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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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068 公爵邸の夜

公爵邸へ戻る頃には、空はすっかり夜の色へ沈んでいた。


門前の灯火が規則正しく揺れ、屋敷の石壁を淡く照らしている。

見慣れたはずの外観だったが、ルシェルには、どこか遠い場所のようにも思えた。


馬車を降りると、使用人たちが一斉に頭を垂れた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


その声に、ルシェルの胸が小さく痛む。


皇后陛下ではなく、ただのお嬢様に戻ったのだ。

それが今の自分にふさわしい呼び名なのだとわかっているのに、耳に落ちた瞬間、失ったものと戻ってきたものの両方を思い知らされた。


ルシェルは小さく頷いた。


「……ただいま」


その一言だけで、エミリアがまた泣きそうな顔をしたので、ルシェルは少しだけ笑った。


屋敷へ足を踏み入れると、そこには皇宮とは違う静けさがあった。

それは、張りつめた沈黙ではなく、久しぶりに帰ってきたルシェルのために声を潜める時の、やさしく穏やかな静けさだった。


***


ルシェルの部屋は、皇后になってから一度も帰っていなかったが、昔とほとんど変わっていなかった。

きっと、丁寧に管理してくれていたのだろう。


白木の化粧台。

窓辺の長椅子。

そして、気に入っていた真っ白な本棚。


まるで、ここだけ時間が遅れて流れていたみたいだった。


ルシェルは鏡の中の自分を見た。

白銀の髪を下ろした自分は、皇后の時よりずっと若く、ずっと頼りなく見える。


それが少し、可笑しかった。


「……私って、こんな顔だったかしら」


「お嬢様はいつでもお美しいですよ」


即答したエミリアに、ルシェルはかすかに目を細める。


「あなたは昔から、それしか言わないのね」


「だって、本当のことですから」


その声音があまりに真剣で、ルシェルはようやくほんの少し笑えた。


着替えを終えると、エミリアがそっと蝶の髪飾りを小箱ごと卓上へ置いた。

銀の繊細な意匠は、燭台の火を受けて、静かに光る。


ルシェルの視線がそこへ吸い寄せられる。


ゼノンから贈られた、蝶の髪飾り。

今ではもう、ただ美しいだけの贈り物ではなかった。


「エミリア」


「はい」


「藍様のお部屋は、整ったかしら」


エミリアは一瞬きょとんとして、それから頷いた。


「はい。南の一番広い客間をご用意しております」


「そう。ありがとう」


エミリアは少し笑う。


「藍様がいらしてくださって、私、少し安心しました」


「私もよ」


ルシェルは本音をそのまま返した。


今日の夜、一人きりでいたら、きっといろいろなことを考えすぎてしまう。

父や兄の気配があるのとは別に、女同士の、言葉にしなくてもわかる静けさが今は欲しかった。


その時、扉が控えめに叩かれた。


「どうぞ」


エミリアの代わりにルシェルが答えると、入ってきたのはテオドールだった。

テオドールは妹の顔を見るなり、短く言った。


「食事は摂れそうか?」


「……少しなら。あまりお腹は空いていませんので」


「少しでいいから、食べろ。今は体力をつけなければ」


「お兄様は、相変わらず命令口調ね」


「そんなつもりはないのだが……」


少し困った表情のテオドールを見て、ルシェルは微笑む。


彼はふと、卓上の蝶の髪飾りへ目を向けた。

だが何も触れず、すぐに視線を戻す。


彼は一歩だけ近づくと、子どもの頃と同じように、ルシェルの頭を軽く撫でた。


(お兄様ったら、まだ私を子供扱いしてるのね)


テオドールはそれ以上何も言わず、扉の方へ戻りかける。

だが、そこでふと思い出したように振り返った。


「藍殿は今、父上と少し話している。落ち着いたら、こちらへ来るだろう」


「……そうですか」


「とにかく、食事は摂るんだぞ。今日は疲れただろうから、ゆっくり休め」


それだけ言って、テオドールは出て行った。


扉が閉まると、エミリアが小さく笑う。


「テオドール様は、今日はいつにも増して不器用ですね」


「ええ」


ルシェルは微笑んだ。


「でも、ありがたいわ」


***


夕食は、自室で摂ることにした。


料理はどれも、胃に優しいものばかりだった。

よく煮た白身魚。香草を控えめにした温野菜。薄く焼いたパン。温かなスープ。

公爵家の料理人たちが、気を回してくれたのだろう。


だが、結局、小鳥の餌程度にしか喉を通らなかった。


ほどなくして、テオドールが言っていた通り、藍が訪ねてきた。


「ルシェル様、よろしいですか?」


「ええ、もちろん」


藍は昼間の緊張を半分ほど脱いだ顔で、窓辺の椅子へ腰を下ろした。

男装のままなのに、その仕草だけで女性だとわかる瞬間がある。


「お疲れになりましたか?」


「ええ。さすがに少しね」


「でしょうね」


藍は肩をすくめる。


「私ですら疲れたのですから、あなたはなおさらでしょう」


その物言いに、ルシェルは少し笑う。


しばらくして、藍が少し目を伏せながら問う。


「……テオドール様は、昔からああなんですか」


ルシェルは瞬いた。


「昔から、とは?」


「……口数が少なくて、普段はツンケンしているのに、肝心なところで男らしさを見せる……というか……」


その言い方があまりに藍らしくなくて、ルシェルは思わず藍を見た。


藍は目を逸らさなかったが、耳のあたりだけがほんの少し赤い。


「……丁香様」


「何です?」


「ひょっとして……」


ルシェルが少し悪戯な表情を見せる。


「ーー違います!」


藍はすかさず否定する。


「まだ何も言っていませんよ」


「……では、言わないでください」


珍しく少し早口だった。

ルシェルはとうとう、口元を押さえて笑った。


藍がむっとした顔をする。


「笑うところですか?」


「ごめんなさい。でも……少し、嬉しくて」


「何がです」


「藍様にも、そういうお顔があるのだと思って」


藍は一瞬、言い返しかけて、結局ため息をついた。


「……ありますよ、そのくらい」


そして、少しだけ真面目な顔になる。


「丁香様、お兄様は不器用だから伝わりづらいけれど、とても優しい方ですよ。これは、決して贔屓目にみているわけではありません」


ルシェルが優しい表情で言う。


「……ええ。わかっています」


藍は恥ずかしそうにルシェルを見つめた。

二人はしばらく見つめ合って、そして笑い合った。


「丁香様。我が家に来てくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ。私は、あなたを一人にしたくありませんでしたから」


それは軽口でも皮肉でもなく、まっすぐな本音だった。

その後、二人は互いのことをひとしきり語り合って、そして夜が更けてきた頃、藍は部屋を後にした。


***


ルシェルが窓辺で月を眺めていると、窓辺でかすかな光が揺れた。


ルシェルは顔を上げる。

夜の帳が下りた庭を背にして、銀の蝶が一羽、そこにいた。


昼間見た時とは違う。

今の蝶は、たしかに銀色で、月のひかりをそのまま羽にしたように、静かで、冴えて、とても美しい。


蝶は一度だけ窓硝子へ触れるように羽を震わせ、それからふわりと高く舞い上がる。


その軌跡に沿って、淡い光がひと筋だけ残った。

言葉も文字もないけれど、ルシェルにはそれが不思議とわかった。


”おやすみ”


ルシェルは窓辺へ歩み寄る。

蝶は逃げない。ただ静かに、彼女が近づくのを待っていた。


「……来てくれてありがとう。彼にもよろしく伝えてちょうだい」


小さく呟くと、蝶はまるで頷くように羽を揺らした。

その様子がたまらなく愛おしくて、ルシェルはようやく、ひとつ深く息を吸うことができた。


蝶の髪飾りを胸元で握りしめながら、ルシェルは窓辺に額を寄せた。


ゼノンもまた眠りにつこうとしているのだろうか。

そう思うだけで、胸の奥に灯った小さな火が消えずにいてくれる気がした。


銀の蝶はしばらく窓辺に留まり、それから夜の庭へ、音もなく溶けるように飛び去っていった。

あとに残ったのは、静けさと、もう一人きりではないという、かすかな確信だけだった。

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