070 夢か現か
それからの日々は、短く、濃かった。
彼は求婚者である前に、一国の王だ。滞在を長引かせることはできなかった。
戴冠したばかりの主を国に長く不在のままにしておくわけにはいかない。
王都では、彼の帰還を待つ政務が山のように積まれており、王妃を迎えるための準備もまた、彼自身の指示なしには進まない。
アンダルシアではすでに、王の不在を長くしてはならぬ案件が山のように積まれているらしく、海を越えて届く急使も一度ではなかった。
それでもゼノンは、滞在できるぎりぎりまで帝都に残った。
午前は公爵と文官たちを交えて書面を整え、午後は宮中で礼式や外交上の手順を詰め、夕刻になると、決まって公爵邸の庭へ現れた。
その時間だけは、彼は王でも国賓でもなく、ただのゼノンだった。
ルシェルもまた、その短い時間を、胸の奥で大切に抱えるようになっていった。
ある夕暮れ、ゼノンは静かに言った。
「明日には、私は一度アンダルシアへ戻らなければなりません」
「……そう、ですか」
「本当なら、あなたと離れたくはありません。ですが、公爵との約束通り、あなたを王妃として迎えるためには、私が先に整えるべきことが山ほどあるようです」
ルシェルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……はい。わかっています」
ゼノンは彼女を見つめる。
「あなたを一人残すのが、不本意です」
「一人ではありません」
ルシェルは微かに笑った。
「父も、お兄様も、藍様も、エミリアもおります」
ゼノンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「ええ。そうでした。それでも、私がここにいないことに変わりはありません」
その言葉に、ルシェルの胸が熱くなる。
「では、急いで帰ってください」
ゼノンが目を瞬く。
「私が行く国を、きちんと整えて待っていてくださらないと困ります」
その言葉に、ゼノンは一瞬だけ言葉を失い、それから静かに笑った。
「……敵いませんね」
***
ゼノンが帰国した夜、ルシェルはなかなか寝つけなかった。
エミリアの淹れてくれたハーブティーを飲み、ようやくうとうとと目を閉じた時だった。
ーー美しい花々が咲き誇っている。
神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。
そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ。顔は見えない。ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。
《この花は……あなたの瞳の色と同じですね》
その言葉を聞いたところで、ルシェルは目を覚ました。
胸元に指を当てると、鼓動がひどく速かった。
夢の名残は微かな温度となって指先に残り、消えなかった。
(……夢……だったの……?)
そして、数日後ーーまた同じ夢を見た。
今度は前よりも、少しだけはっきりしていた。
ーー美しい花々が咲き誇っている。
神殿のような場所に、銀色の蝶たちが舞っている。
目の前には、やはり顔の見えない騎士の影。
《この花は……あなたの瞳の色と同じですね》
《……あなたはこの花よりもずっと美しいです》
《……私はこれからもあなたのおそばにいます》
顔は相変わらず靄がかかって見えない。
けれど、その言葉は甘く、そして切なかった。
胸の奥に懐かしい痛みが広がり、ルシェルは夢の中で涙を堪えた。
「また……同じ夢……」
その夢は、それからも時折、ルシェルの眠りの底へ落ちてきた。
しかしやはり、その場面以外は何も見ることはできないし、騎士の顔も見ることはできなかった。
***
夜になると、銀の蝶は変わらず窓辺へ現れた。
毎晩ではなかった。
けれど現れる夜は、決まってルシェルが少しだけ心細くなる夜だった。
一方、藍もまた、いつまでも公爵邸に滞在してはいられなかった。
璃州からは何通もの催促が届いていたし、使節としての役目を考えれば、さすがに長居が過ぎる。
ある夕暮れ、ルシェルの部屋で茶を飲みながら、藍は珍しく素直な声音で言った。
「……私も、そろそろ帰国しなければならないのです」
「丁香様……」
「さすがに長居しすぎました」
苦笑しているが、その声音の奥には本物の名残惜しさが滲んでいた。
「……そう、ですよね」
ルシェルは静かに頷く。
それが当然だとわかっているからこそ、胸が少しだけ沈んだ。
藍はしばらく黙っていたが、やがてまっすぐルシェルを見る。
「でも……」
「はい」
「できることなら、あなたと一緒にアンダルシアへ行きたい」
ルシェルは目を見開いた。
藍は苦く笑う。
「我ながら無茶を言っている自覚はあります」
「では、どうして……?」
「あなたを、一人で渡らせたくないからです。もちろん、あなたにはゼノン陛下がおられます。あの方なら、きっとあなたを大切にするでしょう。ですが、それとこれとは別です」
ルシェルの胸がじわりと熱くなる。
「あなたが歩む新しい道を、近くで見届けたい。そう思ってしまったのです」
ルシェルはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく微笑む。
「……丁香様」
「はい」
「ありがとうございます」
藍は照れ隠しのように肩をすくめた。
「礼を言われるほど高尚な話ではありませんよ。半分は私情ですから」
「残り半分は?」
「もちろん、あなたが幸せになるところを、この目で確認したいのです」
そう言ってから、藍はふいに視線を逸らす。
それから、二人は顔を見合わせて、静かに笑った。




