059 離婚審議へ
イザベルはノアの顔を不安そうに見つめる。
「陛下…… ?」
ノアは、イザベルの頭をそっと撫でる。
「ユリアナの拘束は解除し、無罪とする」
議場がざわめく。
「だが――」
その一言で空気が再び張り詰める。
「宮廷に混乱が起きたことは事実だ」
ノアの視線がルシェルへ向く。
「皇后ルシェル・アストレア」
静かな声だった。
だが、その声音にはどこか決定的な冷たさがあった。
ルシェルは背筋を伸ばしたまま、まっすぐノアを見返す。
「はい、陛下」
ノアは一瞬だけ彼女を見つめた。
そして、感情なく告げる。
「私は――皇后との婚姻関係の解消を要求する」
議場が凍りついた。
ざわめきが一瞬遅れて広がる。
「離婚ですと……?」
「まさか……」
「侍女の件は解決したのではないのか?」
「つい先日まで仲睦まじかったお二人がなぜ……」
声が重なり、波のように広がる。
テオドールが顔を上げた。
「皇帝陛下!それは――」
だがノアは遮った。
「これは今回の事件とは別問題だ」
その声音は冷静だった。
「帝国の未来を考えた結果だ」
イザベルは少し驚いた後、微笑んだ。
ノアは続ける。
「皇帝と皇后の婚姻関係は、いわば政治である。そして政治は、常に最善の形を選ばねばならない」
テオドールの紫の瞳が鋭く細まる。
「陛下」
低い声だった。
「それはつまり、イザベル様を皇后に据えるという意味ですか」
「その可能性も含め、再考する必要がある」
貴族たちの間に再びざわめきが広がる。
「陛下は、本気なのか?」
「皇后を替えるなど前代未聞だ……」
「陛下は、アストレア家を敵に回すおつもりなのか……?」
アストレア公爵が一歩前に出る。
「陛下、それは軽々しく口にできる話ではありません」
ノアは彼を見た。
「だからこそ、正式な手続きを踏む」
そしてはっきり言った。
「二日後、帝国法に基づき、離婚の審議を行う」
その言葉は重かった。
皇帝と皇后の離婚。
ヴェルディア帝国の歴史上でも滅多にない出来事だ。
貴族たちのざわめきが止まらない。
クローリアス伯爵が静かに問う。
「皇后陛下のご意志は……」
ノアはルシェルを見た。
「皇后。異議はあるか?」
長い沈黙。
すべての視線がルシェルへ集まる。
ルシェルはゆっくりと息を吸った。
そして静かに言う。
「ありません」
テオドールが慌てて振り向く。
「ルシェル……!」
だが彼女は続けた。
「陛下が帝国のためと仰るのなら、私はそのご意向に従いましょう」
その声音は驚くほど穏やかだった。
「では、二日後、離婚審議を行うこととする。では、貴族会議はこれにて閉会だ」
重い扉が開かれた。
貴族たちはざわめきながら退室していく。
その誰もが同じことを考えていた。
***
ーーその夜。
皇帝と皇后の離婚審議。
その噂は、すでに宮廷中に広がり始めている。
騎士団棟の執務室で、テオドールは書類を睨んでいた。
だが、ほとんど頭に入っていない。
そのときだった。
扉が叩かれる。
「団長、リカルドです」
「入れ」
副官のリカルドが一礼して入ってきた。
「アンダルシア王国より、伝書が届きました」
テオドールの眉がわずかに動く。
「……王子からか」
リカルドが頷く。
封蝋を見ただけで分かった。
アンダルシア王家の紋章。
テオドールは手紙を受け取る。
嫌な予感がした。
そこに書かれていたのは、たった一行だった。
《もし皇帝の身に異変が生じたならば、それは“魅了”を疑え》
テオドールの眉が深く寄る。
「……何だこれは」
もう一度読む。
リカルドが首を傾げる。
「魅了……ですか?」
「……ああ」
テオドールは低く呟く。
(皇帝の身に異変……?)
ノアの顔が頭に浮かぶ。
冷たい視線。
ルシェルへの態度。
離婚の宣言。
確かに、異変と言えなくもない。
だが、テオドールは首を振る。
「……馬鹿な」
(魅了など、そんなものが本当に存在するのか?仮に存在するとしても――それをどう証明する?)
テオドールは椅子にもたれ、手紙を見つめる。
ゼノンの筆跡は確かだった。
だが、意味が分からない。
(今は気にしてもどうにもならない)
そんなことよりも、今は妹の離婚審議について考えなくてはーー。
テオドールは頭を抱え、深くため息をついた。
***
ーー同じ頃。
皇宮の庭園では、月が高く昇っていた。
白い石畳の道を、ルシェルが一人歩いている。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
怒りも悲しみもない。
ただ――”長い夢が終わろうとしている”そんな感覚だけがあった。
夜風が静かに木々を揺らし、少し生暖かい空気顔を掠めた。
そのときーーふわり、と銀色の蝶が現れた。
月光を受けて、翅が淡く輝いている。
ルシェルは足を止めた。
「……ゼノン様?」
なぜか名前が自然に零れた。
蝶はゆっくりと彼女の周りを旋回する。
そして、夜空へと舞い上がる。
ルシェルはその姿を見つめた。
胸の奥に、懐かしい感覚が広がる。
「……会いたいわ」
小さく呟く。
その声は、夜風に溶けた。
彼が帝都へ到着するまで――あと二日。




