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11.皐月・○○○○○〇・○○○〇

 壁外は、雪と鉄と、古い獣の臭いが混ざった冷たい夜だった。崩れた高架の下、旧都市の残骸が黒い影になって折り重なる中で、貴船透は大槌を振り抜き、その真っ赤な頭部を、一つ目の猪の横腹へめり込ませた。


 崩猪――幻獣だった頃から人を襲う獣として恐れられてきた、崩貴の末裔。魔獣となったいまは、その巨体の毛並みが泥と煤にまみれ、額の中央にある眼窩は、濁った黄の光をぬらりと滲ませている。透の一撃を受けたその怪物は、腹の肉を波打たせながら大きくたたらを踏み、雪を蹴散らして後ずさった。


 だが、怯んだのは一瞬だけだった。


 崩猪は首を低くし、その長い牙を横薙ぎに振るった。牙の表面は、黒い油のような呪いにぬめっていて、触れただけでも皮膚の下に何かを流し込んできそうな嫌な光を帯びている。透は反射で身を沈め、その牙が髪先をかすめていくのを感じながら、半歩踏み込み直した。冷たい空気が喉を裂き、次の瞬間には、槌を握る腕の骨へ魔力を走らせている。


「っ、寝てろ!」


 振り上げた大槌が、崩猪のこめかみを正面から叩いた。


 鈍い衝撃が夜気に広がり、怪物の頭が大きく傾ぐ。巨体は二、三歩よろめいてから膝を折り、最後は雪を抉るようにして地へ沈んだ。砕けた舗装の隙間へ熱い息が漏れ、それもまもなく途切れる。


 透は荒く息を吐き、肩にかかる重さを振り払うように槌を持ち直した。ひと息つける、と思ったところで、別の方向から氷の砕ける音が響く。


 視線を向ければ、皐月が銀の杖へ身を預けるように立っていた。白い息を細く吐きながら、その周囲の雪がひとりでに持ち上がり、空中で薄い板のように伸び、次の瞬間には透明な刃へと形を変えていく。彼女の足元には、いつ刻まれたのか見えもしないルーンが、淡く青白い光を土の下から滲ませていた。


 氷の刃は、逃げようとした別の崩猪の脚へ食い込み、その動きを止める。さらに皐月が杖の石突きを地へ軽く打ちつけると、拘束されていた氷そのものに新しい光が走り、今度は氷塊が内側から爆ぜるように砕け散った。崩猪の首が半ばから裂け、黒い血と肉片が雪へ飛び、怪物は断末魔も上げきれぬまま崩れ落ちた。


 透は眉をひそめる。見惚れるような戦い方だ、と素直に思う一方で、あれが自分と同じ“狩人の手順”だとも思えず、胸の奥がわずかにざわついた。


「相変わらず、容赦ないな……」


 こぼした声に、皐月は振り返りもせず、肩だけをわずかに揺らした。


「獣を狩るのが狩人の役割だからねぇ。優しくする理由がない」


 そう言ってから、彼女はようやく横目で透を見た。灰青の瞳が、崩猪の死体より先に、透の呼吸の乱れや手首の力みを観察しているようで、その視線にはいつもの“研究者の顔”が滲んでいた。


「それより、呪いの回収を忘れないようにしたまえ。代表は、今日の騒動の原因を探るための資料が欲しいそうだ」

「分かってるって」


 透は嫌そうに言いながら、腰の保存容器を外した。


 死んだばかりの魔獣の血肉を切り分けるのは、何度やっても気分のいい仕事ではない。黒ずんだ脂の下で肉はまだ熱を持っていて、刃を入れるたび、腐った獣と鉄錆と焦げた骨を混ぜたような臭いが立つ。透は顔をしかめ、厚手の手袋越しに肉片をつまみ上げ、黒い染みの強い部分だけを切り分けて、専用の保存容器へ押し込んだ。


「……位置取りが遅い。最初の踏み込みで外へ流れすぎた。ルーン刻印も、いちいち溜めが長いし、陣の展開だってまだ雑か……」


 ぶつぶつとこぼすのは、誰に聞かせるでもない反省だった。自分でも止める気はない。あの程度の猪相手に、少し油断すれば呪いの牙が頬を裂いていたのだ。いまの自分はまだ、壁外で皐月と並んで当然に戦えるほど、出来上がっていない。


 保存容器へ蓋をはめながら、透は視線だけを皐月へ向けた。


「今の、どうやって氷作ってるの?」


 皐月は、ちょうど足元の雪を杖先で払っていたところだった。白い粒が舞い、下から露出した黒土の上に、細い光の線が幾何学めいて残っている。


「雪の下敷きになっている地面にルーンを刻印して、まず氷を生み出しているのさ。その後は、その氷自体にもルーンを刻印して操っているだけだよ」


 彼女は当然のように言うが、透にはその“だけ”がまるで当然ではない。皐月は杖を少し浮かせ、氷の残骸のひとつを空中へ持ち上げてみせた。欠片は音もなく回転し、透の顔の前でぴたりと静止する。


「雪みたいに簡単に形を変えてしまうものへ刻印するのは面倒でね。だから最初に土台を作る必要がある。地面のほうが、刻みやすい」

「ルーンを打ち込む、か……」


 透は小さく繰り返したあと、ふと首を傾げた。


「でも確か、森人は自分の手でルーンを刻むんでしょ。皐月って、森人なの?」


 皐月は、その問いに薄く笑った。


「いいや、私は人間だよ。ルーン刻印が森人特有の能力ってのは、その通りだけどね。私の場合は、この『宝物』のお陰さ」


 透は、そこで改めて皐月の持つ杖へ目を向けた。

 杖の名は、銀の星、と呼ぶらしい。


 雪と夜を映したみたいな、細身の銀の杖だった。柄の表面は冷たい月光をそのまま固めたように鈍く光り、先端部には、星を思わせる意匠がひっそりと浮いている。装飾と呼ぶには静かで、武器と呼ぶにはあまりに品がよく、だが皐月がそれへ体重を預ける仕草を見れば、それがただの杖でないことだけは誰の目にも明らかだった。


 皐月はその銀の星を軽く持ち上げ、指先で柄を撫でる。


「この杖は、森人にもできない“遠隔によるルーンの刻印”を可能とする力がある」

「遠くから?」

「そう。私の手が届かない場所へ、刻印を置いて、活性化まで持っていける。だから、ああやって雪の下の地面にも干渉できるし、出来た氷へそのまま次の術式を重ねられる」


 透は目をしばたたかせた。


「それって、魔術とは違うの?」

「宝物が持つ特殊な力も、広く括れば魔術のひとつだよ」


 皐月は少しだけ考えるように間を置いてから、言葉を継いだ。


「ただ、専門的には“魔法”と呼ぶ。宝物が生まれつき帯びている、固有の異能みたいなものだね」


 透は得心したようなしないような顔で、口の中だけでその言葉を転がした。

 魔術。魔法。ルーン刻印。遠隔起動。

 ややこしい。けれど、要するに皐月は、自分の骨から生んだ魔力を、手の届かない場所のルーンへ送り込み、それを起動させる手段を持っているのだろう。普通の人間や狩人なら、活性化させたいルーンへ自分で触れるか、少なくとも手の届く位置に置かなければならない。皐月だけは、それが要らない。


 彼女は特別なのだ。


 透はその実感を飲み込みきれないまま、ジャケットのポケットを指先で叩いた。中には、まだ形を持たない無垢鋼が入っている。あの赤い塊は、いまもただの金属のまま、けれど妙に熱を持っているように思えた。


「宝物って、別に狩人じゃなくても持てるんだよね?」

「持つだけならね」


 皐月は頷いた。


「だが、無垢鋼がちゃんと形になるのは、どうやら素質のある者だけらしい。現に明季も代表も、宝物は持っていない」


 透はポケットの上から、もう一度だけ無垢鋼を確かめた。


「あたしのも、ちゃんと宝物になってくれるといいんだけど」


 皐月は、その言葉にわずかに口角を上げた。挑発するようでもあり、期待しているようでもある、いつもの不敵な笑みだった。


「こればっかりは人によるからねぇ。とはいえ、私は期待しているよ」


 透は鼻を鳴らしそうになって、結局、視線だけを逸らした。


 皐月は空を見上げる。太陽のない夜の天蓋は、照明塔の薄い光すら吸い込みそうなほど深く暗い。


「まあ、宝物が無くても問題はないさ。宝物なんて、あくまで心象を形にしたに過ぎない。本来なら、当人だけで成し得るはずなんだ」

「はず、って」


 透はすぐに突っ込んだ。


「確証ないってことじゃん」


 皐月は笑わなかった。ただ夜空を見たまま、静かに答えた。


「そう思うことに価値があるのさ」


 その言い回しが、いかにも皐月らしくて、透は肩をすくめるしかなかった。

 そのときだった。

 雪を踏む、かすかな物音がした。


 二人の身体が同時に反応する。透は大槌を握り直し、皐月も銀の星を滑らせるように前へ出した。視線の先、崩れた配管の影から現れたのは、白かった。


 処女馬。


 月光もない闇の中でなお、その毛並みだけがほのかに光を返している。細く長い脚、張りのある胸、そして額からまっすぐ伸びた一本角は、緑の宝石を削り出したみたいに透き通っていた。その背後には、まだ脚取りの頼りない子どもが一頭、母の腹へ寄り添うように立っている。

 透は息を呑み、次いで武器を下ろした。


「処女馬だ。天然の処女馬なんて、初めて見たかも」


 皐月も同じく構えを解き、その声には珍しく素の驚きが混じった。


「私もだ。呪いにかかっておらず、しかも子どもを連れている個体となると、珍しいなんてもんじゃない」


 それこそ、数か月はニュースで騒がれるだろう。

 母馬は二人を警戒しているのか、角をわずかに傾け、身じろぎひとつせず透たちを見つめていた。子どものほうは、母の腹の影から半歩だけ顔を出し、黒い目でこちらを窺っている。その姿には、まだ幻獣の静かな理が残っていて、壁外で見るには不釣り合いなほど美しかった。


 だからこそ、透は反応が遅れた。


 雪を押しのけるように、背後の黒い塊が動いたのだと気づいたときには、もう遅かった。

 さっき透が頭を叩いて倒した崩猪が、死んではいなかった。

 怪物は半身を起こし、その背から生えていた触手じみた肉の束を、処女馬の子どもへ向けて一気に伸ばした。黒い触手は雪の上を滑るように走り、子どもの前脚と首へ絡みつく。小さな悲鳴が上がり、子どもの身体が地面から浮いた。


「っ――!」


 透と皐月が同時に踏み出す。

 だが、その一歩より早く、母馬が動いた。

 白い巨体が雪を蹴って躍り、崩猪の触手へ真正面から飛びつく。その歯は獣らしからぬ鋭さで触手へ食い込み、ぐしゃりと嫌な音を立てて肉の束を噛み切った。解放された子どもが雪へ転がり落ちる。母馬はそのまま身を捻り、緑の角で崩猪の肩口を深々と貫いた。


 崩猪が怒号を上げる。


 次の瞬間、怪物の残った触手が鞭みたいにしなり、母馬の脇腹を突き抜けた。

 白い毛並みが一瞬で赤黒く染まる。母馬の身体が大きく揺れ、それでも倒れず、子どものほうへ首を巡らせた。子どもは震えながら、一度だけ母の顔を見返す。その後、何かを悟ったみたいに踵を返し、雪煙を上げて闇の中へ駆け去っていった。

 透の喉がひどく痛んだ。


「くそっ……あたしのせいだ!」


 自分が倒し切れていなかったからだ。さっきの一撃で確実に止めたつもりになって、確認を怠った。その隙に、母馬が傷を負った。


「自分を責めるのは後にしたまえ」


 皐月の声は鋭かった。


「今は――」


 透はすでに走っていた。皐月の氷が崩猪の後脚を貫き、透の大槌が頭蓋を横から叩き潰す。二人の攻撃がほとんど同時に入ったことで、崩猪は今度こそ完全に地へ沈み、雪の上で痙攣してから動かなくなった。


 問題は、それで終わらなかったことだった。

 倒れていたはずの母馬が、ゆっくりと身を起こしたのである。


 透は槌を構えたまま、その姿を見て息を止めた。脇腹に開いた傷口からは、血だけではない、黒い煙のようなものが細く立ちのぼっている。呪いだ、と見ただけで分かった。傷の縁から黒ずみがじわじわ広がり、白い毛を汚し、皮膚の下へ何かが這い込んでいく。


 母馬の角が、ぴしりと音を立てた。


 緑の宝石めいた一本角にひびが入り、その割れ目から黒い筋が走る。次いで、ひびの内側から火の粉が散った。角はくすみ、黒ずみ、もとの清らかな輝きを急速に失っていく。


「……っ」


 透の手が震えた。

 目の前にいるのは、もうただの幻獣ではない。けれど、完全な魔獣とも言い切れない。さっきまで子どもを庇っていた母親であり、その身体はいま、呪いに侵されながらもまだ立っている。これに武器を向けていいのか。向けるべきなのか。

 答えを出せないまま、透は一瞬だけ立ち尽くした。


 皐月は迷わなかった。


 銀の星が一閃し、地面に刻まれたルーンが光る。雪の中から立ち上がった氷柱が、魔獣化しかけた処女馬の肩口と後脚を鋭く穿った。白い毛並みが裂け、怪物は苦しげに首を振る。だが、それでも致命傷にはならない。黒ずんだ角の奥で、火の粉がさらに強く明滅した。


 次の瞬間、処女馬は狂ったように地面を蹴った。


 透めがけて、一直線に突進してくる

 透は反射的に大槌を構えた。だが、その目を見た一瞬、身体が止まった。濁りきった瞳の底に、ほんのわずかだけ、さっき子どもを見送ったときと同じ色が残っているように見えたのである。さらに、その視界の端には、まだ遠くへ逃げ切れていない子どもの背が小さく揺れていた。


 まだ、助けられる方法は無いのか?


 その逡巡は、狩人としては致命的だった。

 処女馬は透のすぐ脇をすり抜け、そのまま速度を落とさず駆けていく。黒い蹄が雪と土を蹴り上げ、向かう先には壁があった。


「透くん、何を――」


 皐月の声が刺さる。

 透は答えられなかった。答えようとして、はじめて自分の手が震えているのに気づいたからだ。槌の柄を握る指先に力が入らない。胸の奥が、嫌な冷たさで満ちていく。


 皐月が短く息を吐く。


「……まずいねぇ」


 その言葉で、透ははっと振り返った。

 処女馬――いや、魔獣化しかけたあの個体が向かう先は壁だ。そしてその向こうには、辺居がある。基本的に壁は魔獣を遠ざけるが、完全ではない。旧都市の設備と繋がった場所から、侵入を許してしまうことがある――それを、透はもう知っている。


「やば……!」


 透は顔色を変え、雪を蹴った。

 皐月も同時に駆け出す。白い息が二筋、夜の中へ伸びる。逃げる背を追うように、二人は壁へ向かって全力で走り出した。


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