076 胡蝶の夢
「……ごめんなさい」
ルシェルは小さく首を振った。
「おかしなことを言いました。港で見た蝶が綺麗だったから、つい……夢にまで見てしまったようです」
ゼノンはすぐには答えなかった。
彼はルシェルの手を包んだまま、ほんの少しだけ目を伏せていた。
その横顔に浮かんでいたものを、ルシェルは読めなかった。
「……銀蝶は」
やがてゼノンが静かに口を開いた。
「この国では、精霊に深く愛された者のそばに現れると言われています」
「精霊に愛された者……ですか?」
「ええ。ですが、彼らは気まぐれな存在です。人が望んだからといって、来てくれるものではありません」
「では、私の夢に出てくる銀の蝶も、その……精霊なのでしょうか?」
「そうかもしれませんね」
曖昧な答えだった。
けれど、突き放されたようには感じなかった。
むしろ、ゼノンは言葉を選んでいるように見えた。
「私の見ている夢は……よくない夢なのでしょうか……?」
「……どうでしょう。あなたが怖いと思うのなら、よくない夢ですがーーあなたが素敵な夢だと思うのなら、きっと……いい夢なのでしょう」
「ゼノン様はいつも、私の想いを尊重して下さいますね」
「あなたの心は、あなたのものですから」
その言葉に、ルシェルは目を伏せた。
ーー自分の心は、自分のもの。
当たり前のはずなのに、ルシェルはその当たり前を長く忘れていた気がした。
「……夢の中で」
ルシェルは再び口を開いた。
「誰かが私に花をくれるんです。少し靄がかかっているので、はっきりはわからないのですが、あれはおそらくーーライラックだと思います。夢なのに、とてもいい香りがするんです。懐かしくて、恋しい香り……」
ゼノンの指が、わずかに強張った。
本当に、わずかに。
けれどルシェルは気づいた。
「……そうなんですね。……ルシェル様は、夢の中ではどんなお気持ちなんですか?」
「気持ち……ですか。そうですね……、なんでしょう。なんだか、とても誰かを愛おしく思っているような……、それでいてとても大きな不安を抱えているような……なんだかよくわからない気持ちです。それからーー、いつも夢は途中で途切れてしまうので、先を見てみたいのですが……一方で、知りたくないような気もするんです。このままずっとこの場所にいたいーー、そんな感じです」
「……そうですか」
ルシェルはゼノンを見た。
ゼノンは、まるですぐにでも泣き出してしまうのではないか、と思うほどに悲しげな表情だった。
「……ゼノン様?大丈夫ですか?お加減が優れないのでは……」
ルシェルは俯いたゼノンの顔を覗く。
「……いいえ。とても元気ですよ。少し考え事をしていただけです」
「……そう、ですか」
ルシェルはそれ以上、何も言わなかった。
ゼノンもまた、沈黙している。
窓の外から海鳥の鳴き声が聞こえた。
風が薄い帳を押し上げ、部屋の中へ淡い花の香りを運んでくる。
さきほどまでなら心地よいと思えた香りが、今は少しだけ胸を締めつけた。
「そういえば……この国では、精霊のお祭りがあるのでしたよね」
ゼノンの瞳が開く。
「精霊祭のことでしょうか?」
「はい。以前、お話に出ていましたから」
「覚えていたのですね」
「もちろんです」
ルシェルは少し得意そうに笑った。
「七月でしたよね?」
「ええ」
「もうすぐではありませんか?」
「……そうですね」
「どんなお祭りなのです?」
「国中の精霊へ、一年の感謝を返す祭です」
「賑やかなものですか?」
「ええ、とても」
「それは楽しみです」
無邪気に笑うルシェルを見て。
ゼノンの胸に、微かな不安が落ちた。
ーー精霊祭。
一年で最も、この国の精霊たちが活発になる日。
各地に眠る精霊が王都へ集まり、古い神殿の門が開かれる。
「ゼノン様?」
「はい」
「精霊祭に、何か心配事でも?」
ルシェルは首を傾げる。
ゼノンは一瞬迷い、それから笑った。
「今年は、あなたに大役がありますので」
「……え、私にですか?」
「ええ」
「まさか……」
嫌な予感がしたのか、ルシェルの顔がわずかに引きつった。
ゼノンはそんな彼女へ、容赦なく告げる。
「精霊祭が、あなたの王妃としての最初の務めになりますから」
「……もう一度、お願いします」
「王妃としての最初の務めです」
「聞き間違いではなかったのですね……」
ルシェルは額へ手を当てた。
「ゼノン様……」
「もちろん、無理にとは言いません。あなたの体調と気持ちを最優先にします」
「でも、必要なことなのでしょう?」
「……ええ」
「ゼノン様は、本当に私に甘いですね」
「当然です」
あまりに真顔で言うので、ルシェルは困ってしまった。
「そこは否定してください」
「できないことは約束しない主義ですから」
そう言って、ゼノンは微笑んだ。
「では、これからも甘やかすおつもりなのですね」
「はい。全力で」
返事が早かった。
ルシェルは思わず目を丸くし、それから小さく笑った。
「最善を尽くします。私はこの国の王妃として、皆に認めていただきたいので」
「さすが、私の妻ですね。ですが、心配しなくても大丈夫ですよ。あなたに難しいことをさせるつもりはありませんから」
「では、何をすればいいのですか?」
「王とその伴侶が、祭壇へ花を捧げるのです」
「花を?」
「ええ。そして、民の前で祈りの言葉を述べる」
「祈りの言葉……ですか?」
「ええ。王妃として、国の安寧を願うーー。それだけでいいんです」
「祈り……ですか」
「そのあとは、お祭りを楽しむだけです。祭りの間は、皆、それぞれに精霊たちへ祈りを捧げるのが通例となっています」
「何を祈るのですか?」
「それは自由です」
「自由?」
「ええ」
ゼノンは頷いた。
「精霊祭で捧げる祈りには、決まりはありません。あるものは、健康を。あるものは、富をーー何を願ってもいいのですよ」
「……他国から来た私の祈りも、届くでしょうか」
「きっと、届きますよ。あなたは、精霊たちに愛されていますから」
ゼノンの確信めいた言葉に、ルシェルは安堵した。
「ーーところで、ゼノン様は、毎年何を願うのですか?」
不意打ちで、ゼノンは答えられなかった。
何百年、何度違う身体で生きても、願いはただ一つだった。
――『もう一度、あなたに会いたい』
その願いは、もう叶ったと言ってもいい。
「……秘密です」
ゼノンは、ようやく答える。
「またですか?」
ルシェルはムッとする。
「心からの願いはーー、誰にも話さない方が良いものなのですよ」
「そうですか……」
ルシェルは一瞬、きょとんとした。
そして、「……それもそうですね」と、柔らかく笑った。
「……ええ。そうですよ」
ゼノンは、ルシェルの手を握った。
もう二度とーー彼女のこの手を離さない。
ゼノンの気持ちに反応したのか、銀色の蝶がどこからともなくやってきて、二人の頭上をふわりと舞っていた。




