066 銀色の蝶の正体
ルシェルはそのやり取りを見つめたまま、胸の奥が熱を持つのを感じていた。
兄は自分のために、誇りも地位も手放した。
ゼノンは自分のために、王としてこの国へ来た。
そんな事実が重なって、うまく息ができない。
ーーその時だった。
「アンダルシア国王陛下」
回廊の奥から、張りつめた声が響き、一同が振り向く。
皇帝直属の侍従長が、数名の文官を従えてこちらへ歩いてきていた。
侍従長はゼノンの前で深く一礼する。
「皇帝陛下より、アンダルシア国王陛下へお伝え申し上げます。本日よりご滞在中は、迎賓宮をご利用くださいませ。以前ご滞在時にご利用いただいた客殿よりもより設備が整っておりますので。また、侍女と護衛も数名お付けいたしますので、何なりとお申しつけください」
その言葉に、場の空気が静かに変わる。
ーーそうだ。
ゼノンは求婚者である前に、隣国の国王なのだ。
たとえどれほど宮廷内部が混乱していようと、その扱いを誤るわけにはいかないのだ。
ゼノンは相手の礼にふさわしい、過不足のない一礼を返した。
「ご配慮、感謝いたします。ヴェルディア帝国の礼に、我が国も誠意をもって応えましょう」
侍従長は続ける。
「アストレア公爵閣下。皇后陛下……いえ、ルシェル・アストレア嬢は、本日より公爵家のご息女として、公爵邸にお戻りいただきたく存じます」
ルシェルは頷いた。
「ええ、わかったわ」
侍従長は最後にルシェルへ礼を尽くした。
「……アストレア嬢。どうかご静養くださいませ」
彼らは礼をとって去っていき、回廊には、妙な静けさが落ちた。
ゼノンはルシェルへ向き直った。
「本当は、今すぐにでもあなたを我が国へお連れしたい」
その言葉に、アストレア公爵とテオドールの眉がぴくりと動く。
だがゼノンは続けた。
「けれど今は、順を違えるべきではありません。あなたを堂々と迎えるために、私も正しく手続きを踏みましょう」
ルシェルは小さく息を吸う。
「……はい」
「明日、改めて公爵邸へご挨拶に伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
ゼノンの言葉に、公爵が静かに言う。
「国王陛下をお迎えできるほどの場所ではありませんが、どうぞいらしてください」
「ありがとうございます」
ゼノンは頷く。
だがその姿は、ルシェルがこれまで見てきた夜の銀とは違っていた。
光を帯びているというより、光そのものが薄く形を取っているような、ほとんど透明に近い蝶だった。
ルシェルは思わず見上げる。
「……ゼノン様。やはりこの子は、ゼノン様の精霊だったのですね」
ゼノンの表情が、ほんのわずかに強張る。
「……はい」
一拍置いて、彼は苦く笑った。
「今まで黙っていて、申し訳ありません」
ルシェルは首を振る。
「それはいいのです。ですが……なんだか、いつもと様子が違いませんか?」
ゼノンは蝶を見上げる。
「……今はまだ、あの子の時間ではないのです」
ルシェルとゼノンの会話に、他の三人は顔を見合わせる。
「よくわからんが、積もる話があるようだな」
公爵の言葉に、藍がすぐに続けた。
「お二人とも、庭園へ行かれてはどうですか。ルシェル様には、思い入れのある場所でしょうから」
ルシェルは静かに頷く。
「……ゼノン様、最後の庭園散策にお付き合いくださいますか?」
「ええ、もちろんです」
二人は並んで回廊を離れた。
***
皇宮の庭園は、離縁の儀が終わった直後だというのに、いつもと同じ静寂に包まれていた。
噴水の水音は静かで、花壇には満開の時期を過ぎたライラックの花が揺れ、石畳には長く影が落ちている。
ルシェルは歩きながら、胸の内がまだ少し早く脈打っているのを感じていた。
法廷を出たばかりだというのに、こうしてゼノンと二人で以前のように庭園を歩いている。
最後に庭園に来ることができてよかった、と思った。
「なんだか、出会ったばかりの頃を思い出しますね」
ルシェルの問いかけに、ゼノンは微笑んだ。
「……ええ。本当に」
頭上を舞く銀色の蝶は、たしかにそこにいるのに、昼間の光の中では輪郭が薄いように見える。
羽の先は光に溶けるようで、今にも消えてしまいそうだった。
「この子は、どうしていつもと様子が違うのでしょうか?」
ルシェルの問いに、ゼノンの青い瞳が少しだけやわらいだ。
「今は夜ではありませんから」
「夜ではないと、違うのですか」
「ええ。この蝶は、黄昏から夜明けのあいだが本来の活動時間なのです。昼のあいだは、眠っているわけではありません。ただ、こちらの世界に留まる力が弱いのです。先ほどは、私の心の昂りを察して、つい出てきてしまったようですね」
ルシェルは小さく息を呑んだ。
(だからだったのね)
自分がこれまで見たあの蝶は、たいてい夕暮れか、夜か、あるいは夜明け前だった。
庭園の奥、古い白薔薇のアーチの前で、ルシェルは立ち止まった。
「あなたにお会いするよりずっと前に、私はこの子と出会っていましたが……もしや、ご存じだったのでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、ゼノンの胸の奥で、長く沈めていたものが静かに揺れた。
彼はこの話を、いつか彼女にしなければならないとずっと思っていた。
だが、それが今日になるとは思っていなかった。
それでも、今の彼女は自分に問うている。
ならば、こちらも誠実でなければならなかった。
「ええ」
ゼノンは低く答える。
「存じていました」
ルシェルが目を見開く。
「どうして」
風が、白薔薇の葉を微かに鳴らした。
ゼノンはすぐには言葉を継がなかった。
どこまで話すかを選んでいたのではない。
ただ、彼女をいたずらに混乱させずに、真実だけを渡す言い方を探していた。
「一つだけ誤解しないで欲しいのは、私がこの蝶をあなたに遣わせたわけではないということです。蝶があなたを見つけた……というのがもっとも正しい言い方になるでしょう」
「……この子が……見つけた?」
「……はい」
ゼノンは蝶を見上げる。
「では、この子は……私のところへ勝手に来ていたのですか?」
「ええ」
ゼノンは苦くもやわらかな微笑を浮かべた。
「私が命じたわけではありません」
「それでは、なぜ……」
なぜ自分のところへ。
そう問われて、ゼノンは一瞬だけ目を伏せた。
ーーまだだ。
まだ、言えないこともある。
彼女が見ていたのは、ただの気まぐれな精霊ではない。
それが自分にとってどれほど大きな意味を持っていたかも、本当は話すべきなのだろう。
だが、今はまだ違う。もし今、ここで彼女に全てを話してしまえば、彼女は戸惑うだろう。
彼は喉の奥まで上がってきた言葉を静かに沈め、代わりにこう言った。
「この蝶は、確かに私の感情に直結していますし、従ってもいます。ですが、それだけで動く存在ではありません。精霊とは元来、気まぐれで、頑固で、自分が心を動かされるものに対しては、契約者の意思とは関係なく動きます」
その言葉に、ルシェルはふと、少しだけ安心した。
もしそれがゼノンの周到な仕掛けだったなら、どこかで身構えていたかもしれない。
けれどそうではないのだ。この蝶は、もっと自由なものとして、自分の前に現れていた。
「……それでは、なぜ私のところへ?」
その問いに、ゼノンは一瞬だけ目を伏せた。
「あなたが、ひどく苦しんでいたからだと思います」
ルシェルの肩が、かすかに揺れた。
あの日のことだ、とすぐにわかってしまった。
誰にも見つかりたくなくて、けれど本当は、誰にも気づかれないまま消えてしまいたいわけではなかった、あの日。
「この蝶には、”癒しの力”があるのです。だから、蝶はあなたの苦しみに、悲しみに、寂しさに反応したのだと思います。きっと、蝶が遠く離れた地であなたを見つけたのにも、私たちが出会ったことにも、深い意味があるのでしょう。だから、私が初めてあなたにお会いした時、すぐにわかりました。ああ、蝶が見つけた人だ、と」
ルシェルは言葉を失う。
「……どうして、もっと早くおっしゃらなかったのですか」
ルシェルがそう言うと、ゼノンはほんのわずかに苦笑した。
「話せば、あなたを困らせると思いました」
「困らせる……?」
「見知らぬ男に、あなたのことを前から知っていましたなどと言えば、怖がらせてしまうかと」
その返答に、ルシェルは思わず小さく笑ってしまった。
「それは……たしかに」
「そうでしょう?」
「でもーー」
ルシェルは、指先の蝶を見つめる。
蝶は安心したように、静かに羽を揺らしていた。
「……嬉しいです」
その声は小さかった。
ゼノンは一瞬、何も言えなくなる。
王としてではない。
ただ一人の男として、不意打ちのようにその言葉を受け止める。
よかった、と彼は思った。
怖がらせたくなかった。隠し事をしていたことで、彼女の信頼を失いたくなかった。
まだ全てを話せたわけではないが、ようやく少しだけ緊張がほどけた。
「それは……よかった」
口から出たのは、ひどく不格好な本音だった。
ルシェルはそんな彼を見て、また少しだけ笑う。
銀の蝶がふわりと飛び上がり、二人のあいだをひと巡りする。
「この蝶は……これからも、私のところへ来てくれますか」
ゼノンの表情が、静かにやわらぐ。
「これからは、あなたが望めば、いつでも蝶に会えますよ。あなたは、私の妻になるのですから」
「……そうですね」
ルシェルの頬が少し熱くなる。
その言葉に、蝶が嬉しそうに羽を震わせる。
まるでちゃんと意味がわかっているみたいで、ルシェルはまた少し笑った。




