073 ようこそ、アンダルシアへ
アンダルシアの港が見えたのは、朝の光が海の上でほどけ始めた頃だった。
甲板へ出たルシェルは、潮風に白銀の髪を揺らしながら、遠くの岸辺を見つめる。
ヴェルディアの港とは、まるで違っていた。
海へ向かって幾重にも開いた白い石の波止場。
陽を受けてきらめく塔。
青と白を基調にした建物の列。
その背後には、空へ溶けるように淡い宮殿の影が見える。
まるで宝石のような国だと思った。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
「ええ、本当に美しい国ですね」
藍も見惚れているようだ。
その時、不意に潮の匂いの中に、どこか甘い花の香りが混じった気がした。
「ルシェル様?」
藍がすぐ隣で様子を伺っている。
「どうかなさいましたか?」
「……いいえ、なんでもないわ」
***
幾重にも築かれた白い波止場には、すでに迎えの列が整っていた。
青と白の旗が海風の中で大きくはためき、礼装に身を包んだ近衛たちが整然と並んでいる。
その中央に、ひときわ目を引く人影があったーーゼノンだ。
深い青の外套。
陽を受けて光り輝く、銀色がかった美しい髪。
空のように、海のように澄んだ青い瞳。
彼はこの国を象徴するのに相応しい人物であることを、彼のその容姿が物語っていた。
船板が下ろされる。
老臣が儀礼に則って一歩進み出ようとしたが、ゼノンはそれを静かに制し、自ら前へ出た。
ルシェルが渡し板の前に立つ。
足元が少しだけ揺れている気がしたのは、長い航海のせいだけではないだろう。
ゼノンは、すぐに手を伸ばさなかった。
彼女が自分の足で最後の一歩を踏み出すのを待ち、それから、支えが必要ならいつでも受け止められるように、静かに手を差し出した。
「ようこそ、アンダルシアへ」
低く、やわらかな声だった。
「正式な使節としてお招きいただき、光栄です、陛下」
藍がすかさず挨拶をする。
「こちらこそ。あなたがルシェル様のそばにいてくださり、心強く思っていました。ありががとうございます」
「……ゼノン様、国王陛下自ら港まで迎えに来られて、よろしかったのですか?」
ルシェルの問いかけに、ゼノンはほんの少しだけ笑った。
「私は国王である前に、あなたの夫ですので」
「……まだ気が早いのではないですか」
ルシェルは照れたように視線を逸らした。
「そんなーールシェル様、まさか今更私と結婚できない、なんておっしゃるつもりじゃないでしょうね?まぁ、そんなこと言われても逃す気はありませんが」
「……ゼノン様ったら」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「我が父も、あなたに早くお会いしたいと申しております」
ルシェルは目を瞬く。
「お父君が……?」
「ええ。まだ会ってもいないうちから、ずいぶん楽しみにしておりまして。せめて落ち着かれてからにしてくださいと、説得するのが大変でしたよ」
思いがけない言葉に、ルシェルの胸の奥で固くなっていたものが、少しだけやわらぐ。
この国で待っているのは、ゼノンだけではないのだ。
そのことがわかって、心が軽くなった。
「……少し、緊張しますね」
「ご安心ください。父はあなたを大変歓迎していますから」
ゼノンの声には穏やかな確信があった。
その時、ひらり、と銀の蝶が二人のあいだを横切った。
昼の光の中では透明に近いのに、それでもたしかに銀色だとわかる羽。
ルシェルがそれを目で追うと、ゼノンが小さく笑う。
「どうやら、あれも、夜まで待ちきれなかったようです」
「……とても、嬉しいです」
「あれも、私に似て辛抱が足りないようで」
その返しがあまりに自然で、ルシェルはまた笑ってしまった。
老臣が控えめに一礼する。
「陛下、馬車のご用意が整っております」
ゼノンは頷き、改めてルシェルへ向き直る。
「では、参りましょうか」
「はい」
白い港、青い海、朝の光、淡い銀の蝶。
そのすべてが、ルシェルの新しい一歩を静かに祝福しているようだった。
***
用意されていた馬車は、王家の紋章を控えめに刻んだ上質なものだった。
外から見れば厳かな国賓用の馬車だが、中は思いのほか落ち着いたつくりで、過度な装飾はない。
ゼノンの趣味なのだろうかと、ルシェルはふと思う。
乗り込む際、エミリアが一歩引いて別の馬車へ回ろうとしたのを、ゼノンが止めた。
「君は……エミリア、だったよね?」
名を呼ばれ、エミリアがぎくりとする。
「は、はい……!」
「君はルシェルの最も身近な侍女でしょう。ここへ」
そう言って、同じ馬車へ乗るよう促す。
エミリアは驚きで目を丸くしたあと、深く頭を下げた。
「……お、恐れ入ります!」
そうして、ゼノン、ルシェル、藍、エミリアの四人を乗せ、馬車はゆっくりと動き出した。
窓の外ではアンダルシアの街並みがゆっくりと流れていく。海風に白い布がはためき、石造りの建物の窓辺には、見たことのない鮮やかな花々が溢れていた。人々の装いも、街の色も、ヴェルディアとはまるで違う。けれど、不思議と息苦しさはなかった。
むしろ、風がよく通るせいか、胸の内に張りついていた緊張が少しずつほどけていくようだった。
「……本当に、宝石みたい」
「お気に召しましたか」
「ええ、とても」
ルシェルはしばらく窓の外を見ていた。
「……不思議です」
不意に呟くと、向かいに座るゼノンが視線を上げた。
「何がです?」
「初めて来る国のはずなのに、少しだけ懐かしい気がします」
言ってから、自分でも曖昧な言葉だと思った。
懐かしい、というには、この国について何も知らないはずなのに。
だが、ゼノンは少し寂しそうに微笑んで、それから何も言わなかった。




