061 変わらぬ友情
庭園から戻ったルシェルは、自室に入っても、しばらく蝋燭を灯していた。
広い部屋は静かで、卓上の灯だけが淡く揺れていた。
鏡台の前に座っても、髪を解く気にはなれない。
テオドールの前では気丈に振る舞ったが、やはり辛いものはある。
今日は一日があまりに長かった。
ーー貴族会議。
ーーイザベルの自作自演の疑い。
ーーノアの離婚審議宣言。
ルシェルはそっと手を伸ばし、机の上に置かれた小箱に触れた。
皇后になってから受け取った数々の宝飾品や、祝賀の品、手紙。
そのどれもが”皇后ルシェル”のものであって、”ルシェル・アストレア”のものではない気がした。
箱を開ける。
いくつもの品の中に、藍にもらったラベンダー翡翠の簪と、ゼノンにもらった暁蝶の髪飾りがあった。
これだけは、自分自身のものであると明確にわかって心が温かくなった。
ルシェルはようやく深く息を吐いた。
「……こんな形で終わるのね」
***
ーー翌朝。
皇宮では、離婚審議へ向けた準備が始まっていた。
アストレア公爵家とクローリアス伯爵家を中心に、ルシェルを支持する貴族たちは“皇后に過失なし”を前提に議論を組み立てようとしていた。
一方で、皇帝派の一部は「過失の有無ではなく、皇帝の意思と継承の安定が最優先」と主張し始める。
つまりーー。
もはや争点は、事件ではない。
皇帝が皇后を必要とするか否か――それだけだ。
その露骨さに、かえって不信を抱く者も出始めていた。
「事件の真偽も明らかにならぬまま、今度は離婚審議か」
「どうにも筋が通っていないように思うな」
「陛下は何をそんなに急いでおられるのだろうか」
そんな声が、水面下で広がっていく。
ルシェルは窓辺に立ち、庭園を眺めていた。
すると、扉を叩く音が聞こえた。
「皇后陛下」
エミリアの声だ。
「どうしたの、エミリア」
「クローリアス伯爵家のご令嬢が、皇后陛下にお目通りをと」
ルシェルは一瞬だけ耳を疑った。
(イリアがこんな時間に来るなんて……)
イリアは昔から、早起きが大の苦手なのだ。
「お通しして」
イリアは、落ち着いた色のドレスで入ってきた。
金色の髪を緩やかにまとめ、栗色の瞳にいつもの気丈さを宿している。
だが、その目の奥には明らかな怒りと心配があった。
「……皇后陛下、今この時、友人として話す許可をいただけないでしょうか?」
イリアの顔は真剣だった。
「……ええ。構わないわ」
ルシェルはそっと微笑んだ。
「……ルシェル」
イリアからこうやって名前で呼ばれるのはいつぶりだろうか。
ルシェルは小さく微笑む。
「イリアがこんな時間に来るなんて珍しいわね、どうしたの?」
「こんな時間にでも来るわよ!」
イリアは即座に言い返した。
「あなた、悔しくないの?」
ルシェルは少し黙った。
それから、目を伏せて静かに言った。
「……悔しいわよ」
ようやく出た本音だった。
「でも、それ以上に疲れてしまったの」
イリアの表情が揺れる。
「ずっと……」
ルシェルは続ける。
「皇后になってから、ずっと何かに怯えていた気がするの。でも明日、全てが終わるのだと思ったら……逆に、少し楽になってしまったわ」
イリアはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「あなたって、本当に不器用ね」
「そうかしら」
「そうよ」
イリアはため息をついて、ルシェルの隣に腰を下ろした。
「怒っていいのよ」
「……ええ」
「泣いてもいいの」
「……イリア」
「何?」
「もし私が皇后でなくなっても……」
言葉にしかけて、少しだけ迷っていると、イリアは先に答えた。
「ずっと友達よ」
イリアはルシェルの手を握った。
「あなたが皇后でも、皇后じゃなくても、私にとってあなたは、私の友人ルシェル・アストレアだもの」
ルシェルは、その一言に目を閉じた。
泣かないと思っていたのに、目の奥がじわりと熱くなった。
「……そう、ありがとう」
イリアは、見なかったふりをしてくれた。
そして、イリアは、わざと明るい声を出した。
「それに!あなたが皇后でなくなったら、ようやく気軽に私の屋敷へ攫えるわ」
ルシェルは思わず目を瞬かせる。
「攫う、だなんて」
「だって本当でしょう?」
イリアは肩を竦めた。
「皇后陛下相手では、いちいち侍従に伺いを立てて、侍女長に日程を確認して、ようやく茶会ができるのよ?昔みたいに、勝手に部屋へ押しかけてお菓子を食べ散らかすこともできないんだから」
「食べ散らかしていたのは、主にあなたでしょう?」
ルシェルはくすりと笑う。
「失礼ね、半分はあなたよ」
イリアはそんな彼女の横顔を見て、少しだけ声音を落とした。
「……ルシェル」
「なあに?」
「本当に、もう諦めたの?」
その問いに、ルシェルはすぐには答えなかった。
窓の外では、冬に向かう風が枝先を揺らしている。
遠くで鳥の声がした。
「……諦めた、というより」
やがて、ルシェルは静かに言う。
「受け入れるつもりよ。離婚審議をせずに終わらせるつもり」
イリアが黙って言葉の続きを待っている。
「……私たちは、確かに愛し合っていたと思うわ。少なくとも、半年前までは疑いもしなかったもの」
ルシェルの指先が、膝の上でそっと重なる。
「でも、今のノアを見ると……まるで最初から、そんなものなかったみたいに思えてしまうの」
声は静かだった。
「私が見ていたものは何だったのかしら、と。
ノアが向けてくれた優しさも、言葉も、眼差しも――全部、私の思い違いだったのではないかって」
「それは違うわ」
イリアは即座に言った。
「少なくとも、私はあなたたちを見ていたもの」
イリアの瞳はまっすぐだった。
「あなたが皇宮に入ったばかりの頃、陛下はあなたしか見ていなかった。あれは誰がどう見ても本物の愛だったわ」
「……イリア」
「だからこそ、今が異常なのよ」
その一言に、ルシェルの胸が小さく揺れる。
昨夜テオドールも言っていた。
ルシェルはゆっくりと目を伏せる。
「お兄様も、同じことを仰っていたわ」
「でしょうね」
イリアは少しだけ眉を寄せた。
「昨日の貴族会議で、お父様も感じたそうよ。陛下はまるで、“離婚する”という結論だけを先に決めていて、
そのために理屈を後から並べているみたいだったと」
「……」
「ユリアナの件が崩れたら、今度は帝国の未来?」
イリアはため息をついた。
「論点が移りすぎているのよ。普通じゃないわ」
ルシェルは何も言わなかった。
イリアの言うことは正しい。
あまりにも正しいからこそ、返す言葉がない。
「……ルシェル」
「何?」
「全てが終わったらーー二人で皇帝を一発殴りにいきましょう!」
「ちょっと、あなた随分なこというのね」
二人は顔を見合わせ、今度は大声で笑った。




