075 花の香りは深く、淡く
親子のやり取りに、周囲の臣下たちが困ったように視線を交わす。
けれど、その空気は不思議と悪くなかった。
王宮の玄関前に並ぶ騎士も侍従たちも、厳粛な表情を保ちながら、どこか安堵したような目でゼノンを見ている。
この国の人々は、彼を恐れているのではない。きっとーー愛し、信じているのだろう。
「早いものか」
アルヴァレスは、どこか拗ねたように言った。
「私はな、ゼノン。今日という日を指折り数えて待っていたのだぞ?」
もっと冷たい視線に晒されると思っていた。
隣国から来た元皇后として、過去を値踏みされ、振る舞いを測られ、言葉ひとつでこの国にふさわしいかどうかを裁かれるのだと、どこかで身構えていた。
ーーけれど、目の前の前王は、病み上がりの身体を従者に支えられながら、それでもまっすぐにルシェルを見つめていた。
その目には、ただーー待っていた人をようやく迎えたという、隠しようのない喜びだけがあった。
「父上。お気持ちはわかりますが、ルシェル様は長旅の後です。あまり長く引き止めてはーー」
「わかっておる。だがな、ゼノン。老いた父親の楽しみを、そう無下にするものではないぞ」
アルヴァレスは名残惜しそうな目でルシェルを見た。
「本当なら私が王宮内を案内したいところだが……、この通りでしてな。残念だが、あとは息子に任せるとしましょう。ーーさあ、中へ」
「はい」
ルシェルはゼノンに支えられながら、王宮の中へ足を踏み入れた。
***
アンダルシア王宮の内部は、外観から想像した以上に明るかった。
白い石の壁には、淡い青と金の装飾が施されている。
高い天井からは薄絹の幕が垂れ、海風を受けて静かに揺れていた。
廊下の片側には大きな窓がいくつも並び、その向こうには海が見える。
「風が気持ちいいですね」
「風は精霊の通り道だと考えられているので」
隣を歩くゼノンが答える。
「精霊の……」
ルシェルはそっと窓の外を見た。
青い空。白い雲。遠くにきらめく海。
風が吹くたび、どこからともなく花の香りが流れ込んでくる。
甘く、やわらかくーー懐かしい香りだった。
「……ルシェル様?もしや、体調が優れないのではないですか?」
ゼノンがすぐに気づく。
ルシェルは首を振った。
「いいえ。ただ、本当にいい香りだと思って」
「庭の花でしょう」
「この国は、どこにいても花の香りがするのですね」
「ええ」
***
やがて一行は、王宮の中央回廊へ差しかかった。
そこは他の廊下よりも広く、天井も高い。壁には長い壁画が続いている。
海を渡る船。風を呼ぶ巫女。花畑で踊る人々。王冠を掲げる青年。
アンダルシアの歴史だろうかーーその色彩は柔らかく、どこか神話めいていた。
ルシェルは歩きながら、一枚一枚に目を留める。
そしてーーある壁画の前で、不意に足が止まった。
「……」
そこには、白い神殿が描かれていた。
その周囲には、淡い紫の花が一面に咲いている。
空には銀色の蝶が舞っていて、神殿の前には一人の女性が立っていた。
長い髪を風に揺らし、愛おしそうに傍の男性を見つめている。
傍らには、剣を持った騎士がいて、騎士もまたーー、女性を愛おしそうに見つめていた。
胸が、どくん、と鳴った。
ルシェルは目を離せなかった。
ーー途端に、ほのかに甘い花の香りが、窓の隙間から流れ込んでくる。
その香りに反応したかのように、ルシェルの視界が、白く弾けた。
「ルシェル様ーー!」
すぐ隣でゼノンの声がする。
夢の中の花の香りが、今はっきりと現実のものとして息を塞ぐ。
顔の見えない騎士が、今度は靄の奥からゆっくりと輪郭を持ち始める。
《この花は…あなたの瞳の色と同じですね》
《…あなたはこの花よりもずっと美しいです》
《…私はこれからもあなたのおそばにいます》
《たとえーー幾千の時を超えたとしても……》
その最後の一言は、これまでの夢にはなかった。
「……っ」
膝から力が抜ける。
「ルシェル様!」
倒れかけた身体を、ゼノンが咄嗟に支えた。
エミリアが悲鳴を上げ、藍もすぐに駆け寄ってきた。
「ーールシェル様!」
目の前の壁画が、滲んで見える。
ーー白い神殿。
ーーライラックの花。
ーー銀の蝶。
ーー顔のない騎士。
そのすべてが、心の奥に沈めていた何かを呼び起こそうとしている。
***
ゼノンに抱き抱えられ、部屋へ案内されるまでの記憶は、ところどころ曖昧だった。
高い天井。白い壁。海の音。
藍とエミリアが何度も自分の名を呼んでいた。
そうしてーー気づけば、ルシェルは海の見える広い部屋に横になっていた。
窓は半ば開かれ、薄い帳が風に揺れている。
「ーールシェル様、気が付きましたか?どこか痛むところはないですか?」
ゼノンの声に安心して、咄嗟にゼノンの袖を掴んでいた。
「行かないで……」
「……大丈夫。どこにも行きませんよ」
ルシェルの目に、じわりと涙が滲んだ。
「エミリア」
藍が小声でエミリアを呼ぶ。
「私たちは、しばし席を外しましょう」
「ですが……」
「大丈夫です」
そう言ったのは、ルシェルではなくゼノンだった。
「彼女には私がついていますから」
藍は頷き、まだ心配そうなエミリアの肩を軽く押して、部屋の外へ出た。
扉が静かに閉まる。
「ゼノン様……」
「はい」
「私、最近……いつも同じ夢を……見るんです」
「……どんな夢ですか?」
ルシェルは呼吸を整えようとしながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。
「花が……花が、たくさん咲いていて。神殿のような場所で……銀の蝶が飛んでいるんです。まるでゼノン様の精霊のような蝶がーー」




