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013

その夜、久しぶりに庭園へ足を運んだルシェルは、そっと声を出してみた。


「……来てくれるかしら」


月光の下に立ち、夜風に髪をなびかせながら。


そして――空気が、ふわりと揺れる。

銀色の蝶が舞い降りたのは、まるでルシェルに応えたように見えた。


「……あなたは、やっぱり……」


そのとき、また別の気配を感じて振り返る。

ゼノンが、黙って立っていた。


何も言わず、ただ優しいまなざしだけを携えて。


「また、ここで会えましたね」


優しく微笑むゼノンを見て、ルシェルは心の奥底から何かが湧き出てくるのを感じた。

そして、彼をみた瞬間に自分が安堵していることに気がついた。


「ええ…」


ルシェルはイリアの言葉を思い出した。


『過去に囚われ続けることと、過去を大切に思うこととでは天地の差がある』


それでも、ルシェルにとって愛すべき人はノアでなくてはならない。

そうでなくてはならないーー。


もはやそれは愛というよりも、執着に似たものをルシェル自身が感じていた。

銀の蝶が、再びふたりの間をふわりと舞い抜けていった。


夜風が、庭園の草木の葉先を揺らし、月光は柔らかく花々を照らす。

ルシェルはその中で静かに立ち尽くし、深く息を吐いた。


ゼノンの銀髪が月明かりに淡く輝き、青く美しいその瞳はどこか遠くを見つめているようだった。


「……なぜ、急に国に戻られるのですか?」


ルシェルはほんの一瞬の勇気を振り絞って問いかける。

ゼノンは彼女をじっと見つめ、やがて視線を夜空に滑らせた。


「……実は……父の容態が思わしくないのです。兆候は以前からありましたが、先日の書簡で状況が悪化したと知らされました。このことはどうかご内密にお願いします」


「……そう、ですか。それは心配ですね。ええ、もちろんです。」


「父も歳ですので。ひとまず帰国して、またこちらに戻るつもりです。臣下たちも私の長期の不在に不安を抱いているようで…」


ルシェルは安堵の表情をわずかに見せる。しかし心の奥には、不安の影が潜んでいた。

ゼノンがいなくなる日々を思うと、胸が空虚に感じられてならなかった。


「そうですか……」


ゼノンは微笑んだ。


「ええ……とはいえ、ルシェル様のお顔をしばらく見られないのは…寂しいです」


「冗談がお上手ですね」


「私は冗談など言いませんよ。前にも言ったではないですか」


ゼノンの真剣な表情にルシェルは微笑みを返しつつも、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。


(……あと少し……ほんの少し手を伸ばせば……触れられる気がする………けれど、触れてはならない。彼女は今、あの皇帝を愛しているのだから)


ゼノンはこの距離がもどかしかった。


風が吹いた。


銀色の蝶がふわりと舞い上がり、ふたりの間を通り抜けて夜空に溶けていく。

ルシェルはその光景を見上げ、小さく息を吐いた。


(また来てくれたのね)


蝶は相変わらずルシェルの側を守るように舞っている。


「ゼノン様……」


「はい?」


「私、あなたにとても感謝しています。あの夜、私の話相手になってくださって……私の心に寄り添ってくださって……本当に……感謝しているのですよ」


「いえ、私はただ……あなたのそばにいたかっただけですから……。私の為でもあったのですよ」


彼女は心の奥にしまい込んだ何かを少しだけ緩めた。


「私……」


言葉は途切れたが、微笑みを浮かべた。きっと、それで十分だった。

庭園の片隅で、ふたりは言葉なく同じ空を見上げていた。


「また戻ってきたら、庭園散策に付き合ってくださいますか?」


ゼノンが問いかける。


「ええ、もちろんです。お待ちしていますね」


ルシェルは微笑んだ。


***


数日後、ゼノンが故国へと旅立ち、ルシェルは以前と同じ日々に戻った。


ヴェルディア宮廷は、表面こそ穏やかに見えても、裏には複雑な感情と駆け引きが渦巻いている。


ルシェルはゼノンが発ってから、寂しさを感じていた。

そして、ゼノンと過ごした短い時間の余韻が、彼女の中でじわじわと広がっていた。

ノアとは十年もの時間を共に過ごしてきた。ゼノンと過ごしたのはたったのひと月だ。

ただそれだけなのにーー。

相手を意識するのに、時間の長さなど無意味なのだと思い知る。


庭園に行くと、間も無く開花の時期を迎えるライラックの花の香りが立ち込め、それはゼノンを思い起こさせた。

そばにいるわけではないのに、彼がそばにいるような気がする。

そして相手を恋しがるというのは、きっと心だけでなく、身体そのものが変わっていくことなのだろう。

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