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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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062 父と娘

その時、再び扉が叩かれた。


「皇后陛下」


エミリアの声だった。


「どうしたの?」


「アストレア公爵閣下がお見えです。至急、お話があると……」


ルシェルとイリアは同時に表情を引き締めた。


「お父様が……」


イリアはすぐに一歩退く。


「私はこれで失礼するわね」


「ごめんなさい、イリア」


「何で謝るのよ」


イリアは柔らかく言うと、丁寧にお辞儀をした。


「では、次会うときは、ただの友人としてお会いしましょう。皇后陛下」


そう言い残し、彼女は軽やかな足取りで部屋を出ていった。


入れ替わるようにして、アストレア公爵が入室する。


濃い色の礼装に身を包み、いつも通り隙のない姿だった。

だが、その眼差しは昨日よりわずかに疲れて見えた。


「お父様」


ルシェルは立ち上がり、軽く一礼した。


「皇后陛下にご挨拶を」


公爵は短く言った。


「やめてください、お父様」


ルシェルが気まずそうに腰を下ろすと、公爵も向かいに座る。


やがて公爵が口を開く。


「今朝方、数名の貴族から連絡が入った」


「……離婚審議の件ですか?」


「ああ」


公爵は頷く。


「表向きは中立を保つが、内心では皇帝陛下の進め方に疑問を持っている者が増えている」


ルシェルは黙って聞く。


「どの貴族も、お前に明確な非がない以上、離婚の理由としては弱いと見ている」


「ですが、理由が弱くとも、陛下が望まれれば進むのでしょう」


公爵は娘を見つめる。


「……」


「お父様、私は離婚審議をせずに、このまま陛下のご意向を受け入れるつもりです」


「なんだと?」


公爵がルシェルを鋭く睨みつける。


「もういいのですよ、お父様。私は、皇后としてのプライドまで傷つけたくは無いのです」


「だが……」


「私は、捨てられる女として去るつもりはありません」


公爵はしばらく何も言わなかった。

やがて、諦めたように頷いた。


「そうか」


その声は低く、重かった。

だが、ただ受け入れたわけではないと、ルシェルにはすぐにわかった。


「お前がそう決めたのなら、父としては尊重したい」


ルシェルは少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


「だがーー」


ルシェルが顔を上げると、公爵の瞳は先ほどまでよりも鋭く光っていた。


「私は、アストレア家当主として、それをそのまま皇帝の意向を呑むわけにはいかん」


「お父様……」


公爵は娘の呼びかけを遮らず、しかし言葉を止めもしなかった。


「お前は“皇后としての矜持を守りたい”と言ったな。ならばなおさら、曖昧な形で退いてはならん」


ルシェルは眉を寄せる。


「ですが……」


公爵は続ける。


「審議もなく、皇帝の一言で黙って退けば、後に残るのは汚名だ」


その言葉に、ルシェルの指先がわずかに強張る。


「私は娘がそのような扱いを受けることを断じて許さない」


ルシェルは目を見開いた。

父はこれまで兄にも自分にもとても厳しい人だった。

皇太子妃として王宮入りした日から、これまでに娘として扱われたことがあっただろうか。


だが、ルシェルは冷静さを取り戻し、公爵の鋭い視線に向かい合う。


「私は、もう十分に辱めを受けました」


公爵の目が、ほんのわずかに揺れる。


「子ができず噂の的にされ、信じていた夫は突然側室を迎えました。ユリアナの件では黒幕だと疑われ、そして最後には、帝国の未来のために要らないと判断されました。これ以上の辱めがありますか?」


自分で言葉にすると、思った以上に冷たい現実だった。

ルシェルは小さく笑った。


「これ以上、明日の審議で私は何を失えばよいのでしょうか。教えてください、お父様」


公爵は沈黙した。

長い沈黙だった。


やがて、深く息をつく。


「……そうだな」


それは認める言葉に近かった。

けれど、そこで終わる男ではないとルシェルは知っている。


案の定、公爵はそのまま言葉を継いだ。


「だが、今のお前の言葉をそのまま皇帝陛下に伝えたとして、陛下がどう出るか分かるか」


「……」


「陛下は、明日の審議を取りやめ、そのまま離婚の儀に移す可能性が高い」


それは確かに、今のノアならやりかねない。

ルシェルはぎゅっと唇を噛み締めた。


公爵は続ける。


「審議がある限り、まだ体裁が残る。貴族たちは議論し、記録が残り、お前にも一言を返す余地があるだろう?だが離婚の儀となれば、それで終わりだ」


ルシェルは、膝の上で握っていた手をそっとほどく。

手は驚くほど冷たくなっていた。


「申し訳ありません、お父様。私はやはり離婚審議はできません」


「……そうか。お前の思いはよくわかった。これまで、すまなかったな色々とーー」


色々か。

その返しに、ほんの少しだけいつもの父が戻っていて、ルシェルは微かに笑った。


「何かあれば頼るといい。お前の部屋は今もそのままだからな」


ルシェルは微笑んだ。


「はい、お父様」


公爵が部屋を出ていく。

扉が閉まると、再び静寂が戻った。


***


ルシェルは侯爵が帰った後すぐに、カインを通じてノアに手紙を書いた。

それは、たった一言《離婚審議は望みません。皇帝陛下のご意向に従います》と。


外は、もう夕刻に近づいている。

庭園の木々が風に揺れ、その枝先に、ふいに銀色の光がよぎった。


「あ……」


銀色の蝶だった。


あの夜と同じように、ひらりと舞い、窓の向こうを横切っていく。

ルシェルは無意識に窓へ手を伸ばした。


「……ゼノン様」


その名は、吐息のように零れた。


蝶は振り返るように一度だけ旋回し、それから夕暮れの光の中へ消えていく。

ルシェルはその残像を見つめたまま、そっと呟く。


「どうか、少しだけ……私に勇気をください」


窓辺に立つ彼女の白銀の髪を、夕風が優しく撫でていった。


ーー皇帝の執務室にて。


カインがノアに声をかける。


「陛下。皇后陛下からの手紙です」


「手紙だと?」


「……はい」


ノアは手紙を開き、たった一言のルシェルからの文字を見た。


「なるほどな。カイン」


「はい、陛下」


「明日の離婚審議は取りやめとする」


「……え!それはつまり……」


「明日の離婚審議を取りやめ、離婚の儀とすると貴族たちに急ぎ連絡するように」


つまり、それはもはや議論の余地を残さぬ、一方的な宣告に近い。


「……陛下‼︎」


「なんだ?皇后本人に異論がないのなら、無用な議論は不要だろう」


ノアは冷静に言った。


「帝国のためにも、速やかに終える方がよい」


カインはあまりの驚きに耳を疑った。

自分が支えていた主人はこのように冷酷な人間だっただろうか、と。


「正式な離婚の儀を、明日、ですか?」


「ああ」


「……承知いたしました。列席者はいかがいたしましょう」


「必要最小限でよい。だが、離縁が帝国法に則って行われたことを示すため、主要貴族は立ち会わせるように」


ノアはそこで一度言葉を切り、続けた。


「皇后には、そのように伝えよ」


カインはほんのわずかに目を伏せた。


「……承知いたしました」


カインは一礼し、執務室を後にした。

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