012 一時帰国
ルシェルが庭園をあとにして部屋へ戻ると、待っていたのは侍女のエミリアだった。
彼女は、ほんのわずかに頬を膨らませて、しかし忠義の瞳でルシェルを見つめた。
「……夜風はお体に毒です、皇后陛下」
「ごめんなさい、少しだけ、風に当たりたかったの」
「……もしや、あの蝶に会えたのですか?」
その言葉に、ルシェルは思わず息を止めた。
エミリアは長年の付き合いで、彼女の沈黙すら読み取ってしまう。
不思議な銀色の蝶のことは、以前からエミリアには話していた。
「ええ。ほんのひとときだったけれど……また来てくれたわ」
「王子殿下と、ご一緒のときにですか?」
ルシェルはうなずいた。
(あの蝶は、まるで私の心を映す鏡のよう……)
ノアに心を寄せ、寂しさを募らせていた時期には、何度も現れた。
「ところで、王子殿下とは……」
エミリアが口にしかけたが、ルシェルはその名を遮るように、静かに言った。
「……何でもないの。ただ、話し相手をしてもらっていただけよ」
「……そうですか」
エミリアはそれ以上何も言わず、ただルシェルの肩を静かに覆うように薄布を掛けた。
「お休みの支度を整えますね」
「ええ、お願い」
エミリアはルシェルよりもルシェルの気持ちに敏感なところがある。
今までとは何かが変わってきていることに、気がついているようだった。
***
ーー翌朝。
ルシェルが食事をとる間もなく執務に向かうと、思いがけずイリアが早朝から姿を見せていた。
豪奢なドレスに身を包んだ友人は、どこか探るような目で彼女を見つめていた。
「昨夜の庭園でのお二人のご様子……拝見しておりましたわ」
「………え?」
「庭園での王子殿下とのことですよ。窓の向こうから……偶然ですが」
ルシェルは少し赤面した。
「……ただ……話し相手をしてもらっていただけよ」
「わかってますわ。ただ、ルシェル様のあれほど穏やかな表情を見たのはいつぶりかしら?と思っただけですよ」
イリアは軽く肩をすくめ、微笑んだ。
「彼はただの友人よ…私はノアを……」
「ええ、わかっていますよ。けれど……愛とは、過去にとらわれ続けるものではないでしょう?過去に囚われ続けることと、過去を大切に思うこととでは天地の差があります。過去に囚われ続ければ、美しかった愛までもが、いつの日か呪いに変わってしまいますわ」
その言葉が、心に小さな棘のように刺さった。
(呪い……)
「……」
ルシェルは何も言えなかった。
それは、本当はルシェル自身がそのことを、一番よくわかっていたからだ。
ーーゼノンが滞在している客殿。
レイセルは、静かに扉を閉めると、王子の前まで歩み出て、一礼する。
「殿下、お伝えすべきことがございます」
ゼノンの手が止まる。筆を置くと、顔を上げてレイセルの目をまっすぐに見た。
「………父上の容態のことか?」
「……はい。ここ数日、御容体に明確な悪化が見られ、侍医の間でも意見が割れております。一時的な衰弱という声もありますが……陛下のご年齢を考えるに、油断できぬとのことです」
レイセルの声音は抑制されていた。だが、その瞳の奥に宿る焦りは隠せない。
ゼノンはしばし無言のまま、蝋燭の炎を見つめた。
「……わかった。ひとまず帰国しよう」
「かしこまりました。殿下、ヴェルディアの皇后陛下には……」
レイセルがゼノンの顔色を窺う。
「……あぁ、私から話す。下がってよいぞ」
レイセルは深く頭を下げると、無言で部屋を辞した。
その背に、ゼノンはわずかに視線を落とす。
残されたゼノンは、再び窓辺へと歩を進める。
月の光はやわらかく、どこか遠くの国を照らすように、静かに差していた。
***
そして数日後――
ゼノンは謁見の間でノアに拝謁していた。
「陛下、ヴェルディア帝国での滞在もひと月ほどになります。一度、王国へ戻ろうかと思います」
ルシェルが不意に息を呑んだ。
「そうか。とはいえ、まもなく光華祭もあることだ。そのまま滞在してはどうだ?」
ノアは冷たくも、どこか試すようなまなざしでゼノンを見ていた。
「ええ。ですが、一度戻るようにと国王からの言いつけでして……。しばらく王国で過ごそうかと思います」
「そうか、わかった。アンダルシア国王にもよろしく伝えてくれ」
「それはそうと、王子が滞在してからというもの我が皇后が明るくなったと周囲が申しているのだが……なにかよい薬でも渡されたのか?」
ノアが挑発的にゼノンに問う。ノアはきっとあの噂を知っているのだ。
「皇帝陛下もお人が悪い……」
「……でも……実際どうなのだろうな」
「あの皇后陛下が、皇帝陛下以外にうつつを抜かすなど……あり得ますかな?」
「男女のことは誰にもわからぬだろう?」
貴族たちの囁き声がする。
「いえ、私は何も。強いて言わせていただくとするなら、陛下が皇后陛下に何を与えていないかを省みれば、お答えは不要かと存じます」
ゼノンの声は柔らかだったが、芯は鋭かった。
ノアの顔が怪訝そうに歪んだ。そしてゼノンを睨むようにみた。
「……王子よ、口の利き方に気をつけた方が良いぞ」
「失礼しました。私はただ、皇后陛下がお元気でいてくださることは、我が国にとっても喜ばしいことだとお伝えしたかっただけですよ」
ゼノンは微笑んでみせたが、その言葉には確かな意志があった。
ルシェルはそんな彼の姿を見つめていた。




