065 閉幕
誰もが息を呑んだまま、抱き合う二人を見ていた。
祝福の言葉を口にできる者は、ここにはいない。
だが同時に、その場にいた誰もが理解してしまっていた。
もう、何一つとして元には戻らないのだとーー。
「待て」
低く、鋭い声が法廷に落ちる。
その一言だけで、誰もが息を呑んだ。
ルシェルを抱き寄せていたゼノンは、ゆっくりと顔を上げた。
腕の中のルシェルもまた、はっとしたように身を強張らせる。
玉座の前に座したまま、ノアが二人を見ていた。
その視線はいつも通り冷たく、揺らぎなどないように見える。
「離縁は成立した。だが、元皇后をただちに国外へ伴うことを、この帝国が無条件に認めるとでも思ったのか」
空気がぴんと張り詰める。
たしかに、それは皇帝としてもっともな言葉だった。
たとえ離縁の儀が終わったとしても、ルシェルはアストレア公爵家の娘であり、長くヴェルディア帝国の皇后であった女だ。彼女がこの国を出るということは、もはや一人の女の問題では済まされない。
だがーーその言葉を聞いた瞬間、ルシェルの胸の奥に、ひどく乾いた感情が広がった。
(今さら、何を。自ら手放しておいて)
ゼノンはルシェルを庇うように半歩前へ出ると、静かな声音で答えた。
「もちろん、理解しております。ゆえに私は、この場へアンダルシア国王として正式に参ったのです」
「正式に、だと?」
「はい」
ゼノンの声は穏やかだった。
だが、その言葉には、一国を背負う王の重みがあった。
「ルシェル・アストレア様は、すでにこの国の皇后ではない。この先どこで生き、誰のもとへ行くかは、皇帝陛下ではなく、彼女ご自身がお決めになることです。必要であれば、両国間で正式な盟約を結びましょう。彼女が知り得た宮廷の事柄を、アンダルシアが政に利用しないと、私は王の名において誓います」
ざわ、と空気が揺れた。
貴族たちが互いの顔を見合わせる。
誰もが、口には出さずとも理解していた。
ここでノアが強引にルシェルを引き留めれば、それは離縁の正当性すら揺るがしかねない悪手になる。
イザベルがわずかに身を乗り出した。
「ですが、元皇后陛下はお立場のあるお方ですもの。今すぐ他国へ移られるなんて、さすがに軽率ではありませんか?」
その声音は柔らかい。
けれど、その実、棘だらけだった。
ルシェルはゆっくりとイザベルを見た。
「軽率?」
「ええ。陛下がどれほど広い御心でお認めになったとしても、世間の目というものがありますでしょう?離縁したその日に隣国の国王と共に去るなど、まるでーー」
そこでイザベルは言葉を切り、わざと困ったように伏し目がちに微笑んだ。
まるで、何だというのだろう。
不義を働いていた女だとでも言いたいのか。
法廷の空気が、じわりと嫌な湿り気を帯びる。
「その続きは、口にしない方がよろしいですよ」
静かだが、よく通る声が割って入った。
ーー藍だった。
壁際に控えていたはずの彼は、いつの間にか数歩前へ出ている。
相変わらず涼やかな顔で、けれど目だけが笑っていなかった。
「元皇后陛下の名誉を損なう発言は、ヴェルディア帝国の法でも軽くはないはずです。まして、この場には他国の国王もおられる。国際問題の火種を、自らお作りになりたいのですか?」
イザベルの表情が引き攣る。
「……私は、そんなつもりでは」
「ええ、もちろん、そうでしょうね。あなたはただ、善意から口を挟まれたのでしょう」
藍はにこりと微笑んだ。
その笑みがあまりに美しく、あまりに冷たくて、法廷の何人かが思わず目を逸らした。
ノアは低く言う。
「藍永燈。口を慎め」
「失礼を。ですが、慎むべき言葉を選ぶのは、私だけではないかと」
藍は一礼して引いた。
だが、言うべきことは言ってやった、という顔だった。
ルシェルはほんの少しだけ、息をつく。
誰かが自分のために大勢の前で言葉を差し出してくれることが、こんなにも胸に沁みるものだったとは、思わなかった。
けれど次の瞬間、ノアが立ち上がった。
椅子が低く軋む音が、ひどく大きく響く。
誰もが目を見張った。
ノアは玉座の段を下り、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
その顔にはやはり感情らしい感情はない。
ルシェルの前で足を止めた彼は、ゼノンを見た。
「アンダルシア国王。あなたの申し出は理解した。だが、彼女を連れて行くのは認められない」
「理由を伺っても?」
「彼女は帝国の内情を知りすぎている」
その言葉に、ルシェルの指先がかすかに震える。
内情を知りすぎているーーそれはつまり、かつて妻であった女を、今はひとつの政治的危険としてしか見ていないということだ。
けれど、ゼノンは揺らがなかった。
「では、なおさらです」
「何?」
「私がなんとしても、彼女を守る」
その一言は、ひどく静かでありながら、刃のように鋭かった。
ノアの眉がわずかに寄る。
「守る、だと」
「ええ。彼女を傷つけるものから。彼女を利用しようとするものから。彼女を悲しませるすべてからーー」
ノアは額に手を当て、苦しげに息を吐いた。
「陛下……!」
側近が駆け寄ろうとする。
だがその前に、ノアは顔を上げ、真っ直ぐにルシェルを見た。
「……アストレア公爵」
不意にノアが呼ぶ。
列席していたアストレア公爵が、ゆっくりと前へ進み出た。
娘を見つめるその眼差しは苦く、しかしはっきりとした決意を宿している。
「そなたはどう考える」
公爵は深く一礼した。
「陛下。離縁が成立した以上、ルシェルはもはや皇族ではなく、我がアストレア公爵家の娘にすぎません」
その一言は重かった。
父としてだけではない、公爵家当主としての宣言だった。
「娘の今後については、まず我が家が意志を確認し、責任を持って決めるべきこと。帝国の安寧を損なわぬ形であれば、他国との婚姻もまた、不可能ではありますまい」
「……そなたの考えはよくわかった」
ノアはその場にいる誰とも視線を合わせぬまま、最後にこう告げた。
「これで離婚の儀は終わりだ」
その宣言は、思いのほかあっさりとしていた。
法官が厳かに閉式を告げ、貴族たちがようやく息を吐く。
先ほどまで凍りついていた法廷は、今度はざわめきと熱を取り戻し始めた。
「まさかアンダルシアの新国王が直々に来るとは……」
「元皇后陛下は、いったんご実家へ戻られるのか?」
「アンダルシアとの縁談となれば、一大事だぞ……」
離婚の儀は、こうして幕を閉じた。
***
法廷の外へ出た瞬間、張りつめていたものが一気にほどけたのか、ルシェルの膝がわずかに揺らいだ。
「ルシェル様」
呼ぶ声は低く、驚くほど近かった。
倒れるより先に、ゼノンの腕がそっと彼女を支える。
「……ごめんなさい。少し、力が抜けてしまって」
「謝らないでください」
ゼノンは彼女の顔を覗き込む。
その青い瞳には、法廷で見せた王の顔とは違う、ただ彼女だけを案じる男の顔だった。
「よく、耐えましたね。えらいです」
その一言で、泣くまいと思っていたのに、視界が滲んだ。
「……来てくださって、あがとうございます。ゼノン様」
エミリアが後ろで嗚咽を堪え、藍はやれやれというように肩を竦める。
「ここで本格的に泣かれると、宮廷中の詩人が一斉に筆を取りそうですね。題はそうですね……『黎明に攫われし白銀の皇后』あたりで」
あまりにも藍らしい皮肉に、ルシェルは涙の滲んだまま、小さく笑ってしまった。
けれどその時、不意に気づく。テオドールの姿がない。
「……お兄様は?」
先ほどまで法廷の前にいたはずなのに、今は見当たらなかった。
アストレア公爵が足を止めた。
「……テオドールは、まだ中だ」
短い答えに、ルシェルは目を瞬かせる。
「中、というのは……」
その問いに答えたのは藍だった。
「おそらく、辞表を出しに行かれたのでしょう」
「え……?」
藍は壁に寄りかかるようにしながら、淡々と続けた。
「帝国騎士団長が、元皇后の実兄であり、しかもその元皇后がアンダルシア王妃となる。さすがに、テオドール様もお考えになったのでしょう」
「私のせいで、お兄様にまで迷惑が……」
「違うぞ、ルシェル」
今度はアストレア公爵がきっぱりと言った。
「お前のせいではない」
その声音は厳しかったが、そこにあるのは責める響きではなかった。
***
テオドールは玉座の前まで進むと、片膝をついた。
「帝国騎士団長テオドール・アストレアは、本日この時をもって、その任を辞したく存じます」
法廷に走ったざわめきは、もはや隠しようもなかった。
イザベルが目を見開く。
側近たちも、露骨に息を呑んでいる。
「それが、お前の結論か」
「はい」
「後悔はないな」
「ございません」
その返答には、一片の迷いもなかった。
テオドールはゆっくりと立ち上がると、腰の儀礼剣を外した。
次いで、騎士団長の証である肩章付きの外套を解く。
金糸の刺繍を施された深紺のそれが、彼の肩から滑り落ちる瞬間、法廷の誰もが息を呑んだ。
「これまで、帝国に剣を捧げられたことを、心から誇りに思っております」
騎士として最後まで美しくあろうとする、彼らしい幕引きだった。
テオドールは深く一礼し、ノアに背を向けた。
法廷の扉が開き、彼が外へ出る。
回廊で待っていたルシェルは、兄の姿を見るなり目を見開いた。
「お兄様……そのお姿……」
テオドールは足を止めた。
先ほどまで身につけていたはずの外套も剣もない。
その事実だけで、何があったのかは十分すぎるほど伝わってしまう。
ルシェルの唇が震える。
「まさか……本当に……」
「あぁ、辞めた」
テオドールは簡潔に告げた。
それから少しだけ表情を和らげる。
「当然だ。お前が皇后でなくなった以上、俺がこのまま騎士団長でいる理由はない」
「でも、それでは……お兄様がこれまで積み上げてきたものが……」
「そんなのはどうでもいいんだ」
ルシェルは声を失う。
「俺が、自分で選んだだけだ」
そう言って、今度はゼノンを見る。
「アンダルシア国王陛下」
「はい」
「妹を頼みます」
ゼノンはまっすぐに頷いた。
「ええ、私の命に変えても守ります」




