074 夢の続きを
ゼノンはただ、遠いものを見つめるように目を細めていた。
「……ゼノン様?」
呼びかけると、彼はすぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。
「すみません。少し、考えごとを」
「私、何かおかしなことを言いましたか?」
「いいえ」
ゼノンは首を横に振る。
「きっと、この国があなたを歓迎しているのでしょう」
「国が?」
「ええ。この国の風も、花も、海も、精霊たちもーー。きっと、あなたが来るのをずっと待っていたんですよ」
「……だとしたら、嬉しいです」
ヴェルディアでは、いつも何かを失わないように必死だった。
ーー皇后としての立場。
ーーノアの愛。
ーーアストレア家としての名誉。
ーー民の信頼。
両手いっぱいに抱え込んで、少しでもこぼれ落ちれば終わりだと思っていた。
けれど、もう肩の荷を下ろしていいのだと、国全体がそっと告げてくれているようだった。
「ルシェル様、疲れていませんか?」
「ええ、少しだけ」
正直に答えると、ゼノンの表情がわずかに曇った。
「王宮に着いたら、まず休んでください。父に会うのも、式の話も、その後で構いませんから」
「でも、国王陛下……いえ、前王陛下がお待ちなのでしょう?」
「父なら、待たせておけばいいのです」
あまりにさらりと言うので、藍が小さく咳き込んだ。
エミリアも目を丸くする。
「ゼノン様……それはさすがに」
ルシェルが困ったように言うと、ゼノンは真顔で返した。
「父も、あなたの体調を第一にしろと言うでしょう。そういう人です」
「……お優しい方なのですね」
「ええ」
ルシェルはその空気に包まれながら、窓の外を見る。
アンダルシアの街は、朝の光の中でゆっくり目覚めていく。
市場では色鮮やかな布が広げられ、果物を積んだ荷車が通りを行き交い、噴水のそばでは子どもたちが笑いながら走っていた。
「……本当に、美しい国だわ」
ルシェルの口から思わず言葉が漏れた。
ゼノンはルシェルのその横顔を見つめ、少しだけ目を細めた。
「あなたにそう言っていただけてよかった」
やがて馬車は王宮の正門をくぐった。
門の内側には、様々な種類の花が一面に咲き揃っていた。
その花を見た瞬間、ルシェルは胸の奥がかすかに震えた。
「ルシェル様?」
ゼノンが気づき、声をかける。
ルシェルはゆっくり首を振った。
「……大丈夫です。ただ、いい香りがしたので」
「王宮の庭には、数え切れないほどの花たちが植えられているからかもしれません」
ルシェルはもう一度、花を見つめる。
「とても綺麗ですね」
「ええ」
ゼノンは静かに答える。
「この花たちも、あなたを迎えるために、精霊たちの力を借りて満開にしたのですよ」
ルシェルは少しだけ笑った。
「そんなこともできるんですね。精霊はすごいわ。それにしても、ゼノン様は、何でも私のためだとおっしゃるのですね」
「事実ですから」
「また、そんなことを」
「これから何度でも言いますよ」
そのあまりに真っ直ぐな言葉に、ルシェルは顔を赤らめる。
藍が窓の外を見ながら、聞こえないふりをした。
エミリアは完全に頬を緩ませていた。
馬車が宮殿の玄関前で止まる。
扉が開く前に、外から大きな声が響いた。
「来たか!」
その声に、ゼノンがわずかに目を閉じる。
「……父です」
説明されなくても分かった。
その声には、抑えきれない喜びが滲んでいた。
馬車の扉が開く。
ゼノンが先に降り、ルシェルへ手を差し出した。
ルシェルがその手を取って降り立つと、正面に一人の男性が立っていた。
年齢を重ねた銀灰色の髪。
深い青の瞳。
痩せ細っていて、従者に体を支えられてはいるが、王としての風格は十分にある。
ゼノンが小さく咳払いした。
「父上」
前王アルヴァレス・アンダルシアは、息子をちらりと見たあと、すぐにルシェルへ向き直った。
そして、深く頭を下げた。
周囲の臣下たちが息を呑む。
前王が、他国から来た女性に頭を下げたのだ。
「ルシェル・アストレア譲。本当に、よく来てくださった」
その声は温かかった。
ルシェルは慌てて礼を返す。
「こちらこそ、お迎えいただき光栄に存じます、前王陛下」
「もっと気楽にしてくだされ。私はもう隠居の身。ただの老耄なのだから」
ゼノンが横から静かに言う。
「父上。父上は、まだ正式な摂政です」
「細かいことを言うな」
アルヴァレスはそう言い切り、改めてルシェルを見た。
その瞳が、また潤む。
「……本当に、会えて嬉しく思いますぞ」
ルシェルは、その言葉に胸が詰まった。
そこには値踏みも、疑いも、政治的な計算もなかった。
ただ、息子が大切に想う人を迎える父親の顔があった。
「……はい」
ルシェルは静かに答える。
「これからお世話になります。どうか、よろしくお願いいたします」
「世話などとんでもない。ここを、ご自分の家だと思ってくだされ」
ーー家。
その一言に、ルシェルの喉が熱くなる。
「……ありがとうございます」
アルヴァレスはとうとう涙を拭った。
ゼノンがため息をつく。
「父上、泣くのは早いです」
藍が横で小さく笑い、エミリアは涙ぐみながらも嬉しそうに微笑んでいた。




