第2話 偽りの戸籍
「……こっちだ。」
気づけば、俺は少女の手を引いて走っていた。役所の裏手へ回り込み、古い倉庫の扉を押し開ける。長年使われていない書庫だ。積み上げられた木箱と埃のおかげで、人一人隠れるには十分だった。
「ここなら見つからない。」
少女は肩で息をしながら、小さく頭を下げた。
「ありがとう……。」
その直後だった。外から荒々しい足音が響く。
「いたか!」
「まだ遠くへは行っていないはずだ!」
兵士たちの声が近づいてくる。
俺は倉庫の扉を静かに閉め、その前に立った。数秒後、勢いよく扉が叩かれる。
「おい、お前。」
隊長らしき男が俺を睨んだ。
「ここへ若い女が来なかったか?」
俺は首を横に振る。
「今日は帳簿を運んでいただけです。」
「怪しいな。」
男は扉に手を掛ける。
心臓が大きく脈打つ。見つかれば終わりだ。最低階級の俺に弁明の機会などない。
「開けるぞ。」
その瞬間、別の兵士が駆け寄ってきた。
「隊長! 南門で目撃情報です!」
「何だと?」
「灰色の外套を着た女が川へ向かったと!」
隊長は舌打ちし、俺を一瞥した。
「……行くぞ。」
兵士たちの足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った。
俺は大きく息を吐く。
「もう出てきても大丈夫だ。」
木箱の陰から少女が姿を現した。
「助かった……。」
近くで見ると、服は泥だらけだったが、生地そのものは驚くほど上質だった。靴も革ではなく、見たこともない柔らかな素材で作られている。
少なくとも、労民や市民が身につけるものではない。
少女は俺の視線に気づくと、少し困ったように笑った。
「変な格好でしょう?」
「……普通じゃないのは分かる。」
「そうね。」
少女はそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、役所の壁に掛けられた地図へ目を向ける。
「ねえ。」
「何だ?」
「戸籍って……作れる?」
思わず聞き返した。
「戸籍を?」
「そう。」
「身分証でもいい。」
「新しい名前でもいい。」
「とにかく、別人になりたいの。」
その言葉に、俺は凍りついた。
戸籍は国の根幹だ。偽造は反逆罪。
見つかれば一族郎党が処刑されてもおかしくない。
「無理だ。」
「そう……。」
少女は俯いた。
その横顔は諦めきった人間の顔ではなかった。何かを失うことに慣れてしまった人間の顔だった。
俺は思わず尋ねる。
「どうしてそんなものが必要なんだ?」
少女は少し黙り、静かに答えた。
「本当の名前で生きると、殺されるから。」
その声には、嘘をついている様子がなかった。
俺は戸惑う。
目の前の少女はいったい何者なのか。
貴族か。
犯罪者か。
それとも――。
少女は胸元から、小さな銀色の飾りを取り出した。
そこには翼を広げた双頭の鷲と、王冠の紋章が刻まれていた。
その紋章を見た瞬間、俺の全身から血の気が引く。
役所で何度も見たことがある。
皇帝だけが使用を許される、皇室の紋章だった。
「お願い。」
少女は震える声で言う。
「今夜だけでいい。私を、存在しない人間にして。」




