準備。

 市民退避。

 辺居優先区画の指定。

 魔獣死骸の焼却と封鎖。


 担当官は次々と命令を入力しながら、画面の端へ増え続ける赤い点を見ていた。ひとつひとつの点の向こうに、人がいる。逃げる者、隠れる者、助けを呼ぶ者、もう返事をしない者。


 局長室へ繋がる回線が開く。

 担当官は、数秒だけ息を整えてから報告を始めた。


 「帝都各所で、魔獣発生。被害は町中と辺居の双方へ拡大中。」

 

 ――対魔局は、設立以前の混沌を再び経験することになる。


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