↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
76/76

076 胡蝶の夢

「……ごめんなさい」


ルシェルは小さく首を振った。


「おかしなことを言いました。港で見た蝶が綺麗だったから、つい……夢にまで見てしまったようです」


ゼノンはすぐには答えなかった。

彼はルシェルの手を包んだまま、ほんの少しだけ目を伏せていた。

その横顔に浮かんでいたものを、ルシェルは読めなかった。


「……銀蝶は」


やがてゼノンが静かに口を開いた。


「この国では、精霊に深く愛された者のそばに現れると言われています」


「精霊に愛された者……ですか?」


「ええ。ですが、彼らは気まぐれな存在です。人が望んだからといって、来てくれるものではありません」


「では、私の夢に出てくる銀の蝶も、その……精霊なのでしょうか?」


「そうかもしれませんね」


曖昧な答えだった。

けれど、突き放されたようには感じなかった。

むしろ、ゼノンは言葉を選んでいるように見えた。


「私の見ている夢は……よくない夢なのでしょうか……?」


「……どうでしょう。あなたが怖いと思うのなら、よくない夢ですがーーあなたが素敵な夢だと思うのなら、きっと……いい夢なのでしょう」


「ゼノン様はいつも、私の想いを尊重して下さいますね」


「あなたの心は、あなたのものですから」


その言葉に、ルシェルは目を伏せた。

ーー自分の心は、自分のもの。

当たり前のはずなのに、ルシェルはその当たり前を長く忘れていた気がした。


「……夢の中で」


ルシェルは再び口を開いた。


「誰かが私に花をくれるんです。少し靄がかかっているので、はっきりはわからないのですが、あれはおそらくーーライラックだと思います。夢なのに、とてもいい香りがするんです。懐かしくて、恋しい香り……」


ゼノンの指が、わずかに強張った。

本当に、わずかに。

けれどルシェルは気づいた。


「……そうなんですね。……ルシェル様は、夢の中ではどんなお気持ちなんですか?」


「気持ち……ですか。そうですね……、なんでしょう。なんだか、とても誰かを愛おしく思っているような……、それでいてとても大きな不安を抱えているような……なんだかよくわからない気持ちです。それからーー、いつも夢は途中で途切れてしまうので、先を見てみたいのですが……一方で、知りたくないような気もするんです。このままずっとこの場所にいたいーー、そんな感じです」


「……そうですか」


ルシェルはゼノンを見た。

ゼノンは、まるですぐにでも泣き出してしまうのではないか、と思うほどに悲しげな表情だった。


「……ゼノン様?大丈夫ですか?お加減が優れないのでは……」


ルシェルは俯いたゼノンの顔を覗く。


「……いいえ。とても元気ですよ。少し考え事をしていただけです」


「……そう、ですか」


ルシェルはそれ以上、何も言わなかった。

ゼノンもまた、沈黙している。


窓の外から海鳥の鳴き声が聞こえた。

風が薄い帳を押し上げ、部屋の中へ淡い花の香りを運んでくる。

さきほどまでなら心地よいと思えた香りが、今は少しだけ胸を締めつけた。


「そういえば……この国では、精霊のお祭りがあるのでしたよね」


ゼノンの瞳が開く。


「精霊祭のことでしょうか?」


「はい。以前、お話に出ていましたから」


「覚えていたのですね」


「もちろんです」


ルシェルは少し得意そうに笑った。


「七月でしたよね?」


「ええ」


「もうすぐではありませんか?」


「……そうですね」


「どんなお祭りなのです?」


「国中の精霊へ、一年の感謝を返す祭です」


「賑やかなものですか?」


「ええ、とても」


「それは楽しみです」


無邪気に笑うルシェルを見て。

ゼノンの胸に、微かな不安が落ちた。


ーー精霊祭。


一年で最も、この国の精霊たちが活発になる日。

各地に眠る精霊が王都へ集まり、古い神殿の門が開かれる。


「ゼノン様?」


「はい」


「精霊祭に、何か心配事でも?」


ルシェルは首を傾げる。

ゼノンは一瞬迷い、それから笑った。


「今年は、あなたに大役がありますので」


「……え、私にですか?」


「ええ」


「まさか……」


嫌な予感がしたのか、ルシェルの顔がわずかに引きつった。

ゼノンはそんな彼女へ、容赦なく告げる。


「精霊祭が、あなたの王妃としての最初の務めになりますから」


「……もう一度、お願いします」


「王妃としての最初の務めです」


「聞き間違いではなかったのですね……」


ルシェルは額へ手を当てた。


「ゼノン様……」


「もちろん、無理にとは言いません。あなたの体調と気持ちを最優先にします」


「でも、必要なことなのでしょう?」


「……ええ」


「ゼノン様は、本当に私に甘いですね」


「当然です」


あまりに真顔で言うので、ルシェルは困ってしまった。


「そこは否定してください」


「できないことは約束しない主義ですから」


そう言って、ゼノンは微笑んだ。


「では、これからも甘やかすおつもりなのですね」


「はい。全力で」


返事が早かった。

ルシェルは思わず目を丸くし、それから小さく笑った。


「最善を尽くします。私はこの国の王妃として、皆に認めていただきたいので」


「さすが、私の妻ですね。ですが、心配しなくても大丈夫ですよ。あなたに難しいことをさせるつもりはありませんから」


「では、何をすればいいのですか?」


「王とその伴侶が、祭壇へ花を捧げるのです」


「花を?」


「ええ。そして、民の前で祈りの言葉を述べる」


「祈りの言葉……ですか?」


「ええ。王妃として、国の安寧を願うーー。それだけでいいんです」


「祈り……ですか」


「そのあとは、お祭りを楽しむだけです。祭りの間は、皆、それぞれに精霊たちへ祈りを捧げるのが通例となっています」


「何を祈るのですか?」


「それは自由です」


「自由?」


「ええ」


ゼノンは頷いた。


「精霊祭で捧げる祈りには、決まりはありません。あるものは、健康を。あるものは、富をーー何を願ってもいいのですよ」


「……他国から来た私の祈りも、届くでしょうか」


「きっと、届きますよ。あなたは、精霊たちに愛されていますから」


ゼノンの確信めいた言葉に、ルシェルは安堵した。


「ーーところで、ゼノン様は、毎年何を願うのですか?」


不意打ちで、ゼノンは答えられなかった。

何百年、何度違う身体で生きても、願いはただ一つだった。


――『もう一度、あなたに会いたい』


その願いは、もう叶ったと言ってもいい。


「……秘密です」


ゼノンは、ようやく答える。


「またですか?」


ルシェルはムッとする。


「心からの願いはーー、誰にも話さない方が良いものなのですよ」


「そうですか……」


ルシェルは一瞬、きょとんとした。

そして、「……それもそうですね」と、柔らかく笑った。


「……ええ。そうですよ」


ゼノンは、ルシェルの手を握った。

もう二度とーー彼女のこの手を離さない。


ゼノンの気持ちに反応したのか、銀色の蝶がどこからともなくやってきて、二人の頭上をふわりと舞っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。