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022


ーー宮殿の書斎にて。


ルシェルは、古文書の束を前に、指先でそっと紙をなぞっていた。

その手元には、先日ゼノンから贈られた”蝶の髪飾り”がある。

髪飾りは、飾り台の上で銀の羽がかすかに光を反射し揺れていた。


その蝶の髪飾りを見るたびに、胸の奥にざわめきが広がる。

懐かしさとも、痛みとも言えぬものが、脈打つように心の奥に流れこむ。


「セリス様は、『精霊は人の心に敏感で、時として、魂のつながりすら感じさせることがある』と言っていたわね…」


ルシェルは髪飾りを見つめながらつぶやいた。


(もしかして、あの蝶も精霊だったりしないかしら……?普通の蝶にしてはあまりにも美しすぎるし…)


その瞬間、風がふと吹き抜け、机上の紙がふわりと舞った。

驚いてそれを追ったとき、蝶の髪飾りが微かに震えたように見えた。


「…風、かしら?」


ルシェルは目を細めた。


そして不意にこれまでのあらゆることが頭に浮かんだ。

ノアが、自分を忘れてしまったと知ったときの、あの絶望感。


過去のノアとの愛しい日々。愛し、愛された記憶。

そして、ゼノンとの出会い、ノアとは異なる自分を見つめるゼノンの眼差し――。


そのとき、読書室の扉が静かに叩かれた。


「ルシェル様、失礼いたします。皇帝陛下がお呼びです」


ルシェルは目を伏せ、蝶の髪飾りにそっと手を伸ばす。


「……陛下が?すぐに行くわ」


(呼ばれる理由なんてあったかしら?)


ルシェルは疑念を胸に、ノアの執務室へ向かった。


***


ーー皇帝の執務室にて。


「陛下…お呼びでしょうか?」


静かに言うルシェルに、ノアは答えない。

だが彼女の姿を目にした途端、ノアのその目の奥に激しい感情が走った。


「……来たか」


「はい。何かご用ですか?」


「そなたに、確認しておきたいことがある」


ノアは立ち上がる。

天上の燭台に揺れる光が、彼の金色の瞳を鋭く照らす。


「はい、なんでしょうか?」


「アンダルシアの王子から、贈り物をされたそうだな」


ルシェルは小さく頷いた。


(もう知ってるの?誰から聞いたのかしら…)


「ええ。髪飾りをいただきました。でも、それは――」


「特別な意味のあるものだと聞いた」


その言葉には、冷たさと、どこか切実な怒りが滲んでいた。

ルシェルは胸の奥がざわめいた。

だが、それを表には出さず、静かに言葉を選ぶ。


「…ええ、確かに蝶の髪飾りは意味のあるものだと言われていますが、今回はあくまで外交の上での贈り物にすぎません。以前王子が来訪された際に私も私的にお渡しした贈り物がありましたので、そのお礼としていただいたのです。他意はございません」


ノアは目を細める。


「……他意はないだと?……本気でそう思っているのか?」


「ええ。それにたとえ特別なものだったとして、何か問題がありますか?」


「……なんだと?」


ノアは不服そうにルシェルを睨みつける。


「そなたはこの国の皇后なのだぞ?一国の皇后が他国の王子から特別な贈り物をされたとあれば、外交問題にもなりかねない。まさか、王子が”蝶の髪飾り”の意味も知らずに皇后に贈ったとでも?」


ノアは怒りの混ざった声で問いかける。


「ええ、ですが陛下は外交問題になどしないでしょう?陛下は私に関心がありませんから」


「関心などそんなことは関係ない!そなたは私の妻であり、この国の皇后なのだ!」


(どうしてこんなに怒っているのかしら…)


「そなたは、皇后が受け取るものすべてが“国”の行為と見なされることを、まだ理解していないのか?」


その声音には、冷徹な断罪があった。だが、それだけではない。

言葉の端に、何か別のもの――釈然としない苛立ちのようなものが、かすかに滲んでいた。


ルシェルはノアの目をしっかりと見つめた。

視線の奥に映るノアの眼差しは、かつて彼女が知っていたものとは違っている。

けれど、そこにある得体の知れぬ熱を見て、ふと――これは本当に“皇帝”としての怒りなのだろうか、という疑念が浮かぶ。


「……もしかして、陛下は嫉妬されているのですか?」


問うた自分の言葉に、ルシェル自身が驚いた。

ノアは一瞬だけ言葉に詰まった。

けれどすぐに、静かに吐き捨てるように言った。


「…………何を馬鹿げたことを言っているのだ。私情で話しているのではない。そなたは、皇后としての自覚が足りない」


冷たい言葉。

けれど、そのすぐあとに、ノアはなぜか目を伏せた。

それがまるで、感情を抑え込むかのように見えた。


「皇后と王子についてのよからぬ噂が広まっている。お前が何も言わずに贈り物を受け取ったからだ。皇室の名に泥を塗る行為だとわからなかったのか?」


その叱責は正論でしかない。

けれど――ルシェルの中で何かが引っかかっていた。

皇帝として、当然の判断を下すだけなら、あそこまで声を強める必要はない。

だがノアの口調には、明らかに”それ以上”の感情があった。


(――いや、そんなはずはない。ノアは記憶を失っているんだから)


「軽率な行動をとったことは、お詫びいたします。ですが、そこまで叱責されるいわれはございません。これで失礼致します」


ルシェルは頭を下げて、下がろうとした。


「二度と、軽率な行動はとるな。そなたはこの国の“皇后”であると言うことを忘れるな」


その言葉に、ルシェルの指がぴくりと震えた。


(皇后、皇后ってそればかりねーー)


「………」


ルシェルは何も答えずに部屋を出た。


(そもそも誰がノアに話したんだろう?あの場にいたのは、ゼノン様とエミリアだけだっだし…)


ルシェルが考えながら部屋に向かう回廊を歩いていると、正面からイザベルが声をかけてきた。


「皇后陛下!ご機嫌いかがですか?」


「ええ、特に変わりないわ」


「陛下と何かお話ですか?」


「ええ」


ルシェルが通り過ぎようとしたその時ーー。

イザベルが再び話しかける。


「アンダルシアの王子殿下に贈り物をいただいたそうですね、羨ましいです!」


イザベルは両手を合わせ、「いいな~」と無邪気な笑顔で話している。


(まさかこの子なの?)


「あなたが陛下に話したの?」


ルシェルが訝しげに言うと、イザベルは不思議そうな顔をする。


「はい!あれ、ダメでしたか??」


悪びれもしない様子にルシェルは呆れて「もういいわ」と言ってその場を後にした。


(イザベルに話をした人がいるはずよね………一体誰が?)

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