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12.致命的な失敗

 壁へ向かって走る処女馬の背は、雪煙の向こうで白い残光みたいに揺れていた。


 透は肺が焼けるような息苦しさを押し込みながら、その背を追う。隣では皐月が銀の星を杖のように扱いながらも、少しも足を鈍らせずに走っていた。壁外の地面は旧都市の残骸に食い荒らされており、ひび割れた舗装の下には、過去の設備がまだ死にきれずに眠っている。そこが魔獣の出入り口になることがあると、透は頭では知っていた。だが、それがいま目の前で起ころうとしていると理解すると、胃の奥が冷たく縮む。


 処女馬は正気を失っている。角のひび割れはさらに広がり、そこから散る火の粉が雪に落ちては消える。脇腹の傷口からは呪いが黒い煙みたいに滲み続け、白い毛並みをじわじわと侵していた。


「追いつかないと……!」


 透が吐き出すように言うと、皐月は前だけを見たまま返した。


「きみが躊躇った責任は、きみ自身で回収したまえ」


 棘のある言い方だったが、責めるだけの声音ではなかった。透にはそれが分かって、なおさら歯噛みしたくなる。言い返す暇もなく、前方で雪の下の地面が不自然に沈んだ。

 処女馬の蹄が、その上を踏み抜く。


 次の瞬間、地面が崩れた。


 雪と土と、古びた鉄板の破片が一気に落ち、処女馬の巨体がそのまま穴の中へ消える。まるで旧都市の配管か搬送路の天井が限界を迎えたみたいに、地下の空洞が音を立てて口を開けたのだ。


「っ!」


 透は足を止めることができなかった。勢いのまま地面の縁へ踏み込み、崩れる雪とともに身体が前へ持っていかれる。その横で皐月も舌打ち混じりに銀の星を振り、咄嗟に何かのルーンを起動させようとしたが、足場そのものが崩れてしまえば支えには足りない。


 二人はそのまま、穴の中へ落ちた。


 冷たい空気が一瞬で身体を包み、視界が闇へ反転する。透はとっさに大槌を胸へ引き寄せ、落下の衝撃に備えた。身体が何かの古い配管へぶつかり、火花と痛みが散る。次いで、足元が抜ける。さらにもう一段、深いところへ落ちた。


 その先で、地上の光が爆ぜた。


 透の身体は、雪と土を突き破って外へ放り出された。

 視界が白く開ける。次いで、悲鳴が耳へ飛び込んできた。闇の壁外とは違う、人の生活の音が混じった叫び声。透はその声だけで、自分がどこへ出てしまったのか理解した。


 辺居だ。


 それも、壁のすぐ内側に近い場所――町中との境目に近い区域なのだろう。頭上には補修だらけの建物が迫り、細い通りには修理跡だらけの看板と、逃げ惑う人影があった。


 処女馬が、いや、魔獣化しかけたあれが先に地へ叩きつけられていた。黒ずんだ身体を大きくしならせて起き上がろうとする、その背へ透は考えるより先に飛び込んでいた。


「止まれっ!」


 振り下ろした大槌が、魔獣の背骨の上へ叩きつけられる。衝撃が両腕を駆け上がり、怪物の巨体が地面へめり込むように沈んだ。砕けた舗装と黒い血が弾ける。周囲の悲鳴が一段と大きくなる。


 透は着地した勢いのまま膝を曲げ、すぐに辺りを見回した。逃げ惑う人々、崩れた露店、遠くで転倒した荷車。誰もがこちらを見ている。透の心臓が、嫌な速さで跳ねた。


 ――顔。


 透は反射的に腰へ手を伸ばした。狩りのときに備えて下げていたガスマスクを引っつかみ、乱暴に頭へ被る。ゴム紐が髪を引き、冷たい面が頬に密着した。視界の縁が狭まり、呼吸音が少し籠もる。


 その直後、魔獣が地面を叩いて起き上がった。


 白かったはずの身体はもう半ばまで黒ずみ、ひび割れた角の奥で火の粉がじりじりと燻っている。瞳は濁っているのに、その奥に苦しみだけが残っているようで、透はそれを見るたびに腹の奥を掻きむしられる。

 皐月が雪煙の中から降り立ち、銀の星を構えた。


「被害は最小限に抑えなければ」

「あたしの所為だ……!」


 透の声はマスク越しでくぐもっていたが、震えだけは自分でも分かるほどだった。

 皐月は一度だけ透を見て、短く返す。


「自責は後にしたまえ」


 そのとき、透は横目に人の気配を捉えた。

 通りの端、半ば崩れた建物の影に、誰かが立ち尽くしている。年頃は透とそう変わらないだろうか。細い肩を強張らせ、秘傘を抱えたまま動けずにいる。咄嗟に逃げることもできず、ただ恐怖に目を見開いていた。


 その姿が、透には妙に見覚えのあるものとして映った。退屈と焦燥と、何かになりたいくせに何にもなれないまま日常の隅に立ち尽くしていた、ついこの前までの自分みたいに見えたのだ。


 まずい、と思ったときには遅かった。


 魔獣が、その子どもへ顔を向けていた。

 黒ずんだ蹄が地面を蹴り、狂ったような勢いで突っ込む。透は考える暇もなく割って入った。


「っ、こっちだ!」


 魔獣の角と前脚、その両方の勢いを受け止めるように大槌を横へ差し込み、全身で押し返す。衝突の瞬間、骨という骨がまとめて悲鳴を上げた。両腕が内側から砕け、肩口から背中へかけて肉が焼けるような痛みが走る。魔力で身体を強化していなければ、そのまま胴ごと裂かれていたはずだった。


「ぐ、ぅ……っ!」


 足が滑る。舗装が割れ、靴底が削れる。マスクの内側で息が熱くこもり、目の前が揺れる。


 そこへ、皐月の魔術が走った。

 雪の下からせり上がった氷槍が、魔獣の肩口を斜めに貫く。怪物の身体が透から逸れ、たたらを踏んで後退した。透はようやく圧力から解放され、その場へ片膝をつく。折れた骨が、すでに熱を持って組み直りはじめている。焼けた肉が再生する、嫌に馴染んだ感覚が皮膚の下を這った。

 透は歯を食いしばりながら、背後の子へ振り返った。


「逃げるんだ!」


 怒鳴るみたいに言ってしまったが、その子ははっと我に返ったように身を震わせ、次の瞬間には一目散に走り出していた。秘傘を抱えたまま、人混みの向こうへ消えていく。


 それを見届けた瞬間、透の身体はもう動いていた。折れたはずの腕はほとんど元に戻り、痛みだけが熱の名残みたいに残っている。


「まだ、終わってない……!」


 透は大槌を引きずるようにして距離を詰め、魔獣の側面へ回り込んだ。処女馬だった頃の名残で脚は細く長いが、いまはそのどれもが呪いで不自然に膨れ、しなり、黒い筋を浮かべている。痛みのせいで動きは荒い。そこへ横から大槌を打ち込む。


 衝撃が魔獣の肋を潰し、その巨体が大きくよろめく。さらに皐月が刻んだルーンが起動し、足元の雪を一気に凍結させた。氷が脚へ絡みつき、怪物はついに片膝をついた。


 透は息を詰め、止めに入るため大きく踏み込む。


 そのとき、魔獣が最後の力を振り絞るように頭を振った。

 ひび割れた角ではなく、前脚でもなく、首のしなりとともに飛んできたのは、脇腹から伸びた触手じみた黒い肉の束だった。透は大槌を振り上げていた分だけ反応が遅れ、咄嗟に顔を庇うことができない。


 ごん、と鈍い衝撃。

 ガスマスクが真正面から弾き飛ばされた。


「――あ」


 冷たい外気が剥き出しの頬へ触れる。視界が急に開け、周囲のざわめきが生身の耳へ流れ込んでくる。透は反射で顔を背けたが、もう遅かった。


 通りの向こうで、誰かが端末をこちらへ向けていた。小さなレンズが、街灯の薄光を返している。動画だ、と透は一目で理解した。しかも一人ではない。人々のざわめきの隙間で、何人かがこちらを見て、端末を構えている。


 心臓が冷たく強く打つ。


 だが、魔獣はまだ生きていた。

 透は唇を噛み、ぐしゃりと湧いた恐怖を押し込めるように大槌を握り直す。いま顔を隠して逃げたところで、こいつを残せば被害が広がるだけだ。自分が招いた失態なら、まず止めるしかない。


「……っ、ちくしょう!」


 透は真正面から踏み込み、魔力を骨の奥から絞り出した。大槌の頭部へ熱が流れ込み、刻まれた機構が低く唸る。次の瞬間、振り下ろされた一撃が魔獣の頭蓋を叩き割った。


 鈍い破裂音。黒い血と火の粉が散り、怪物の身体がびくりと跳ねてから、今度こそ完全に沈黙する。

 透は荒い息のまま、それが動かないことを確認した。確認した瞬間、いまさらみたいに全身の皮膚が総毛立つ。視線が痛いほど集まっている。


「っ……」


 透はすぐにジャケットを脱ぎ、頭から被るようにして顔を隠した。髪も額もまとめて布の下へ押し込み、マスクを失った頬を覆う。みっともないと分かっていても、そうするしかなかった。


 皐月は何も言わず、ただ銀の星を一振りした。地面に残るルーンが起動し、魔獣の死体へ青白い火が走る。白かった毛並みも黒ずんだ肉も、呪いごと焼き払うための炎だ。死体はじゅうじゅうと嫌な音を立て、煙を上げはじめた。


「行くよ」


 皐月の声に、透は頷くことしかできなかった。

 二人は人混みが完全に押し寄せる前に、その場を離脱した。細い通路へ入り、廃材の積まれた裏道を縫うように走る。背後ではまだ悲鳴とざわめきが続いていたが、透には自分の呼吸音と心臓の音しかまともに聞こえなかった。


 しばらくして、人目のない旧設備の影まで逃げ込んだところで、透はようやく端末を取り出した。指先がうまく動かない。何度か滑ってから、ようやく代表の番号へ発信する。

 呼び出し音は二回で切れた。


『どうした』


 いつもの、ぶっきらぼうな声だった。

 それだけで少しだけ救われる自分が嫌になる。透は喉の乾きを無理やりこじ開けた。


「魔獣は討伐した。けど――」


 一度、言葉が止まる。自分の唇が冷えているのが分かる。


「辺居に入られた。あたしの判断が遅れて、壁の接続部から。被害は……まだ全部は見えてない。あと、その、顔を撮られたかも」


 電話の向こうが、しん、と静かになった。


 長くはない。数秒もなかったはずだ。けれど、透にはそれが妙に長く感じられた。皐月も黙って横に立ち、透の横顔を見ている。


 やがて、代表は低く言った。


『わかった』


 それだけだった。

 次の瞬間、通話は切れていた。

 透は端末を見つめたまま、動けなかった。もっと怒鳴られるかと思っていた。詰問されるか、すぐにどこかへ隠れろと命じられるか。何か、もっとはっきりした処置が飛んでくると思っていた。


「……何て?」


 皐月に問われ、透は端末を握りしめたまま答える。


「“わかった”って」


 皐月はそれ以上何も言わず、ただ小さく息を吐いた。その反応が、かえって透の不安を刺激する。代表が何か考えているときは、案外こういう短さで済ませることもある。透はそれを知っていた。知っているからこそ、胸の奥のざわつきが消えなかった。


 そのまま二人は白枝会本社へ戻った。


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