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013

ーー5日後の午後。


侍女候補の面会室は薄桃色のカーテンに覆われ、外の光を柔らかく受け止めていた。


「ユリアナと申します。お目通り、光栄に存じます」


そう名乗った娘は、静かで落ち着いた雰囲気を纏っていた。

年の頃は20歳ほどだろうか。

長い睫毛の奥にある瞳は、決して派手ではないが澄んでおり、人の気持ちを静かに映し出すような色をしていた。


ルシェルは名簿に記された素性を思い出しながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「あなたは薬師の家に生まれたのね?」


「はい、母が薬草を扱う者でございました。私は幼い頃から調合や経過観察などを手伝っておりましたので、多少の心得はございます」


「それは心強いわ。妊婦の傍に仕えるには、そうした実務的な力が必要ですものね」


ユリアナは深く頭を下げた。控えめだが、芯のある受け答えだった。


「……私の個人的な質問にも、少し答えてくださる?」


「もちろんです、皇后陛下」


ルシェルはふっと息をつき、窓の外に目をやった。


「人は……心の揺らぎにどう向き合うべきだと思う?特に、それが望まぬ時に訪れたなら」


ユリアナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。


「揺らぎがあるということは、まだそこに感情がある証です。むしろ、その気持ちに少しだけ寄り添ってあげることが、心の平穏を保つ近道ではないかと…どの気持ちも蔑ろにすることなく受け止め向き合うべきだと…そう、私は思います」


その言葉に、ルシェルは目を伏せた。


(ゼノン様なら、どう答えるだろうか)


けれど、それを思ってしまう時点で、彼女の中に確かに存在する「想い」の姿が、輪郭を持ち始めていた。


「…そうね。ありがとう、ユリアナ。あなたに側室の侍女をお願いするわ。……イザベルのこと、どうかよろしくね」


「承りました、皇后陛下」


部屋を出ていくユリアナの背中を見送りながら、ルシェルはそっと胸元に手を置いた。


彼女がどう答えるか全く想像していなかったが、彼女の答えを聞いて、彼女はきっと誠実であると、そう思えた。


他にも何人か侍女候補と面会してみたが、ルシェルの質問に対して、ルシェルが望むものとは違う回答ばかりだった。

誠実さに欠けるのだ。ルシェルは人の嘘や悪意には敏感だった。


この宮殿で過ごすことになれば、嫌でもいろんな噂に触れたり誰かに貶められることもあるだろう。

イザベルのことは到底好きにはなれないし、憎しみさえ覚えることがあるがーーそれでも公爵家に生まれ、なに不自由なく育ち、長年皇后になるために地盤を固めてきた自分に比べたら、きっとイザベルは孤独で不安に違いない。


そんな時にただそばにいてくれる存在がどれほどありがたいものか、ルシェルは一番よく知っている。

だからこそ、皇后として、皇帝の子を孕った側室のためにできることはしなければと思った。


私情は挟んではいけない。この国の皇后として。


***


一方その頃、アンダルシアの王都では春の終わりを告げる雨が降っていた。


ゼノンは王宮の一室で、父王の容体報告を受けていた。病状は安定しているが、依然として油断はならないという。側近たちは彼の早期の即位を求め始めていた。


「……父上はまだご存命だ。即位など早すぎる」


冷ややかに告げたゼノンの言葉に、老臣たちは黙して頷いた。


一人、窓際に立ち、雨の音に耳を澄ませる。


(彼女は……元気にしているだろうか)


ライラックの香り、柔らかな声、月下の静けさ。

ルシェルの面影は、彼の胸の内で止まることなく広がっていく。


精霊は、契約主の想いに応じて動く。

ゼノンが口に出さずとも、彼の心が彼女を想えば、銀色の蝶は必ず彼女の傍へ向かう。


(私は…この想いを、今世では言葉にしないと決めた。けれど…)


ひと月という短い時の中で、彼女が彼に与えたものは計り知れなかった。

ゼノンの心にあるのは、かつての後悔と未だに溢れ続ける彼女への恋慕の情だけ。


《大丈夫……あなたの中に、わたしの一部が生きていくの。だから、ひとりじゃないわ。あなたをずっと愛してる…》


かつて愛した最愛の人…”彼女”の言葉を思い出す。


ゼノンは静かに目を閉じた。


その瞬間、遠く離れたヴェルディア帝国の空に、銀色の蝶が舞い上がった。

それはまるで、言葉なき想いが風に乗って届いた証のように、夜空を静かに巡っていた。


***


ーーユリアナをイザベルの侍女に採用して数日後


ルシェルは穏やかな表情で朝食の席についた。

エミリアからの報告で、イザベルの体調は安定しており、ユリアナがよく気を配っていると聞かされていた。


「それは良かったわ」


イザベルに対して、表面上は変わらぬ皇后としての態度で接していたが、胸の奥には奇妙な静けさがあった。


(たぶん、私は……少しずつ、何かを手放せているのかもしれない)


執着、嫉妬、孤独、諦め――それらをすべて抱えたまま立ち続けてきた自分の影が、どこかで少しずつ薄れていく。


それでも完全に拭いきれるものではない。だからこそ、彼女は今、皇后として、そして一人の人間として、なすべきことをしているのだと信じたかった。


ーーそんな彼女に、一通の書状が届いた。


それはアンダルシア王国からの正式な書簡。

ゼノンがヴェルディア帝国に再び戻ってくるという内容だった。

ルシェルはその手紙を手に取り、しばし眺めていた。

最後に添えられたひとつの言葉――


《“私がいない間、寂しかったですか?”》


そのたった一文に、ルシェルは小さく息を呑んだ。


(……ええ、寂しかったです)


心の中でそう答えた瞬間、彼女の胸に、ほんのわずかな灯がともった。

それは淡く、壊れやすいものだったが、確かに彼女の心を温めた。


***


そしてその夜、ルシェルはそっと庭園を歩いた。


月は満ち、花々が夜露をまとって咲いている。

風がそっと頬をなで、草の香りが微かに揺れる。


空に目をやると、再び銀色の蝶が、夜の帳をすり抜けるように舞い降りてきた。

それは彼女の足元を巡り、しばし空中にとどまると、またふわりと風に乗って、遠く、遥かな空へと消えていった。

彼女はその光景を目に焼きつけるように見つめながら、静かに微笑んだ。


(…もうすぐ会える)


──それは、言葉なき絆が、またひとつ結ばれた証だった。


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