第5話 存在しない人間
俺は古い帳簿を開いた。
何十年も前に使われていた、廃棄予定の戸籍台帳。普通なら誰も見ることのない記録。
しかし、俺は知っていた。
この国では、新しい記録よりも古い記録のほうが重要になることがある。
なぜなら――。
「戸籍は、人間の証明だから。」
リリアが不思議そうに俺を見る。
「どういう意味?」
「兵士たちは、あなたを探している。でも探しているのは、皇女リリア=アストリアだ。」
俺は別の紙を取り出した。
「なら、その名前の人間がここにいなければいい。」
リリアは息を飲んだ。
「そんなこと……」
「できる。」
俺はペン先をインクへ浸す。
「正確には、存在していた記録を別の場所へ移す。」
戸籍には、細かな情報がある。
出生地。家族。移住記録。死亡記録。結婚。仕事。
人生のすべて。
そして、この国の役人たちは知らない。
何百万人分もの記録の中に、矛盾が存在していることを。
貴族は、自分たちの名前が正しく残っているかしか確認しない。労民の記録など、誰も気にしない。
俺はそこを利用する。
「あなたは今日から、リリア=アストリアではない。」
「北部の村出身の薬師見習い、リナ。
十六歳。家族なし。数年前に移住。」
リリアは目を見開いた。
「そんな簡単に……?」
「簡単じゃない。」
俺は答える。
「この国が、人を身分でしか見ていないからできる。」
もし本当に一人一人の人生を見ているなら、こんな偽装はできない。
だが現実は違う。
役人は書類を見る。貴族は印を見る。
誰も、その人間自身を見ない。
だからこそ。
この制度には穴がある。
「……あなた。」
リリアが小さく呟く。
「この国の仕組みを嫌っているのね。」
俺は答えなかった。
嫌っている。ずっと。
でも、何もできないと思っていた。だから諦めていた。
その時。扉が激しく叩かれる。
「最後の警告だ!開けろ!」
時間がない。
俺は偽装した書類をまとめ、リリアへ渡した。
「これを持っていろ。」
「あなたは?」
「俺はここに残る。」
「駄目!」
珍しく、リリアが強い声を出した。
「あなたも危険になる。」
「もうなっている。」
俺は苦笑する。
「皇女を隠した時点で、俺も反逆者だ。」
リリアは黙る。
そして。
「……ごめんなさい。」
小さな声で言った。
俺は首を振る。
「謝る必要はない。俺が勝手にやったことだ。」
扉がさらに揺れる。木が軋む。あと数秒で破られる。
俺は倉庫の奥にある別の扉を開けた。
「ここから出られる。役所の地下通路だ。」
「そんなものが?」
「昔、重要書類を運ぶために作られた。」
リリアは驚いた顔をする。
「あなた、本当に何者なの?」
俺は少し考える。
そして答えた。
「ただの戸籍係だよ。」
しかし。
その言葉を言った瞬間。
初めて違う気がした。
ただの戸籍係なら。こんなことはしない。
皇女を助けたりしない。
国の記録を書き換えたりしない。
俺たちは地下通路を進んだ。
暗く、狭い道。
上では兵士たちが倉庫へ突入する音が聞こえる。
しばらく歩いた後、地上への出口にたどり着いた。
そこから見えたのは、王都の中心。巨大な王宮だった。そして、その頂上には。
新しい皇帝の即位を知らせる旗が掲げられていた。
リリアはそれを見つめる。
「弟が……もう皇帝になった。」
その横顔には、恐怖ではなく決意があった。
「私は必ず戻る。父の死の真実を明らかにする。」
そして俺を見る。
「そのために、あなたの力を貸してほしい。」
俺は王宮を見る。
今まで遠くから眺めるだけだった場所。俺たち最低階級の人間には、一生関係ない場所。
そう思っていた。
だが。
俺の書いた一枚の紙が、皇女の命を救った。
なら。もしかすると。
この国を変えるのも、剣ではなく――。
一枚の紙なのかもしれない。
「分かった。」
俺は答えた。
「手伝う。」
その瞬間。俺の人生は変わった。
最低階級の戸籍係だった少年は。
後に、この国の歴史を変える人物になる。
その始まりだった。




