014 側室の侍女
「今日は少し顔色がいいな」
そう言って入ってきたノアの声に、イザベルは自然と微笑んだ。
彼の目が自分の姿を確かに映していることが、彼女に優越感を与えた。
「ありがとうございます、陛下。つわりがだいぶ落ち着いてきたんです」
柔らかな腹に添えた手に、彼も視線を落とした。
まだ大きくはないけれど、確かな命の気配がそこにある。
ノアは、少し目を細める。
「その子が無事に生まれるよう、すべて整えていくから安心しろ。お前は何も心配せず、お腹の子のことだけを考えていればいい」
「ええ、陛下」
イザベルは、ノアの肩にそっと頭を乗せて幸せそうに微笑んだ。
やがて、ノアが本題を切り出した。
「お前の侍女についてだが…」
「……侍女ですか?」
「ああ。侍女の任命を、皇后に一任した。皇后は侍女を取りまとめる役目があるからな」
イザベルは一瞬、驚いたようにまばたきをしたが、すぐに静かに頷いた。
「……そうですか。皇后陛下が選ばれるのなら、それほど心強いことはありませんね」
ノアはその答えに安堵を見せる。
「あぁ。不安に思う必要はない。皇后はきっと良い侍女を見つけてくれるだろう」
「はい…」
ノアは、イザベルの手にそっと手を重ねた。
「無理はするな。……何かあれば、すぐに言ってくれ」
「ええ。……でも、今は陛下といられるこの時間が幸せです」
視線を合わせた瞬間、互いの間にあった空気が、わずかにやわらぐ。
***
春風がやわらかく吹き込む朝。
ルシェルは皇后の執務室で、薄紅の茶を口にしていた。
香りは仄かに甘く、どこか懐かしさを運んでくる。
ゼノンが帰国してから、すでにひと月が経とうとしていた。
「皇后陛下、こちらがイザベル様の侍女候補の推薦名簿でございます」
侍女のエミリアがそっと名簿を手渡す。
「ありがとう、エミリア。……いつも手際が良くて助かるわ」
「いえ、お役に立てて光栄です」
ルシェルは微笑を浮かべ、推薦名簿の束に目を落とした。
イザベルのための侍女任命はノアから直接任された仕事だった。
だが、それはあくまで公務。
ルシェルにとって、個人的な感情を挟むべきものではなかった。
「この中で…あなたが適任だと思う者は?」
「はい。ユリアナと言いまして、彼女は元は薬師の家に生まれ、口数が少なく、誠実な性格だと伺っております。気配りもでき、イザベル様の体調管理にも向いているかと」
「なるほど。妊婦の侍女として適任ね」
ページをめくる指先は、ひとつひとつを丁寧にすくい上げていた。
その姿を見守るエミリアの眼差しは、どこか娘を思う母のようだった。
「……アンダルシアの王子殿下のことで、何かお心を乱されてはいませんか?」
ふいに問われ、ルシェルの手が止まった。視線をそっと窓辺に逸らす。
「……どうして、そう思ったの?」
「最近、あの庭園に佇まれる日が増えたように見えましたので……」
ルシェルは静かに茶を一口飲んだ。
「彼は…ただの友人よ。けれど、気を許して話せる相手だった。そういう人はなかなかいないから……少し……ね」
エミリアは、それ以上追及しなかった。沈黙のなかで、茶の香りだけが静かに漂った。
ーー午後。
ルシェルは久方ぶりに、友人であるイリアを部屋に招いた。
「ルシェル様、顔色が戻りましたわね。少し前までは、まるで死人のようだったもの」
「それは……あなたの目が厳しすぎるのよ」
「ふふ、そうでしょうか?でも今は皇帝陛下が事故に遭われた時から比べたら、本当に良くなったと思いますよ。表情も柔らかくなった気がします。アンダルシアの王子殿下のおかげかしら」
イリアが少し揶揄うように言う。
「イリア」
ピシャリと遮る声に、イリアは肩をすくめた。
ルシェルは視線を落とし、膝の上で両手を組んだ。
「……正直、私も今自分が何を考えているのかよくわからないのよ」
「いいのですよ」
イリアの声は柔らかく、それでいて芯があった。
「あなたはこの国の皇后である前に、一人の人間なのですから」
ルシェルは小さく笑った。
「私達の仲ではないですか。何かあればすぐに行ってくださいね?私は皇后陛下の親友なのですから」
「ええ、ありがとうイリア」
***
数日後、ルシェルは再び推薦名簿の束に向かっていた。
実は、ノアにイザベルの侍女選定を任されてすぐに、信頼のおける貴族令嬢を見繕って声をかけてみたのだが、皆平民の侍女にはなりたくないと怪訝そうに言うのだ。
それは、皇后を裏切らないという意味でもあったのかもしれないが、でなくとも貴族とはプライドが高いものだから仕方がない。
そのため、推薦名簿の中からユリアナのように平民でありながらも、侍女に相応しい教養を備えた者を探していたのだ。
(なかなか適任者がいないわね…)
ルシェルが頭を抱えていると、エミリアがそっと声をかける。
「皇后陛下、侍女候補のユリアナと5日後に面会の手筈が整いました」
「そう……では、静かな部屋で会いたいわ。それからここに書いた者たちにも面談の手筈を整えてもらえるかしら?」
「かしこまりました」
エミリアが退出した後、ルシェルはそっと立ち上がり、庭園へと向かった。
夜風が頬を撫で、ライラックの香がまだほのかに残っている。
ゼノンは今ここにはいないけれど、ついゼノンのことを考えてしまう。
そして、ゼノンがどこかにいるような気がして、毎夜ここにじっと佇んでしまう。
その心の揺らぎに、自ら眉をひそめた。
「……私は何をしているのかしら」
そう呟く声は、月光に消えていった。
ゼノンが去った後も”銀色の蝶”はルシェルの元に来てくれた。
これまでは、この蝶が来てくれるだけで心が救われる気がしていたのに、ゼノンを知ってしまった今では彼の面影ばかりを探してしまう。
「こんなんじゃ、ノアのこと責められないわ……」
ルシェルはクスッと笑うと、庭園を後にした。




