021 暁蝶の髪飾り
ゼノンがルシェルの私室を後にし、回廊を静かに歩いていたとき、
その背後から柔らかな足音が追いついてきた。
「……殿下、お戻りでしたか。随分と早くから、皇后陛下の部屋に行かれたのですね…」
振り返れば、筆頭補佐官であるレイセルが、いつもの落ち着いた様子でそこに立っていた。
レイセルは、ゼノンが幼い頃から彼に支えている、忠誠心と慎重さを持ち合わせた青年だ。
「レイセルか。なんだ、そんな不機嫌そうな顔をして…何かあったのか?」
「いいえ。むしろ、“何かありましたか?”とお尋ねしたいのは私の方です」
ゼノンはふっと笑う。
「ただ、贈り物を渡してきただけだ」
「“蝶の髪飾り”ですね」
ゼノンの足が一瞬止まる。
「なんだ。やはり、知っていたのか」
「いつから貴方に支えているとお思いですか」
レイセルはゼノンの隣に並ぶと、真剣な目で彼を見つめた。
「……お言葉ですが殿下……あの髪飾りをヴェルディアの皇后に渡すのは、単なる贈り物では済まされません。蝶の髪飾りを渡すというのは――“心を捧げる”意志の表れ。とりわけ、“暁蝶”は、契りに近い意味を持つのですよ?お分かりですか?」
「もちろん、わかっている」
「ならば、なぜ…」
その問いに、ゼノンはしばし沈黙した。
そして、低く、しかし確かな声音で答えた。
「想いは報われずとも、せめて彼女に俺の想いの誠実さだけは、知っていて欲しいと思ってな」
レイセルは目を伏せ、静かにため息をついた。
「…殿下。わかっておられるとは思いますが、これは“アンダルシアの王子”としての行動として見られます。いくら公にはされていなくとも、他国の皇后を――それも、いまだ現皇帝の正妻である方に想いを向けることは…」
「間違っている、と?」
「いえ…。ただ、貴方様のお気持ちは、国の問題にまで発展しかねません。今後の使節団の関係においても、国交問題の火種になりかねないのですよ?」
「それに…」
レイセルが急に口籠る。
そして、意を結したようにそっと口を開いた。
「彼女が、たとえ殿下をお選びになったとしても……彼女は、自らの意志で“皇后の地位”を捨てることはできません……殿下を、選ぶことなどできないのですよ?」
ゼノンは足を止めた。
「知っている。ヴェルディアでは、皇后から離縁を申し出ることは許されていない。皇帝が望まなければ離婚はできない」
「そうです。形式上は皇后であっても、その実、この国の制度の中では“所有物”とさえ見なされかねない」
「……酷い話だな。本当に馬鹿馬鹿しい」
「だからこそ、殿下。あの贈り物は、彼女にとってはあまりにも酷です。選ぶことは許されないのに、選択肢を与えられているのですから………」
ゼノンは静かに目を伏せた。
「もし彼女が私を選んでくれるのであれば、それは願ってもないことだな……。私には彼女を今のままにしておくことの方がよほど残酷に思える」
ゼノンは少し挑発気味に言う。
「………殿下」
「それに、離婚する方法なら他にあるだろう?お前も知っているはずだが?」
「……ですが……」
「ああ、今はどうすることもできない。けれど……今はただ彼女の傍に在りたい。そして、いつか……」
そう言ってゼノンは歩き出す。その背に、レイセルは小さく頭を下げた。
「……もうよくわかりました。殿下のお心のままに。私は変わらず貴方を傍で支えましょう」
ゼノンは微かに振り返り、笑んだ。
「ありがとう、レイセル。頼りにしているぞ」
***
燦々と差し込む朝日を背に、ノアは机上の文書に目を通していた。
その傍らには、さりげなくイザベルの姿がある。
「……陛下、皇后陛下の噂、お聞きになりましたか?」
その声には一見無邪気な柔らかさがある。
しかしノアは、目を逸らさずに言葉を返した。
「何のことだ?」
「私、そんなに詳しくはないんですけど……」
イザベルは肩をすくめ、話すことを躊躇うようなそぶりを見せている。
だがその目元には、まるで何かを企んでいるような微笑みが浮かんでいた。
「皇后が何かしたのか?」
躊躇っているイザベルに対してノアは訝しげな顔をする。
「その……実は…、ルシェル様がアンダルシアの王子殿下から、髪飾りを贈られたそうなんです」
「……それがどうかしたのか?贈り物など、外交儀礼の一つだ。問題はないだろう」
ノアの声は淡々としている。
だがその奥には、苛立ちのような何かが滲んでいた。
「……そうですよね……でも……陛下、もしもその贈り物に別の意味があったとしたら……?」
「……別の意味だと?」
「はい……私、聞いちゃったんです……。“あの蝶の髪飾りは特別なものだ”って――」
ノアは書類を静かに閉じ、イザベルの方を向く。
「お前は誰からその話を聞いた?」
イザベルは唇に指を当てた。
ノアは、今までイザベルの前で見せたことのないような、険しい表情をしている。
(陛下、何か怒ってる………?)
「それは……璃州国の使節団の方とお話しした時に…」
「それで、その使節はなんと言ったのだ?」
「えっと……確か、蝶の髪飾りを贈るというのは――“心を捧げる”意志の表れで…中でも、皇后陛下が王子殿下に送られた髪飾りは“暁蝶”と言って、アンダルシアでは契りに近い意味を持つそうです……」
「…なるほどな。お前はそれを聞いて私に話したということか。なんのために?」
ノアは腕を組み、怪訝そうな表情でイザベルを見る。
「……ごめんなさい。私はただ……陛下に……話しておかなくちゃと思って……」
その言葉に、ノアはしばし視線を落とす。
「…いや、もうよい。怒っているわけではない。だが、余計なことは気にするな。たとえ事実であっても、皇后の威厳にも関わることだ。他のものに無闇に口にしてはならないぞ、よいな?」
「ええ、わかりました陛下……」
イザベルはそう言いながら、長い睫毛を伏せた。
「事実確認は、私が直接皇后にする。お前はもうこの件に関わるでないぞ」
「……はい、陛下」
ーー光華祭の準備が進む宮中の庭園の回廊。
白と金の装飾を控えめに施された衣を纏い、セリス・ユルファが静かに歩いてくる。
ゼノンは彼に気づき、互いに軽く会釈した。
「久しいな、セリス」
「本当に。まさかこの国であなた様とお会いすることになるとは…」
セリスは穏やかな微笑を浮かべる。
その背に漂う空気は、とても清らかで澄んでいた。
「聖月国からの使節として君が選ばれたと知ったとき、なんだか腑に落ちたよ」
「外交の場など、本来私には性に合いません。けれど精霊の声が、行くべきだと告げたのです」
ゼノンは、ほんの僅かに顔を曇らせた。
「……セリス。彼女は――」
セリスは目を細め、ゼノンの言葉の先を待った。
「彼女は思い出すだろうか……?」
セリスはそっと頷いた。
「それが彼女のためになると思いますか?」
ゼノンは黙ったまま、庭に目をやる。
そこでは花々が、風に揺れていた。
「私は、彼女には幸せでいて欲しいんだ。いや、そうでなくてはならない。だが、今の彼女は……とても幸せそうには見えない」
「先日……宴の際に、私から彼女に、精霊について多少話しをしましたが……やはりあなたからきちんと話をするべきです。そして、いずれ彼女の記憶が戻れば…その時は、聖月国はあなたがたの力になりましょう」
ゼノンの唇に、わずかな笑みが戻った。
「…そうだな。いずれ話さなくてはいけないと思っている」
「ですが、あまり思い悩まぬことです。あなたがたは今を生きているのですから……前世に囚われすぎぬように」
「あぁ、わかっている」




