063 最後まで皇后として
扉が閉まったあとも、カインはすぐには歩き出せなかった。
執務宮の回廊には、夕刻の薄い光が差し込んでいる。
(……本当に、これでよろしいのですか陛下)
カインは胸の中で何度も思った。だがそんなことを口に出せるはずもない。
当然だ。
自分はただ、皇帝の命令を遂行する臣下でしかないのだから。
だが、それでも思わずにはいられなかった。
かつての皇帝ノア・ヴェルディアなら、皇后のこの言葉をそのまま受け取るような真似は絶対にしなかっただろう。むしろ、皇后のもとに駆け寄り、根掘り葉掘り理由を聞いたはずだ。
カインは小さく息を吐くと、再び歩き出した。
皇后にありのままを伝えるしかない。
それが、どれほど残酷なことでもーーそれが自分の役目だった。
***
皇后宮に戻るころには、空はすっかり色を変えていた。
エミリアが最初にカインの姿を見つけ、すぐに顔色を変える。
「……カイン様」
その一言だけで、彼女も結果を察したのだろう。
カインはほんのわずかに頷いた。
「皇后陛下に、お取り次ぎを」
エミリアは無言で一礼し、奥へ入っていく。
しばらくして、静かな声が返った。
「どうぞ、入ってちょうだい」
カインが室内に足を踏み入れると、ルシェルはまだ窓辺に立っていた。
夕闇の中に溶けるような白銀の髪、細い背中。
だが、その立ち姿には不思議なほど揺らぎがない。
振り返った彼女は、カインの顔を見ただけで全てを理解したようだった。
「……そう。そうなのね」
ただ、それだけだった。
カインは一歩進み、深く頭を下げる。
「陛下より言伝を預かりました」
「ええ」
「……皇后陛下ご本人に異論がない以上、明日の離婚審議は取りやめ……」
カインはルシェルから反射的に目を逸らしてしまった。
「いいのよ、カイン。そのまま言ってちょうだい」
「……はい、皇后陛下。明日の離婚審議は取りやめ……離婚の儀とする、とのことです」
エミリアが息を呑む音がした。
部屋の空気が、凍ったように感じた。
けれどルシェルは、ほんの一瞬目を伏せただけだった。
「……列席者は?」
「主要貴族のみ、とのことです。離縁が帝国法に則って行われたことを示すために最低限を、と」
「わかったわ。ありがとう、カイン。あなたには……嫌な役回りをさせてしまったわね」
あまりにも穏やかな返答に、カインの胸がひどく痛んだ。
ルシェルはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その動作は優雅で、少しも乱れがない。
まるで、離婚を告げられた女ではなく、明日の公務の確認をしている皇后のようだった。
「私は皇后として最後まで相応しくあれるよう、支度を整えておきますと陛下にお伝えしてちょうだい」
その言葉に、カインは一瞬、返す言葉を失った。
最後まで相応しくーー。
そんなことを、こんな時まで考えるのか。
いや、この人はきっと、こういう人なのだ。だからこそ、誰よりも皇后に相応しかった。
「……皇后陛下」
気づけば、口を開いていた。
ルシェルが顔を上げる。
「何かしら?」
カインは拳を握りしめた。
臣下として言ってはならない。越えてはならない一線だと分かっている。
だが、それでもーー。
「……どうか、お身体だけはご自愛ください」
それが精一杯だった。
ルシェルは一瞬だけ目を見開き、それから、ほんのわずかに微笑んだ。
「ありがとう、カイン。あなたは優しいのね」
その笑みは、泣きたくなるほど静かで、優しかった。
カインはもう何も言えず、深く一礼して部屋を辞した。
扉がゆっくりと閉まる。
同時に、エミリアが堪えきれなかったようにルシェルへ駆け寄った。
「皇后陛下……!」
ルシェルは椅子に座ったまま、そっと顔を上げる。
「エミリア」
「どうして……どうしてこんな……!」
エミリアの目には、もう涙が滲んでいた。
「審議すらなさらずに、そのまま離婚の儀だなんて……あまりにも……!」
ルシェルは少しだけ首を横に振った。
「泣かないで」
「ですが……!」
「明日まで、私はまだ皇后よ」
その一言で、エミリアははっとして唇を噛みしめた。
ルシェルは続ける。
「だから、今夜は泣いてはいけないわ。いい?」
エミリアは必死に涙を堪える。
ルシェルはそんな彼女に、いつもの穏やかな口調で言った。
「明日の衣装を選びましょう?ね?」
「……はい」
「一番、華やかで高価なものにしようかしら?」とルシェルはイタズラに微笑む。
エミリアもルシェルの毅然とした態度に、息を整えて冷静に答えた。
「……ええ、そういたしましょう!」
「あら、張り切ってるわね」
ルシェルは優しく微笑む。
「髪も、いつもよりきちんと整えてちょうだい。最後まで、皇后として威厳を持っていたいからーー」
“最後まで”という言葉に、エミリアはとうとう堪えきれず、顔を伏せた。
ルシェルは立ち上がり、そんな彼女の肩にそっと手を置く。
「大丈夫よ、私は大丈夫だから」
その言葉が、自分自身に向けたものでもあると、ルシェルは分かっていた。
***
ーー同じ頃、騎士団棟にて。
テオドールの執務室には、まだ灯りがついていた。
机の上には、ゼノンから届いた一枚の手紙。
《もし皇帝の身に異変が生じたならば、それは“魅了”を疑え》
その文面を睨みつけるように見つめたまま、テオドールは長く沈黙していた。
「団長」
副官のリカルドが控えめに声をかける。
「……何だ」
「皇后宮から知らせが」
テオドールが顔を上げる。
リカルドの表情だけで、ただ事ではないと分かった。
「……明日の離婚審議は取りやめになったそうです」
「……なんだと?」
「離婚審議は行わず、そのまま離婚の儀を行うとのことです……」
テオドールは一瞬、理解が追いつかなかった。
「……なぜだ」
「皇后陛下ご本人が、審議を望まれなかったと聞いております」
その瞬間、胸の内で何かが焼き切れる音がした。
「……そんなバカな……」
そう言った後にテオドールは考えた。
今のルシェルなら、言いかねない。
争うよりも、静かに去ることを選ぶかもしれない、と。
テオドールは拳を強く握った。
言葉の先が続かなかった。
***
夜はさらに深まり、皇宮の一角だけが淡く灯りを宿していた。
皇后宮の寝所では、侍女たちが無言で明日の支度を進めている。
ルシェルは鏡の前に座り、静かにその様子を見ていた。
鏡に映る自分の顔は、不思議なほど凪いでいる。
ふと、鏡の端に何かが映ったように見えた。
夜の闇に、銀色の光がひとつーーあの子だ。
その蝶は、まるで見守るようにしばらく窓辺を舞い、やがて静かに夜へ溶けていった。
ルシェルはそっと目を閉じた。
明日離婚を控えているというのに、その時のルシェルは、心の中で別のことを思っていた。
ルシェルはゆっくりと目を閉じた。
(……会いたい)
それは、あまりにも個人的で、あまりにも身勝手な願いだった。
(ゼノン様に……会いたい……)
あの穏やかな眼差し。
言葉にせずとも、すべてを受け止めるような静かな優しさに触れたい。
ルシェルは、今になってようやく、はっきりとわかった。
自分はもう、とっくに――ゼノン・アンダルシアという人を、確実に好きになってしまっているのだ、と。
それは慰めを求める心でも、ノアを失う寂しさが見せた幻でもなんでもない。
ただ、彼が好きなんだ。
この想いを自覚するには、あまりにも遅すぎた。
今さら願っても仕方のないことだと分かっている。
それでも、彼の微笑みを思い出しながら、ルシェルは願わずにはいられなかった。
***
海上にて。
ゼノン・アンダルシアは、甲板に立ったまま夜明け前の空を見つめていた。
銀色の蝶が彼の元へとひらひらと舞い降りてくる。
「陛下、帝都の港が見え始めます」
とレイセルの声。
北の水平線に、かすかに灯が見えた。
ようやく、そこまで来た。
「……やっとか」
低く呟くと、胸の奥で押し殺していた焦燥が少しだけ形を変えた。
”もうすぐだ。もうすぐだからーー”
ゼノンは何度も何度も、胸の中で唱えていた。




