060 長い夢の目覚め
「……ルシェル」
ルシェルが振り返ると、そこには、どこか複雑な表情をしたテオドールが立っていた。
「……お兄様……」
「もう夜も遅いのに何をしているんだ?」
テオドールが心配そうに言う。
「……ちょっと眠れなくて散策を。お兄様こそどうされたのですか?」
「俺は、窓からお前の姿が見えたから……」
「……そうでしたか」
夜の庭園には、しばらく沈黙が落ちていた。
噴水の水面が揺れ、月の光が細かく砕けている。
その光を見つめたまま、ルシェルは動かなかった。
テオドールは妹の横顔を見た。
白銀の髪が夜風に揺れている。
その表情は穏やかだった。
あまりにも穏やかすぎて、胸が酷く痛んだ。
「……ルシェル」
「はい」
「本当に……いいのか?」
ルシェルは少しだけ首を傾ける。
「お兄様は、納得していないのですね」
「当たり前だ」
短い言葉だった。
テオドールは空を仰いだ。
「今日の議場での陛下の様子……どう考えてもおかしい」
ルシェルの瞳がわずかに揺れる。
「お兄様も、そう思われますか」
「思う」
即答だった。
「侍女の件は解決……まあ、解決とも言えないが、一応は決着がついた。にもかかわらず、
突然離婚を持ち出すなど……理屈が通らないだろう」
ルシェルは黙って聞いていた。
テオドールは続ける。
「しかもその理由が、“帝国の未来”のためだと?ふざけている」
そう言ってテオドールは鼻で笑う。
「そんな曖昧な言葉で皇后を据え替えるなど、これまでに前例がない」
夜の虫の声が、遠くで鳴いている。
ルシェルはゆっくりと噴水の水面へ視線を落とした。
「……それでも、陛下がそう決めたのです」
テオドールが振り向く。
「だから従うと?」
「ええ」
ルシェルは微笑んだ。
「それが皇后ですから」
その笑みは、あまりにも穏やかだった。
テオドールはそっと目を閉じ、拳を握る。
(……くそ)
その時ーー。
ふと、テオドールの脳裏にあの手紙がよぎった。
《もし皇帝の身に異変が生じたならば、それは“魅了”を疑え》
テオドールはゆっくり目を開く。
「……ルシェル」
「はい?」
「もし」
言葉を選びながら続ける。
「もし、だ」
ルシェルは首を傾げる。
「陛下が……何らかの理由で、正常な判断ができない状態だとしたら……どうする?」
ルシェルの瞳が揺れる。
「どういう意味ですか?」
テオドールは首を振った。
「……いや」
「すまない……今はただの仮定の話だ」
証拠がないし、証明もできない。
だから、それ以上は言えない。
ルシェルはしばらくテオドールを見つめていた。
やがて小さく笑う。
「お兄様らしいですね」
「何がだ?」
「最後まで諦めないところです。お兄様は昔からそうでした。普段は寡黙で、感情の起伏があまりないですが、いざという時には決して譲らない強さがありました。お兄様は私の自慢です」
そして静かに言った。
「ですが、お兄様。私、実はそんなに今辛くないんですよ」
テオドールの眉が寄る。
「……本当に?」
「ええ、本当に」
ルシェルはテオドールをまっすぐに見つめた。
「正直、怒るべきなのか、悲しむべきなのか、それすらよくわかりません」
「でも」とルシェルは続ける。
「イザベルがこの宮殿に来た日から……いえ、子供をなかなか授かれずに、噂の的にされていた時からかしら……。もう、随分長いこと苦しかったんです、私」
柔らかな風が吹いて、ルシェルの美しい白銀の髪が揺れる。
「ただ、ただ長い夢を見ていたような気がします」
「夢?」
「はい」
ルシェルは空を見上げる。
「とても綺麗な夢でした」
その言葉を聞いて、テオドールは何も言えなかった。
ただ、四年前のことを思い出していた。
皇帝ノアがルシェルに求婚した日。
帝都は祝祭のようだった。
誰もが言った。
――帝国史上、最も美しい皇后が誕生する。
ノアは言った。
『ルシェルは私が守る』
あの言葉は嘘ではなかったはずだ。
少なくとも――あの時は。
「夢から覚めたので、これでやっとーー心から陛下を諦めることができます」
その時、再び銀色の蝶がルシェルの元に戻ってきた。
蝶はゆっくりと庭園を横切り、彼女の前をひらひらと舞う。
テオドールが眉をひそめる。
「何だそれは」
ルシェルは静かに答えた。
「お友達なんです」
「……友達だと?お前……よっぽど辛かったんだな……」
テオドールが憐れみの目でルシェルをみていると、ルシェルはクスッと微笑んだ。
「ちょっと、お兄様。今、私がおかしくなったと思ったでしょう?」
「……すまない……」
「この子は、アンダルシア王国の精霊なのですよ」
テオドールの目が細くなる。
蝶は一度、二人の周りを旋回した。
「精霊?」
「ええ。以前、アンダルシア王国の王子殿下から教えていただいたんです。アンダルシアでは今でも精霊たちと共存しているでしょう?そして、精霊士が数多くいると聞きます。この子も、誰かの契約精霊だそうなんですが……」
「……そうか」
その時、テオドールの頭の中には、ゼノンのことだけが浮かんでいた。
「……ルシェル」
「はい、お兄様」
「実はな……俺と藍殿がお前のところに駆け付けたのは、アンダルシア王国の王子から
手紙が届いたからなんだ」
「……え?それは一体どういう……」
「彼からの手紙には、こう書いてあった。《皇后陛下にはあなたが必要です。どうか、そばで力になってあげてほしい》と。おそらく、藍殿の手紙にも同じようなことが書いてあったのだろう。でなければ、ここまで早く帝都に来ることはできなかった」
「……でもなぜあの方がヴェルディアの内情をご存知だったのでしょうか……」
「それで今、お前から精霊の話を聞いて思ったんだがな……もしかしたら、
この蝶は王子の契約精霊なのではないのか?」
「……」
ルシェルはしばらくの間俯いて考えた。
「……お兄様。実は、私も少し前からそう思っていたんです。ですが、今のお話を聞いて確信しました。
この子があの方の契約精霊であるのならば、これまでの出来事の辻褄があいますもの……」
「……でも……」
とルシェルは顔をあからめた。
「なんだ?」
テオドールが不思議そうに見る。
「……いえ……。でも……だとしたら、随分恥ずかしい姿をこの子に見せているな……と思いまして……」
テオドールは一瞬、言葉を失った。
妹が恥ずかしがる表情に、テオドールは幼い頃のルシェルのあどけない姿を思い出した。
ルシェルが頬を赤らめて視線を逸らす姿など、最後に見たのはいつだっただろうか。
皇后になってからの妹の姿は見たことがなかったが、妃教育を受け始めた十二歳の頃から、
わがままを言うことも、照れることも、弱さを見せることも滅多になかった。
だが今、目の前にいるのは――
「……お前、そんな顔もするんだな」
ルシェルは一瞬ぽかんとし、次の瞬間、少しむっとした顔になった。
「お兄様、それはどういう意味ですか」
「いや」
テオドールは肩をすくめる。
「皇后陛下は、常に気高く完璧であらせられるからな」
わざと芝居がかった口調で言う。
ルシェルは思わず吹き出した。
「……お兄様ったら、バカにして……」
その笑い声は、久しぶりに聞くものだった。
テオドールの胸の奥がわずかに緩む。
(……よかった)
少なくとも、完全に折れているわけではない。
だが同時に思う。
(二日後には、この笑顔は失われてしまうかもしれない)
テオドールは空を見上げた。
月は高い。
その光の中を、銀色の蝶がふわりと舞っている。
「……ルシェル」
「はい」
「お前はあの王子をどう思っているんだ?」
ルシェルは少し驚いた顔をした。
「どう……とは?」
「そのままの意味だ」
ルシェルは少し考えた。
噴水の水音が静かに響く。
「……不思議な方です」
「不思議?」
「ええ」
ルシェルは蝶を見上げる。
「とても穏やかで、優しい方なのに」
「なのに?」
「時々、とても遠い目をされるのです」
テオドールは黙って聞いている。
「まるで、ずっと誰かを探しているかのような……それでいて、とても寂しそうな……」
「そうか……」
テオドールは小さく呟いた。
「それで?」
「え?」
「お前はどう思った」
ルシェルは少しだけ困ったように笑う。
「……優しい方だと思います」
「それだけか」
「それ以上は……」
ルシェルは視線を逸らした。
「まだよく知りませんから……」
テオドールはそれ以上追及しなかった。
だが胸の奥で何かが引っかかる。
ゼノンがルシェルを気にかけているのは明らかだった。
そして、この蝶ーー。
(……なるほどな。随分と分かりやすい男だ)
遠くの塔で鐘が鳴った。深夜の鐘だ。
ルシェルは小さく息を吐く。
「……もうこんな時間ですね」
「そうだな」
テオドールは頷いた。
「戻るか」
ルシェルは頷く。
そして、二人は並んで歩き出した。




