072 王として、夫として
ーーアンダルシア王国、国王の執務室にて。
机の上には、未決裁の書面が山のように積まれている。
港湾整備の進捗。新税制の草案。辺境守備隊の人員再編。戴冠直後の王のもとへ集まる案件は、どれも急を要し、どれも王自身の判断を求めた。
その一つひとつへ目を通し、印を置き、言葉を返し、また次へ移る。
ゼノンの手は止まらない。
だが意識はずっと、西の海へと向かっていた。
今日、彼女は港を発ったはずだった。
いまごろ、まだ岸影が見えるあたりだろうか。
それとも、もう帝都の輪郭は海霧の向こうへ沈み、船の上であの手紙を読み返しているのだろうか。
「陛下」
控えていたレイセルが、机の横へ音もなく進み出る。
「港より早船の報が届いております。ヴェルディア発の御船団、予定通り正午前に離岸したとのことです」
ゼノンの指先が、わずかに止まった。
「……そうか」
そう思った瞬間、安堵と焦燥が同時に押し寄せる。
今すぐ馬を飛ばして迎えに行ける距離ではないことが、こんなにももどかしいとは思わなかった。
レイセルはそんな王の心の揺れを見て取ったのか、わずかに目を細める。
「陛下。あと数日のご辛抱ですよ」
「……数日、か。長いな」
たかが数日。されど数日。
これまで気の遠くなるほどの年月を過ごしてきたはずなのに、この数日がとても長く感じるのはなぜだろう。
レイセルはそんな主人の様子を、まるで子供を宥める親のような目で見ていた。
「それはそうと、王都の迎えの準備の進捗はどうだ」
「ええ、滞りなく。入港時のお出迎え、王妃様のお住まい、侍女たちの配置、すべて予定通り進んでおります。未だ、王妃様について反発の声もありますがーー」
レイセルが言いかけた時、扉の外から、控えめなノックが響く。
「陛下。外務卿、ならびに内務卿がご到着です」
ゼノンの目が、わずかに細まる。
「通せ」
ほどなくして入ってきたのは、軍務卿も交えた三人だった。
いずれも新王を支えるべき重臣でありながら、今はどこか腹に重い石を抱えたような顔をしている。
先に口火を切ったのは外務卿であるアゼル・レムナント伯爵だった。
「陛下。ご多忙の折、恐れ入ります」
「用件を」
「……は」
男は一度、言葉を選ぶように息を置く。
「未来の王妃候補の件にございます」
「……またか。続けろ」
「ヴェルディア帝国の元皇后を正妃として迎えることそのものに、異を唱える者が出始めております」
内務卿である、アルバート・シュトラウラ公爵がすぐに言葉を継いだ。
「無論、公には誰も陛下のご決定へ異議を申し立てるつもりはございません。ですが……王都貴族の一部に、“なぜ我が国の貴族令嬢ではなく、あえて離縁した他国の元皇后を選んだのか”という不満の声がございます」
レイセルが無言で視線を伏せる。
「それで?卿たちは、どうすべきと考えているのか聞かせてもらおうか」
重臣たちは顔を見合わせる。
最初に答えたのは外務卿レムナント伯爵だった。
「……他の王妃候補を検討されてはいかがかと……」
「却下だ」
ゼノンの即答に、三人が一斉に顔を上げる。
ゼノンは椅子の背にもたれていた身体を起こした。
「婚儀までの間、王都で余計な噂を流す者があれば厳しく取り締まれ。これは高位貴族であろうと関係なく、な。加えて、彼女がアンダルシアに到着した日から一週間、王宮から民に彼女の到着を祝う意味で、食糧や酒を存分に振る舞え」
反論は、もう出なかった。
目の前の若い王が、感情だけで言っているのではなく、王としての計算ごと彼女を守ろうとしているのだと、彼らも理解したからだ。
「……御意に」
三人は頭を垂れ、執務室を後にした。
彼女はただの花嫁ではない。
隣国の元皇后であり、離縁を経てこの国へ来る人だ。
無神経な視線も、下卑た憶測も、必ず生まれる。
それを一つひとつ先回りして潰していくのは、王としてのーー夫としての重要な務めだった。
ーー彼女は手紙をもう呼んだだろうか。
ーー不安にさせていないだろうか。
ーー重いと思われなかっただろうか。
最後に“あなたの騎士”と書いたことを、彼女はどう受け取っただろう。
俺の無駄な足掻きが少しでも彼女の記憶の断片に触れられればいいのだが。
王であることは、国が与えた役割だ。
だが、彼女を愛し、守りたいという願いは、自分自身から生まれたものに他ならない。
だから王であることよりも先に、昔と変わらずアナタだけの騎士でありたかった。
それが今の自分にできる最も確かな愛情表現だからーー。




