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14.呪い


 透はその場から動けなかった。目の前で起きていることが、あまりに急で、あまりに理解の外側にあった。

 最初に我を取り戻したのは、皐月だった。


「今すぐその礼装を置きたまえ、足立明季」


 鋭い声と同時に、銀の星が振られる。代表室の窓ガラスが一斉に砕け、外の雪が風ごと室内へ巻き込まれた。冷気の中で雪は瞬く間に氷柱へ変わり、その切っ先が足立の首筋へ寸分違わず突き付けられる。

 透もようやく大槌を握りしめた。掌が汗で滑る。


「な、なにやってんの、足立! どうして!」


 足立は首筋に氷を突き付けられているのに、いつもの飄々とした顔を崩さなかった。ただ、その目の奥だけが冷えている。


「どうしてって、本当に言ってる? 馬鹿のふりでもしてんの?」


 そのとき、床へ膝をついていた代表が動いた。

 死にかけの人間の動きとは思えない速さで、彼女は足立の首根っこを引っつかんだ。足立の身体が不意に引かれ、わずかに重心を崩す。その隙に、代表のもう片方の手が机上の保存容器を叩き割った。


 透明な容器が砕け、黒い血肉が飛び散る。

 次の瞬間、彼女はその破片ごと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「お返しだ、クソ野郎」


 低く、血混じりの声だった。

 足立の口から血が溢れる。だが、それでも彼は笑った。頬を引き攣らせながらも、なお不敵さだけは失っていない。


「ふざけ、やがって! この僕に何てものを!」


 代表は床へ倒れ込みながら、わずかに口角を歪めた。


「せいぜい、足掻け」


 彼女の手に残った破損した容器の縁には、べっとりと呪いに侵された血肉がこびりついていた。

 足立の表情が、そこで初めて崩れた。


 次の瞬間、彼は喉の奥から潰れたような声を漏らし、膝から崩れ落ちる。身体の中心を押さえた指の隙間から、血とは別の黒いものがじわりと滲む。呪いが侵入したのだと、透にも分かった。


「っ、あ――、は……!」


 悶え苦しみながら、足立は上の服を自分で引き剥がした。布が乱暴に裂け、細身の上半身が露わになる。透はそこで、はじめて見た。

 みぞおちの少し上に、古い傷跡のような裂け目がある。その周囲は赤黒く変色し、肉が盛り上がり、皮膚の下で何かが蠢いているみたいに不気味に脈打っていた。


 だが、それ以上に目を引いたのは、その身体を覆う刺青だった。

 蛇のように蛇行した細い線が絡み合いながら全身へ走っている。胸から腹、肩、腕、首筋へと続くその文様は、何かの術式がそのまま皮膚へ貼り付いたような、異様な整合を持っている。しかも呪いが侵入したことで、その線のいくつかが熱を帯び、皮膚の上を生きているように明滅していた。


 足立の身体から湯気がのぼる。

 室温が変わったわけではない。彼自身の内側から熱が吹き出しているのだ。どうやら炭骨が意図せず活性化し、勝手に魔力を生成しているらしい。あるいは、それが呪いへ対抗するための反応なのかもしれなかった。

 皐月が、ごく小さな声でこぼす。


「あれは、()()()?」


 足立は床へ爪を立てながら、何とか呼吸を整えようとしている。透と皐月は互いに一歩も譲らず、武器を構えたまま彼を見下ろした。

 まもなく、足立の呼吸が僅かに落ち着きを取り戻す。

 その口からこぼれたのは恨みの言葉だった。


「よくも、よくもよくもよくも……」


 何度も繰り返しながら、彼は倒れ伏した代表を睨みつける。その目はさっきまでの軽薄さを失い、底の知れない憎悪だけを剥き出しにしていた。


 次の瞬間、足立が炎の剣を振り上げた。

 透は大槌を構え直して備える。皐月はすでに動いていた。銀の星が床を打ち、足立の周囲へ氷のか細い杭を立ち上がらせる。だが、それより一瞬早く、炎剣の刃が赤く脈打った。


 爆炎が、部屋の中心から咲いた。


 音より熱が先に来る。視界が一面の赤と白に塗り潰され、次いで、遅れて轟音が身体を殴った。透は皐月の氷ごと吹き飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられる。大槌が手から離れ、どこかで鈍い音を立てた。


 肺が潰れる。耳が鳴る。熱いのに、なぜか寒い。視界の端で皐月の白いコートが翻り、そのまま床へ投げ出されるのが見えた。

 代表室の天井が揺れ、照明が一気に消えかける。警報の音が遠くで鳴った気がしたが、それが現実なのか、自分の頭の中なのか、透にはもう判別できなかった。


 意識が沈む。


 煙と血と焦げた金属の匂いの中で、透は自分が床から持ち上げられる感覚を、ひどく遠くに感じていた。誰かが叫んでいる。誰かが走っている。靴音。無線。割れたガラスを踏む音。

 断片だけが鼓膜を打つ。


『通報が――』

『ニュースの……本人だ』

『対魔局を呼べ、すぐにだ』

『白枝会本社を押さえろ』

『医療棟へ搬送――』


 揺れる。運ばれているのだ、と透はぼんやり理解した。身体が軽いのか重いのかも分からない。目を開けようとしても、瞼の裏に赤い残像がへばりついて離れない。

 対魔局と警察が来たのだろうか。

 白枝会はどうなるのか。

 皐月は生きているのか。

 代表は。


 足立は。


 知りたいことが次々と浮かんでは、ひどく遠くへ沈んでいく。

 透の意識は、そのまま暗い底へ引きずられていった。


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