020 贈り物
使節団の歓迎の宴も無事終わり、ルシェルは一息ついていた。
(あとは1週間後の光華祭に向けて最終調整と、使節団のもてなし、それから……)
皇后として、やるべきことは山積みだ。
(昨夜のことを思い返している暇は、ないはずなのに)
けれど――気づけば、記憶の底に浮かび上がるのは、ゼノンの眼差しだった。
(……困ったものね。心は、思うようにならない)
ルシェルは机の上の書類に視線を落とす。
けれど文字の意味は、どうにも頭に入ってこなかった。
そこへ、エミリアが声をかけてきた。
「皇后陛下、アンダルシアの王子殿下より、朝のご挨拶にお見えとのことでございます」
「………ゼノン様が?この時間に?」
(なんだか、ゼノン様が庭園散策に初めて誘いにきた日を思い出すわね)
ルシェルは少し戸惑いながらも、頷いた。
「お通してちょうだい」
「かしこまりました」
ゼノンが現れると、部屋の空気がひときわ澄んだように感じられる。
銀色の衣の上に淡い藍の外套を羽織り、まるで風そのもののような佇まい。
「ご機嫌いかがですか、ルシェル様」
「…ええ。ゼノン様、こんな朝早くにどうなさったのですか?」
ゼノンは「早くに申し訳ありません」と軽く微笑み、持っていた小さな箱を取り出した。
それは薄い漆黒の木箱に、アンダルシア特有の銀の細工が施されたとても美しいものだった。
「これを、ルシェル様にお渡ししたくて、気が急いてしまいました。……些細な贈り物です。以前いただいた贈り物のお礼と言ってはなんですが……どうか受け取ってください」
ルシェルが箱を開けると、そこには蝶の翅を模した繊細な髪飾りが入っていた。
銀糸で織られたそれは、夜の光にも負けない微かな輝きを放っている。
「……これは」
「アンダルシアで“暁蝶”と呼ばれる意匠です。“夜の終わりに飛び立つ蝶は、誰よりも先に新しい朝を知る”――そんな意味が込められています」
「………とても……美しいですね」
ルシェルは、翅の繊細な光を見つめながら呟いた。
「貴方によく似合うと思ったのです。ルシェル様の美しい髪に、ぴったりだと…」
ゼノンの瞳には、飾り気のない光が宿っていた。
それは時に、ノアですら見せたことのない、揺るぎない誠実さを纏っていた。
「……ありがとうございます。……ですがこれは……とても受け取れません」
ルシェルはそう告げて、蝶の髪飾りをそっと箱に戻した。
触れるのが惜しいほど繊細で、美しいその意匠は、まるでゼノンの想いそのもののようだった。
「……身につけてくれなくていいのです……。ただ、これをみて私を思い出していただけたらと……ルシェル様の心の支えになればと……なので、どうかもっていてください。お願いです」
何も言えなかった。
ゼノンは、その沈黙を責めることもなく、ただ柔らかく微笑んだ。
(彼の優しさには本当に容赦がない。ここまでしてくれる彼に、私は一体何を返せるのだろう…)
「……では、そろそろ失礼します。どうか、今日も良き一日となりますように」
「……本当に、素敵な贈り物をありがとうございました。ゼノン様も、良き一日をお過ごしくださいね」
軽く頭を下げ、ゼノンは静かに部屋を後にした。
その背中が見えなくなるまで、ルシェルは立ち上がれなかった。
机の上の小箱が再び目に入る。
ヴェルディアでは明確な意味を持たないその意味も、他国から来た使節たちの目には、“個人的な誓い”として映るだろう。特に、アンダルシアや璃州の貴族たちは、装飾の意味を敏感に読み取る。
ルシェルもこの贈り物の意味を知らないわけではない。
アンダルシアで蝶の髪飾りを渡すというのは――“心を捧げる”意志の表れ。
とりわけ、“暁蝶”は、契りに近い意味を持つと言われている。
(ゼノン様はどうしてこれを私に……)
ルシェルは戸惑っていた。
ヴェルディアでは貴族同士の結婚と違い、皇族の結婚は皇帝が絶他的な立場の契約だ。
皇帝は皇后である妻の他に側室を迎えられても、皇后である妻が他の男性を迎えることは許されないし、離婚の申し出も皇帝の方からしか許されていない。
昔は、ノアとの離婚なんて考えたこともないし、自分たちの間ではあり得ない話だと思っていた。
それに、離婚は何よりも不幸なことだと思っていた。
だが、今の自分には離婚することが最善であるような気さえしている。
(こんなことを考えていると4年前の私が知ったら………信じられないでしょうね……)
***
一方その頃、別の一室では、イザベルが静かに紅茶を口にしていた。
「…蝶の髪飾り、ですって?」
イザベルのそばには、密偵として密かに使っている使用人がいた。
その使用人がイザベルに耳打ちする。
「はい。今朝方、アンダルシアの王子殿下より、皇后陛下へ献上されたそうです。珍しい銀細工で、蝶を模したものだとか」
「ふうん…蝶、ね」
イザベルはカップを置き、窓の外へ目をやる。
外では、光華祭に向けた装飾が始まり、宮廷全体が華やぎの気配に包まれ始めていた。
「それは何か特別な意味があるものなの?」
「はい。確か、アンダルシアでは蝶の髪飾りを渡すというのは“心を捧げる”という意志の表れなのだそうです」
「ふ~ん。使節団の中に、そうした贈り物の“意味”を知る者がどれだけいるかしら…」
イザベルは何か企むように微笑んだ。




