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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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071 旅立ちの日に

翌々日の午後、公爵邸に璃州国の藍家から急使が到着した。


白地に濃紺の縁取りを施した衣装は、藍家の正式な使いのものだった。 

応接間へ通されたその男は、藍の姿を見るなり深々と頭を垂れたものの、

その顔にははっきりと困惑が浮かんでいた。


「永燈様、お久しぶりでございます」


藍は気にした様子もなく、問いかける。


「父からでしょう?」


「……はい」


差し出された封書には、藍家当主の印が押されている。

藍は封を切り、文面にざっと目を走らせた。 


「実に父らしい」


ルシェルは向かいの席から、そっと藍の表情を窺う。 


「……お帰りになれと?」


「ええ。後継たる者が、いつまでも他国で遊び呆けるな、と」


藍はルシェルを見て、微笑む。


「大丈夫ですよ。こうなることは、予想していたことですから」


藍はその場で返事を書き始めた。 

筆は迷わず走り、文面は鋭く、無駄がない。


《一つ。未来のアンダルシア王妃となるルシェル・アストレアとの交友は、今後の藍家にとって重要な外交資産となること。

一つ。新王ゼノンの治世が始まったばかりの今、通商予備交渉を兼ねて同行することは、璃州国にとっても、藍家にとっても重要であること。

一つ。ゆえに、これは私情による滞在ではなく、先行投資であること。》


「これを父へ」


急使はそれを受け取る。 

だが、さすがに黙ってはいられなかったらしい。


「永燈様。……もしも、当主がなおお認めにならなければ?」

 

藍は淡々と答えた。


「その時は、認めた方が得だと思わせる材料をもう一つ加えるまでです」


急使は一礼し、すぐに去っていった。


「これで通らなければ、父上は本気で耄碌していますね」


ルシェルが苦笑する。


「お父上に聞かれたら怒られますよ」


そして、同じ頃、ルシェルからの手紙で状況を知っていたゼノンは、アンダルシア王国側から璃州国へ正式な招待状を出すよう手配した。

つまり藍は、ルシェルの友人として同行するのではなく、璃州国の藍家後継として、堂々とアンダルシアに入ることになったのだ。


その書状を見せられた時、藍はめずらしく本気で感心したように言った。


「……あの方は、本当に抜かりがありませんね」


その報せを聞いたルシェルは、目に見えてほっとした表情を浮かべた。


そして、気づけば出国の日が来た。


***


朝の空は、どこまでも高く澄んでいた。

本当に、雲ひとつない青空だった。

それはまるで、今日という日を、誰にも曇らせはしないと言うように。


「……準備は整ったようだな」


公爵の低い声に、ルシェルは頷いた。


「はい、父上」


公爵はしばらく娘を見つめていたが、やがて短く言う。


「顔を上げなさい」


ルシェルは言われた通り顔を上げる。


「お前は他国へ嫁ぐ。だが、アストレアの名も、お前がここで生きた日々も、何一つ消えはしない。アストレア家の娘として、誇りを忘れるな」


「……はい」


「道中、気をつけてな。次は、お前の結婚式で会おう」


「はい、お父様」


テオドールは相変わらず無口だった。

だが妹の前まで来ると、懐から小さな短剣を取り出した。


「持っていけ」


飾り気のない鞘に収まったそれは、礼装用ではなく、実際に使うためのものだとひと目でわかった。


「お兄様、これは……」


「護身用だ。使うことがないのが一番だが、持っているのといないのでは違うからな」


ルシェルが受け取ると、テオドールは低く言った。


「何かあれば、すぐ知らせろ。また、結婚式で会おう」


「はい、お兄様」


ーーその時、執事が声をかける。


「ルシェルお嬢様、クローリアス伯爵令嬢がお見えです」


ルシェルが振り向くより早く、淡い水色の外套をまとったイリアが駆け込むように入ってきた。

普段ならもっと優雅に歩く彼女が、今日は貴族令嬢らしからぬ速さでルシェルの前まで来る。


「……よかった……間に合ったわね」


「イリア……!」


ルシェルの声が、少しだけ震える。


イリアは息を整えもせず、ルシェルの両手を取った。


「見送りに来ないなんて、親友失格でしょう?」


イリアのその目は、すでに赤かった。


「あなた、本当に行ってしまうのね」


「ええ……」


「次こそ、ちゃんと幸せになりなるのよ?」


その言葉はあまりにまっすぐで、ルシェルの胸に深く落ちた。


「手紙をちょうだい。どんな些細なことでも。嬉しかったことも、腹が立ったことも、全部ーー絶対によ?」


「ええ」


ルシェルは頷いた。


「ありがとう、イリア」


そのやり取りを少し離れて見ていた使用人たちの中に、見慣れた顔があった。


ーーユリアナだった。


かつてイザベルの侍女として仕えていた彼女は、今はアストレア公爵家の侍女服に身を包んでいた。

ルシェルが目を見開く。


「……ユリアナ?」


ユリアナは一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「……ご出立の前に、ご挨拶だけでもと思いまして」


ルシェルは目を瞬かせた。


「あなた、その服……」


「公爵閣下のお計らいで、これからは公爵家で働かせていただけることになりました」


その声音は震えていたが、言葉そのものははっきりしていた。


「助けてくださった御恩は、決して忘れません」


ルシェルはしばらく言葉を失った。

イザベルのもとを離れたあと、彼女がどうなるのか、心のどこかでずっと気にかかっていたからだ。


「……そう、よかったわ……本当に」


ルシェルがそう言うと、ユリアナは目を潤ませながらも、懸命に笑った。


「ありがとうございます。次にお会いする時は、今よりもっと胸を張って、お迎えできますよう努めます」


ルシェルは静かに頷いた。


「ええ。楽しみにしているわ」


ルシェルは目を閉じ、ひとつ息を吸う。

そして顔を上げた。


「では、行ってまいります」


公爵が静かに頷く。

テオドールは無言のまま、けれどまっすぐに見返してくる。


馬車の扉が閉まる。


車輪がゆっくりと動き出し、公爵邸の門が少しずつ遠ざかっていく。


***


馬車はゆっくりと帝都を抜け、港へ向かった。

港へ向かう馬車の中で、ルシェルはほとんど喋らなかった。


窓の外を流れていく街並みを、ルシェルは静かに見つめていた。

皇后として見た帝都とは、もう少しだけ違って見える。


港には、すでにアンダルシアからの迎えが待っていた。

深い青の旗が、海風の中で大きくはためいている。


「ルシェル・アストレア様。お迎えに上がりました。アンダルシア国王陛下より、必ず無事にお連れするよう命を受けております」


その言葉に、ルシェルの胸が小さく鳴る。


老臣は続ける。


「それから、こちらを」


差し出されたのは、一通の封書だった。

海青の封蝋に、見慣れたアンダルシアの印があった。


その場で開くべきか迷ったが、老臣が「陛下より、できればすぐにお目通しをと」と静かに添えたため、彼女は封を切った。


《本来なら、誰にも任せず、この手であなたを迎えに参りたかった。

それが叶わぬことを、ひどくもどかしく思います。

あなたがアンダルシアへ来てくださる日を、私は指折り数えるように待っています。

王としても、一人の男としても、ただあなただけを想っています。

どうか道中は何も案じず、お心を煩わせることなくお越しください。

早く、お会いしたいです。私の心はいつもあなたのそばにあります。 ”あなたの騎士 ゼノン・アンダルシア”》


”あなたの騎士”


これは以前もらった手紙にも書いてあった。


(一体なぜ、騎士なのかしら?)


ルシェルはそんなことを思いながら、そっと手紙を胸元へ押し当てる。

目を閉じれば、彼の青い瞳が鮮明に浮かんできて、愛おしさが込み上げた。

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