019 歓迎の宴
その日の夜、宮殿の広間では、使節団の歓迎の宴が始まっていた。
宮殿の広間は煌びやかな灯りと共に賑わっている。
色とりどりの提灯が空を彩り、舞台では華麗な舞踏が披露されている。
各国の使節団はそれぞれの文化を讃え、王族や貴族たちの視線を一心に集めていた。
ルシェルはゆっくりと歩を進めながら、宴の賑わいの中に、ふと彼の姿を探した。
やはりそこには、ひときわ凛とした佇まいで、周囲の視線を浴びるゼノンの姿があった。
彼は隣国の王子でありながら、ここヴェルディアの地で彼はひと際異彩を放っていた。
「ルシェル様」
ゼノンの声が柔らかく彼女の耳に届く。
「お疲れのところ、お越しいただき光栄です」
ルシェルは微笑みを返しながらも、胸の内に渦巻く不安を隠すように、静かに答えた。
「いいえ、私は大丈夫ですよ。ゼノン様こそ、お疲れでしょう?どうかご無理なさらぬように」
「ありがとうございます。ルシェル様と共にいられたら良いのですが……しばらくは難しそうですね……」
自分に挨拶しようと列をなしている人々を横目に、ゼノンは呆れ気味にため息をついた。
「……そうですね。私のことはお気になさらずに、どうぞご挨拶なさってください」
「……わかりました。どうか、ルシェル様もご無理なさいませんように……」
「ええ…。ありがとうございます」
ルシェルは、自分を案じる彼の表情とその言葉がただ嬉しかった。
やがて、各使節団は交流の場へと進み、ルシェルは聖月国の大司教セリス・ユルファと静かな会話を交わす。
「セリス・ユルファ様、宴は楽しまれていますか?」
ルシェルは外向きの笑顔で微笑みかける。
「これは、皇后陛下。そのように畏まらないでください。私のことは、どうぞセリスとお呼びください」
「ありがとうございます。では、セリス様とお呼びいたしますね」
セリスは優しく微笑み、頷いた。
「皇后陛下は、精霊に会ったことがありますか?」
セリスの声はとても穏やかで優しいく、聞き惚れてしまう。
「精霊ですか?いいえ、残念ながら……」
「……そうですか。精霊は人の心にとても敏感で、時として、魂のつながりすら感じさせることがあります。皇后陛下は、近頃そのような経験をされたのではないですか?何か心を動かされるような………そんな出来事はありませんでしたか?」
ルシェルの視線が揺れる。何かを見透かされているような気がした。
「心を動かされるような出来事………ですか?」
「はい。出会いは偶然のようでいて、必然を孕んでいる。あなたが誰かといて、時折感じる奇妙な懐かしさや、説明のつかぬ引力も、もしかすると”精霊の導き”なのかもしれません」
セリスはじっとルシェルの表情を見つめ、言葉を添えた。そして優しく微笑んだ。
「ただ、そうした感覚は時として人の心を惑わすこともございます。だからこそ、もし何かに惑うような事があれば、ご自身の心の声に耳を澄ましてみてください。一体自分が何を求めているのかを………」
ルシェルは微かに息をついた。
頭の中にはノアではなく、ゼノンの顔が思い浮かんだ。
心の中で何かがざわつくのを感じながらも、言葉には出せずただ静かに頷く。
「ありがとうございます。セリス様のお言葉、心に刻みます」
「ええ。あなたに精霊の加護が在らんことを」
セリスは穏やかに微笑んだ。
ーー祭も佳境に入り、舞楽の幕が下りた頃、宮殿の中庭では、上流の者たちが杯を交わしていた。
そんな中、ルシェルは庭の端、大きな桜の花の下にひとり立っていた。
それは意図して選んだ場所でも、避けた場所でもない。
ただ彼女がこの場でいられる場所は、この位置しかなかった。
夫であるノアの傍には、イザベルがいた。
この光景を、私が皇后だと知らない者が見れば、きっとイザベルが皇后だと言われても信じてしまうだろう。
それが現状の全てだ。
そこへ、重い足音が近づいてきた。
「なぜ皇后殿下が、こんなところにおひとりで?」
低く太い声。
振り返れば、北方の将軍ルクレル・グレヴァル。
大柄な体に重厚な礼服をまとい、酒の香りをわずかに纏っていた。
「……いえ、特に理由はありませんよ。お楽しみの最中に、将軍からお声がけいただけるとは、光栄です」
「貴女ほどの方が、ひとり佇んでいることがとても不思議でな……いや、言葉を選ばねばなりませんね。失礼、我々の国では真を包まず語るのが礼なのです」
ルシェルは静かに微笑んだ。
「いいえ、お気になさらず。包み隠さぬ将軍の言葉は、むしろ清々しいもので、とても好ましく思いますよ。それに言葉遣いも、気にされずにそのままでよいのですよ。私は気にしませんので、話しやすい方で」
ルクレルは「流石は皇后陛下、懐が深いですな!」と杯を一口煽り、低く続けた。
「それはそうと、皇帝殿下があの側妃と連れ立っているのは……貴国では当然のことなのですか?」
その言葉に、ルシェルの胸が小さく鳴った。が、それを悟らせぬように、静かにうつむく。
「宴の場は、すべての者に平等に開かれております。……側室も陛下とともにあるのが、自然な流れなのです」
「ほう。随分と……お強い」
ルクレルの目が細められた。
だがその瞬間――涼風のように割って入る声があった。
「強いからと言って、傷つかないわけではないのですよ、ルクレル・グレヴァル将軍」
ルシェルが振り向けば、そこにいたのはゼノンだった。
銀糸の衣を身にまといながらも、そこに在るのは光よりも深い静けさだった。
「ゼノン様……」
ゼノンの顔を見た途端に、ルシェルはこれまでの不安が吹き飛んでいく気がした。
(ゼノン様とのことも、セリス様のいう”精霊の導き”ーーなのかしら?)
「なるほど。アンダルシアの王子は、礼節と騎士道を兼ね備えておられるようだ」
「ただ、あるべき言葉を申し上げたまでです。皇后陛下を、軽んじるようなことはなさらぬように」
その目に、珍しく熱がこもっていた。
「それは誤解だ!決して、軽んじたわけではない。私はただ、これほどの女性を妻としていながら、あのような女に惚れ込んでいる皇帝の気がしれないだけだ」
ルクレルはルシェルを見て、残念そうにため息をつく。
(あのような女……)
ゼノンとルシェルはクスッと笑った。
「なるほど、そういうことでしたか。これは失礼。その意見には私も全く同意ですね」
ゼノンはルクレルの言葉を聞いて先ほどまでの警戒を解いた。
「貴殿とは良い友人になれそうだ。ぜひ酒を!」
ルクレルはゼノンを気に入ったようだ。
「ええ、喜んで」
ゼノンも同意し、2人は杯を交わした。
ルシェルは何も言わず、ただゼノンの横顔を見つめた。
(なぜ急に仲良くなったのかしら……男の人の考えはよくわからないわ)
ルシェルはそんな二人の様子を見て、なんだかとても可笑しくなった。
そして、どこまでも冷静で優雅で、けれど彼女のために怒ることを厭わない――ゼノンのその真っ直ぐさに、胸の奥がふいに疼いた。
ゼノンとルクレルは話が盛り上がっているようだ。盃を交わしながら楽しそうにしている。
その様子を見ていると、不意に誰かに声をかけられた。
「皇后陛下、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
そこに立っていたのは、璃州国の使節である藍 永燈。
淡い香を纏ったような気配で、衣擦れの音すらたおやかだった。
「藍 永燈様……ええ、もちろん」
(本当に綺麗な顔をした人だわ……男性……よね?)
ルシェルは彼の美しい顔につい見惚れてしまった。
藍 永燈はその視線に気付いたのか、そっと口を開いた。
「急に声をかけてしまい、申し訳ありません。なぜだか、皇后陛下がとても寂しそうに見えたので…」
「……そう見えましたか?」
「貴方は、強く、美しく、凛としておられる。なのに、どこか今にも泣き出してしまいそうな…私には、そんな風に見えました」
「……そうですか。私もまだまだですね。ですが、それが”皇后”という立場です。常に国の“象徴”であることを求められますから」
永燈は少しだけ立ち止まり、花々に触れる。
「”象徴”とは、孤独なものなのですね……ですが私は、そんな皇后陛下をとても美しいと思いました」
ルシェルはわずかに目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「璃州では花を愛でる際、“咲ききらぬ瞬間こそが最も美しい”と申します。満開には届かず、少しだけ迷いを残すその姿が、人々の心を引くと」
彼は美しい顔で、ゆるやかに微笑む。
「皇后陛下もまた、まだ咲ききらぬ花のようで……とても惹かれます」
(なんだか雰囲気が…)
ルシェルは思わず視線を逸らす。
「……もし許されるのなら…皇后陛下が、どんな花を咲かせるのか――知りたいと思ってしまいました」
「……それは一体どういう意味でしょう……?」
ルシェルの声に、かすかな困惑が滲む。
「これは失礼しました。ただ、皇后陛下が大変魅力的な方だと伝えたかっただけです」
悪びれた様子もなく静かな口調のまま返される言葉に、ルシェルは恥ずかしくなってきた。
「たとえば……この庭に咲くどの花よりも、私は今貴方を美しいと感じています。それが国の”象徴”であれ、誰かの”妻”であれ、その事実は変わるものではありません」
その言葉に、ルシェルは再び彼の瞳を見つめた。
「……本当に、璃州の方は、お話が上手ですね」
「言葉は、真心がなければ響きません。これは、私の本心ですよ」
それはどこまでも穏やかで、どこまでもたおやかな――だが確かに、誘惑だった。
ルシェルは静かに笑みを返す。
「……今のお話は…私の胸に秘めておきましょう。お褒めの言葉をありがとうございました」
風が、二人のあいだをすり抜け、夜桜の花びらがひとひら永燈の肩に落ちる。
彼はそれを払おうともせず、ただルシェルの瞳をじっと見つめていた。
「……麗しい夜です。どうか、このままもう少しだけ……あなたの隣にいさせてください」
その声音は甘やかで、けれどどこか危うい香をまとっていた。
(どうしましょう……この場を離れなくては…)
「……ルシェル様、夜風が冷えてまいりました。お身体に触らぬようご自愛ください」
ルシェルが戸惑っていると、澄んだ声が背後から届いた。
振り返ると、月明かりの中に立っていたのはゼノンだった。
(助かったわ……)
「ゼノン様…お気遣いありがとうございます。そうですね、冷えてきましたし…私はそろそろ戻らせていただきます」
ルシェルがそう答えると、ゼノンはやわらかく微笑んだ――が、その目は永燈に向けられている。
「璃州の藍 永燈様、素晴らしい詩興ですね。まるで花を口説くような」
言葉の調子は穏やかでありながら、奥には鋭さが潜んでいた。
永燈は少し口元を上げて応じる。
「お褒めに預かり光栄です、アンダルシアの王子殿下。詩とは心の水鏡。麗しいものを前にすれば、自然と美しい言葉が零れるものかと」
「なるほど、それは一理ありますね。……しかし、鏡の水面は、少しでも揺れれば、像は崩れるものですよ」
ルシェルは、ふたりの視線が交差するのを感じた。
まるで、瞳の奥で剣が交わされているような、妙な緊張感があった。
永燈は不機嫌そうに、ふっと目を細めた。
「それでも、揺らめく水面に映る一瞬の美しさもまた、詩の良さであると……そうは思われませんか?」
「ええ、そうかもしれません」
ゼノンは頷いた。
「ですが、私は一瞬の美しさではなく、揺れる水面こそ見たいと思うのです」
ルシェルの目がわずかに揺れた。
「……」
永燈はそれ以上言葉を重ねることなく、軽く礼を取った。
「今宵の会話、大変楽しませていただきました。皇后陛下、また改めて」
そうして彼は、まるで舞うように軽やかにその場を離れていった。
残されたルシェルは、言葉を失ったまましばらくゼノンを見つめた。
「………ゼノン様?」
「……あのような者と、あまり話し込まれるとよくありません」
ゼノンはどこか子供のように、拗ねた色を帯びていた。
ルシェルは思わず、くすっと笑みをこぼした。
「…また、助けられてしまいましたね。今日は……いえ、今日だけでなくこれまでも……ゼノン様には助けられてばかりです」
「そんなことはありません。私は…」
ゼノンは何か言いかけたが、「いえ、なんでもありません」とそれ以上何も言わなかった。
そして哀しげに、愛しそうにルシェルを見つめ、微笑んだ。




