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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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069 正式な申し出

同じ頃、迎賓宮では、まだどの窓にも灯りが残っていた。


帝国が国賓のために整えたその宮は、豪奢で、静かで、隙がなかった。

だがゼノンにとっては、どれほど上質な部屋であろうと、今夜はただの仮の滞在先にすぎない。


月が高い。

その夜気を裂くように、ひとすじ、淡い銀が飛んだ。


ゼノンは顔を上げる。


開け放っていた窓辺に、銀の蝶がふわりと舞い戻ってきた。

蝶は迷うことなくゼノンの肩へ留まり、それから彼の指先へ移る。

彼は、ごく小さく息を吐いた。


「……そうか」


その短いひとことに、安堵が滲んでいた。


法廷で彼女を見た時、胸の奥が焼けるように熱くなった。

今すぐ抱き上げて、誰の目にも触れぬ場所へ攫ってしまいたいと、本気で思った。

だがそれをしなかったのは、王だからだけではない。


彼女が望まぬ形で連れて行くことだけは、したくなかった。

自分が欲しいのは、救われるために縋ってくるルシェルではない。

自分の足で立ち、自分の意志で手を取ってくれるルシェルだったから。


「……やっと、私の元に来てくれましたね」


***


翌朝、公爵邸は早くから落ち着かぬ空気に包まれていた。


迎賓宮より、アンダルシア国王来訪の報せが改めて届いたからだ。

国賓を迎える礼式に則り、玄関広間から応接間までが整え直され、使用人たちはいつも以上に静かに、素早く動いていた。


「ルシェル様、昨夜は、よく眠れましたか?」


「……ええ。不思議なくらい、よく眠れたわ」


そう答えると、エミリアの顔に、ようやく安堵の色が滲んだ。


「それは何よりです」


着替えを手伝われながら、ルシェルは窓の外を見る。

朝の庭は静かで、昨夜の蝶の気配はもうどこにもなかった。


階下へ下りると、朝食の席にはすでに公爵とテオドール、藍が揃っていた。


藍は昨夜と変わらぬ男装姿で、涼しい顔のまま茶を口にしている。

だがテオドールが何か言うたびに、目線だけが妙に真面目になるのを、ルシェルは見逃さなかった。


「よく眠れたか?」


テオドールの問いに、ルシェルは席へ着きながら頷く。


「ええ。少しだけ、久しぶりに」


「ならいい」


藍が茶器を置く。


「よかったですね、テオドール様。昨夜の見回りが報われましたね」


ルシェルが顔を上げる。


「お兄様が見回りを?」


テオドールは露骨に顔をしかめた。


「……余計なことを」


「あ、これは失礼しました。でも事実でしょう?あなた、昨夜だけで五回はルシェル様の部屋の前を通っていましたよ」


「たまたまだ」


「ええ、そういうことにしておきましょう」


その返しに、ルシェルは思わず笑ってしまった。

テオドールはさらに眉を寄せたが、否定はしない。


そこに、執事の落ち着いた声が響いた。


「旦那様。アンダルシアの国王陛下がご到着なさいました」


公爵はゆっくりと立ち上がった。


「応接室へご案内しろ」


「かしこまりました」


執事が下がる。


藍が横目でルシェルを見る。

その顔には、面白がり半分、心配半分の色がある。


「ルシェル。お前も来なさい」


「はい」


立ち上がった瞬間、自分でも驚くほど心臓が大きく鳴った。


***


応接間の扉が開く。


朝の光を背に、ゼノンがそこに立っていた。


深い青の礼装に銀糸の刺繍。

肩に掛かる外套は重たげで、その立ち姿には明確に、一国の主たる威厳がある。

けれどルシェルが入ってきたのを見た瞬間、彼の青い瞳だけがほんのわずかにやわらいだ。


ゼノンは礼を取り、公爵へ向かって告げる。


「本日は、お時間を賜り感謝いたします」


公爵は静かに返す。


「娘のために来てくださったこと、父として感謝しております」


ゼノンはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから続けた。


「本日、改めて申し上げに参りました」


彼の視線が、一度だけルシェルへ向く。

そのわずかな一瞥だけで、ルシェルの胸が熱を持つ。


「私は、ルシェル・アストレア嬢を、正妃として正式に迎えたいと考えております」


公爵は黙っている。


「私は彼女を政治の駒として利用するつもりは一切ありません。必要であれば、その旨を両国の盟約に明記しても構いません。私は王として、彼女を守る責を負います。ですがそれ以前にーー」


そこで初めて、彼の声音がほんの少しだけ変わった。


「私は一人の男として、ルシェル嬢の隣にいたいのです」


公爵は長く沈黙したのち、低く問うた。


「娘の気持ちは、どう考えておいでですかな」


ゼノンはためらわなかった。


「もちろん、最終的には彼女自身のお心に従います」


その答えに、公爵は小さく頷く。

そして、今度はルシェルを見る。


「お前はどうしたい」


その問いは、父としてであり、家長としてでもあった。


ルシェルは息を呑む。


「……私も、ゼノン様の隣に居たいです」


公爵はしばらく娘を見つめ、それから静かに息を吐いた。


「……そうか」


短い言葉だった。


「国王陛下。娘の意志は、今ここで確かに聞きました。ですが、それで直ちにすべてが決するわけではありませぬ」


「承知しております」


ゼノンはまっすぐに頷く。

公爵は続けた。


「三つ条件がございます」

 

「はい」


「第一に、婚姻は、誰が見ても瑕疵のない形で行うこと。第二に、娘の意志を今後いかなる局面でも最優先すること。これは婚姻前だけの話ではなく、貴国へ渡った後も、です」


「はい、誓います」


その声には、少しも飾りがなかった。


「最後に」


公爵は一度だけ、娘を見る。


「娘が、この国との縁を断ち切ることを求めぬことです。王妃となったあとも、必要があれば実家へ戻れるようにすること。手紙も使いも、誰にも妨げられぬこと。それをお許しいただきたい」


ルシェルの睫毛が揺れた。

父が、娘に帰る場所を残そうとしているのだと、はっきりわかった。

 

ゼノンは一瞬だけ、ルシェルを見た。

彼女の白銀の髪。緊張でわずかに強ばった肩。こちらを見る、美しいライラックの瞳。


「むしろ、そうでなければ困ります」


公爵の眉がわずかに動く。


「困る、とは?」


「あなた方のように、彼女を本気で案じる方々との縁を断たせて、幸せにできるとは決して思っておりません」


ゼノンは続ける。


「彼女が愛する全てを……そして、彼女を愛してくれる全てごと、私は愛しているのですから」


ルシェルの胸が、ひどく熱くなる。


「よろしい。ならば私は、父としても家長としても、あなたからの正式な申し入れを受けましょう」

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