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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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064 あなたを愛しています

銀の蝶は、夜明け前の風を受けて、ひときわ大きく羽ばたいた。

それはまるで、彼女の願いをそのまま抱き上げるように、ゼノンの胸元へと滑り込んでくる。


彼はそっと手を差し出した。

蝶はためらいなくその指先に留まり、かすかな光を震わせた。


北の水平線には、すでにヴェルディア帝国の帝都のものであろう灯が見えていた。

まだ夜は明けきらず、海と空の境目は群青に溶けている。


「陛下」


レイセルが静かに一礼する。


「このまま入港すれば、日の出とともに港へ着きます」


「……そうか」


ゼノンは短く答えたまま、蝶を見つめた。


「レイセル」


「はい」


「入港後は予定通り動く。王家の紋章は最後まで隠しておけ」


「かしこまりました」


「俺が名乗るまでは、俺がアンダルシアの新国王であることを、誰にも知られてはならない」


レイセルはわずかに目を伏せた。


「……本当に、お一人でお入りになるおつもりですか」


「そうだ」


「危険です。せめて護衛をーー」


「レイセル、俺は自分の身くらい自分で守れる。護衛を大勢引き連れて現れれば、それだけで威圧になる。

彼女を迎えに行くのに、彼女が愛するこの国を脅かすような真似はしたくないんだ」


レイセルは、しばらく黙っていた。やがて、小さく息をつく。


「……陛下は、昔からそうです」


「何がだ」


「ご自分のことは、いつも後回しになさる」


ゼノンは苦く笑った。


「お前には苦労をかけるな」


レイセルは少し呆れたように微笑む。


「いいえ。私は陛下の臣下でいられることを、誇りに思っております」


***


皇宮では、朝から誰もが慌ただしく動いていた。

だが、その慌ただしさの底には、声にならない緊張が張りついていた。


「本当に、あのお二人が……」

「皇后陛下には、お世継ぎがいないからなのかしら……」

「けれど、陛下が決められたことなら……」

「側室を新たに皇后になさるという噂は、本当なのかしら」


しかし、誰一人として確かなことは知らなかった。


皇后宮の一室では、エミリアたちが朝から無言で支度を整えていた。


深い紫のドレスには、白銀の刺繍が施されている。

それはルシェルが持つドレスの中でも、とりわけ華やかで高価な一着だった。


最後くらいは美しく、華やかな姿を、ノアと貴族たちの目に焼き付けたい。

そこには、そんなルシェルの思いがあった。


鏡台の前に座るルシェルは、ひどく落ち着いて見えた。


「皇后陛下……こちらを」


エミリアが震える指先で、ゆっくりと髪を梳かす。

白銀の髪がさらさらと背を流れ、やがて美しく結い上げられていく。


ルシェルは鏡越しに、その様子をぼんやりと見ていた。


「今日は、少し高めに結ってちょうだい」


「はい……」


エミリアの手が、ぴたりと止まる。


「皇后陛下……」


その一声に、今にも涙が混じりそうになっていることを、ルシェルはすぐに悟った。


「泣かないで」


鏡越しに、穏やかに微笑む。


「あなたまで泣いたら、私まで泣いてしまいそうだわ」


「……はい」


エミリアは必死に頷き、再び手を動かした。


ルシェルは鏡の中の自分を見る。


白銀の髪に、凛としたライラック色の瞳。

離婚の儀に臨むとは思えないほど、華やかなドレスに身を包んだ皇后の姿がそこにはあった。

――だが、それでいい、と彼女は思った。


皇帝に捨てられた、無様な女の姿だけは見せたくなかった。


「皇后陛下、髪飾りはどれにになさいますか?」


侍女が小箱を差し出す。


中には、いくつもの宝飾が並んでいた。

皇后として賜ったもの、帝国の格式を示すもの、政治的意味を帯びたもの。

そして、ノアから贈られたもの――。


その中で、ルシェルの指先が迷わず触れたのは、暁蝶の髪飾りだった。

だが、それを離婚の儀でつけるということは、アンダルシアの王子とただならぬ関係にあると、

受け取られかねない。それだけは避けたかった。


――彼に迷惑をかけるわけにはいかない。


ルシェルは静かに視線を移し、以前、父から皇后になった祝いとして贈られた髪飾りを選んだ。


「……これにするわ」


ギンバイカの花を模した繊細な細工は、彼女の髪によく映えた。


「……とてもお似合いです」


ルシェルは鏡を見つめたまま、微かに笑った。


「ありがとう」


***


一方、執務宮では、ノアがすでに正装に着替えていた。


黒と金を基調とした皇帝礼装。そ

の姿は威厳に満ちている。


イザベルはその少し後ろに控え、薄紅の衣を纏っていた。

腹部を優しく支える仕草は変わらない。

だが、その瞳には明らかな高揚があった。


モルガンの囁きは、今も彼女の耳元に甘く絡みついている。


「ほら、もうすぐよ。あなたは選ばれたのよ、皇帝に愛される唯一の女として」


イザベルはわずかに唇を上げた。


(ええ、もうすぐだわ……)


「陛下」


側近が声をかける。


「主要貴族の方々が揃いました」


「わかった」


ノアは短く答える。


「始めよう」


その声には、一片の迷いもなかった。


***


その頃、ヴェルディア帝国の港では、まだ陽が高くなる前の時刻だというのに、

見張りや荷役人足たちの慌ただしい声が飛び交っていた。


その中へ、一隻の帆船がほとんど音もなく滑り込んでくる。

王家の紋章は掲げておらず、表向きはアンダルシアの特使船である。


だが、その甲板に立つ男の姿だけは、港にいた数人のヴェルディア帝国の役人たちの目を釘付けにした。


銀髪に、空のように澄んだ青い瞳を持つ、整った顔の男。

そして、その身のこなしに宿る、隠しきれぬ高貴さ。


ゼノンは船が岸へ着くや否や、真っ先に橋板へ飛び降り、港で待機させていた馬に飛び乗った。


「陛下!」


レイセルが慌てて追う。


ゼノンは振り返りもせず言った。


「宮殿まで最短で行く」


「ですが」


「時間がない。お前たちは後を追ってこい!」


その一言が、すべてだった。


レイセルは息を呑み、それ以上は言わなかった。

代わりに、最も足の速い二人の護衛だけを選び、すぐに後を追わせる。


ゼノンは迷いなく一直線に馬を走らせた。

胸の奥で、何かが焼けるように熱い。


――もうすぐだ。

――もうすぐ彼女のもとへ行ける。


ゼノンはただ真っ直ぐ、前だけを見ていた。


***


皇宮の廊下を進むルシェルの足音は、ひどく静かだった。


一度だけ、ノアと初めて出会った、精霊たちが描かれた美しい壁画の前で足を止める。

しばらくの間、彼女はじっと壁画を見つめていた。


(すべて、この場所から始まったのよね)


ルシェルはそっと瞼を閉じ、しばし思い出に浸った。


『約束するよ。君が泣きたくなったら、僕がそばで必ず守ってあげる』


(私を泣かせることになるのは、あなただったわね、ノア……)


ルシェルは、何かが吹っ切れたかのようにその場を後にした。

宮廷はどこも見慣れた場所のはずなのに、今日だけは何もかもが別の場所のように見えた。


左右には侍女と近衛兵。

その一歩後ろにエミリア。


離婚の儀が行われる法廷の前には、アストレア公爵とテオドール、そして藍の姿もあった。


誰もが複雑な表情を浮かべる中、ルシェルだけは前を見ていた。

もう振り返らないと決めていた。

皇后としての最後だけは、自分で決め、自分の足で進みたかった。


法廷の重厚な扉には、皇家の紋章が刻まれていた。

その向こうには、すでに列席する貴族たちの気配がある。


ルシェルは小さく息を吸った。

その胸の内で最後に浮かんだのは、やはりノアではなく、ゼノンの顔だった。


***


法廷は、奇妙なほど静まり返っていた。


磨き上げられた大理石の床には高窓から射す淡い光が落ちているというのに、

その明るさはあまりにも冷たく、まるでこの宮殿にかつて幸福が存在したことなどなかったかのようだった。


深紅の絨毯の上に、ルシェル・アストレアは立っていた。


白銀の髪は一糸乱れず結い上げられ、ライラック色の瞳はまっすぐ前を見据えている。

ヴェルディア帝国の皇后にふさわしい、気高さと品位に満ちた佇まいだった。


美しく結い上げられた髪も、隙なく整えられた礼装も、

最後まで皇后としての威厳を失うまいとする、彼女の矜持そのものだった。


けれど、その胸の内にあるものまで見抜ける者は、この場にはいない。

その細い肩に、どれほどの痛みと想いが積もっているのか。きっと誰も想像できないだろう。


ルシェルの正面には、夫である皇帝ノア・ヴェルディアが座していた。


その傍らには、イザベルが控えている。

腹にそっと手を添え、いたわるように撫でるその姿は、まるで自分こそが次の皇后であると周囲に言い聞かせているようで、ルシェルにはひどく白々しく見えた。

いかにも虫も殺せぬような儚げな面影。だが、それが仮初の姿にすぎないことを、ルシェルは知っていた。


列席した貴族たちも、誰一人として口を開かなかった。


ここにいるのは、この国の主要貴族たちばかりだ。

皆、表情こそ抑えているが、この場が尋常ならざるものであることをよく理解していた。


――離婚の儀。

それは皇帝と皇后の婚姻が、法に則って正式に断たれる瞬間だった。


高窓から差し込む朝の光の中で、ノアが口を開いた。


「ヴェルディア帝国皇帝、ノア・ヴェルディアの名をもって、ルシェル・アストレアを皇后の座より廃する」


淡々とした声だった。


そこにはもう、かつて彼女だけに向けられていた優しい眼差しはない。

名を呼ぶ時の穏やかな声音も、陽だまりのように包み込んでくれる温もりも、何ひとつなかった。


その事実を認めることは、心を鈍い刃で抉られるような痛みを伴った。

それでもルシェルは、睫毛ひとつ震わせずに立っていた。


ここで崩れるわけにはいかない。

皇后として生きてきた最後の誇りまで失うことだけは、どうしても許せなかった。


どうしてこんなことになったのだろうーー。

その問いに答えられる者は、誰もいない。

ただ、幾つもの偶然が重なった末の不幸だった。そう思うしかなかった。


「……わかりました」


自分の声が、驚くほど静かに響いた。


この日が来るまで、何度も考えた。


もしかしたら、最後の最後で、かつての彼が戻ってくるのではないか。

ほんの一瞬でも、あの頃の優しいノアが、自分を見てくれるのではないか。


だが、その期待はあまりにも淡く、そして脆かった。

それも当然だ。

いまのノアにとって、ルシェルはもう、愛すべき相手ではないのだからーー。


ともに過ごした日々も。

交わした誓いも。

指先に残るぬくもりも。

二人だけで分かち合った幸福も。

ーー全て。


彼の中では、すべて過ぎ去ったものになってしまった。

その胸にはただ、イザベルへの愛だけが植えつけられている。


(あなたは本当に……これまで私のことを愛していたの?)


そんな問いがふと、ルシェルの胸に浮かぶ。


(その愛は、本物だった?)


だが、そんな問いを抱くことも、今となってはもう無意味だった。


「ノア……いえ、皇帝陛下」


一瞬だけ、ノアの瞳が動いたように見えた。

それでも彼女は、言葉を止めなかった。


「これまであなたと共に過ごせたこと、心から感謝しております。

どうかお元気で。それから……どうぞ、お幸せに」


別れの言葉は、驚くほど穏やかに口をついて出た。

ルシェルはただ一礼し、背を向ける。


――その時だった。


出口へ向かおうとした彼女の前に、一人の青年が現れた。


ルシェルは足を止める。


見間違いかと思った。

けれど違った。


彼はまっすぐ、ルシェルだけを見ていた。


ーー信じられなかった。

なぜ彼が、今ここにいるのか。


二人はしばし、言葉もなく見つめ合う。

そして青年が、静かに口を開いた。


「皇后陛下……いえ、ルシェル・アストレア様」


若々しくも力のこもったその声に、一同は声の主を確かめた。

そこに立っていたのは、隣国アンダルシア王国の王子、ゼノン・アンダルシアだった。


一瞬にして法廷の空気が変わる。

先ほどまでの静寂が嘘のように、貴族たちがざわめき出した。


「……なぜ、彼がここに?」

「皇后陛下を……いや、元皇后をアンダルシアに……?一体、どういうことだ?」

「では、あの噂は本当だったのか?」

「やはり、皇后陛下は――」


けれど、周囲のざわめく声も、二人には届いていないようだった。

ルシェルは潤んだ瞳で、ゼノンを真っ直ぐに見つめている。


「私と共に、アンダルシア王国へ来てくださいませんか」


彼女はただ、目の前の青年を見ていた。

潤んだ瞳のまま、信じられないというように。


「……どうして」


ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。


ゼノンは、そんな彼女に優しく微笑み返す。

その微笑みはひどく穏やかで、けれど、その奥には決して折れぬ強さがあった。


「ルシェル・アストレア様」


ゼノンは、周囲の空気に呑まれぬまま、はっきりと言った。


「私の妻にーー。いいえ、アンダルシアの王妃になってくださいませんか?」


その言葉が大広間に響いた瞬間、空気が凍った。


「王妃だとーー?」

「なぜ王妃なんだ?」

「彼は王子だろう?」


貴族たちのざわめきは一度止まり、誰もが息を呑む。

あまりにも真っ直ぐで、あまりにも大胆な求婚だった。


ゼノンの瞳には、ためらいがなかった。

ただ一人、ルシェルだけを見つめている。


そしてルシェルもまた、その視線を受け止めた瞬間、冷え切っていた胸の奥に熱が灯るのを感じた。


「アンダルシアの王子、これは一体どういうことだ」


ノアがゼノンを訝しげに見る。

イザベルもまた、隣であからさまに眉を顰めている。


二人のその表情を見た時、ルシェルは不思議と少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

ようやく息ができた気がしたのだ。


ゼノンはノアに視線を向けることなく、ルシェルを見たまま言葉を続ける。


「言葉の通りです」


その声には、一切の揺らぎもない。


「そして、もう一つ。この場で申し上げねばならぬことがあります」


わずかに間を置き、彼は告げた。


「先日、私ゼノン・アンダルシアは、前王よりアンダルシアの王位を継承いたしました。

よって、今の私は王子ではなく、現アンダルシア国王です」


ゼノンの言葉に、再びざわめきが起きる。


「なっ……!」

「では、アンダルシア国王自ら来たというのか」

「他国の元皇后を王妃にするつもりだと?」

「王自ら、こんな場に現れるなど……!」

「まさかヴェルディアへ宣戦でも――」


法廷に、不安と興奮の声が一斉に広がった。


それでもゼノンは動じなかった。

視線を逸らさず、ただルシェルだけを見つめている。


「私があなたを守ります」


その声は低く、深く、確かな熱を帯びていた。


「永遠にーー」


その言葉を聞いた瞬間、ルシェルの中で、これまで必死に押し留めていたものが堰を切った。

涙が、ひとしずく頬を伝う。


ああ、自分は本当に、ここまで耐えていたのだとルシェルは思った。

もう誰にも、何も求めまいと、すべてを終わらせるつもりでいたのだと。


それなのに、目の前のこの人は、こんなにも真っ直ぐに手を差し伸べてくれる。

ルシェルは涙に濡れた目で、ゼノンを見た。


「……行きます」


その声は震えていた。

けれど、確かなものだった。


「アンダルシア王国に……行きますーー。あなたの妻として。そして、王妃としてーー」


その言葉が落ちた瞬間、ゼノンの瞳にようやく、抑えきれぬ安堵と喜びが滲んだ。


彼はためらいなく歩み寄ると、ルシェルをそっと抱き寄せる。

その腕は力強かった。

けれど、ひどく優しい。


まるで壊れものに触れるように髪を撫で、彼は耳元で囁いた。


「ありがとう」


息がかかるほど近くで、低く甘い声が落ちる。


「あなたを愛しています」


その一言に、ルシェルはもう一度、彼の胸の中で静かに目を閉じた。

やっと辿り着いたのだと、そう思った。

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