第1話 最低階級の戸籍係
人は、生まれた瞬間に一生が決まる。
この国では、それが常識だった。
産声を上げた赤子は、最初に神へ祈るのではない。
最初に戸籍役人へ連れて行かれる。
そこで『身分印』が戸籍へ刻まれ、その子の人生は終わる。
皇族。
上級貴族。
下級貴族。
市民。
労民。
そして、最下層――無籍民。
無籍民は、人ではない。
土地を持つことも、学校へ通うことも、店へ入ることも許されない。
罪を犯しても裁判はない。
誰かに殺されても、大きな事件にはならない。
戸籍がない者は、この国では存在しないのと同じだからだ。
俺、エイルは、その戸籍を管理する役所で働いていた。
もっとも、役人と言っても雑用係だ。
朝は床を掃き、書類を運び、古い台帳を倉庫へしまう。
誰でもできる仕事。
いや、誰でもではない。
最低階級だからこそ任される仕事だった。
「エイル。」
低い声に振り向く。
上司のバルトが、分厚い帳簿を抱えていた。
「これを地下書庫へ。」
「はい。」
両腕で抱え上げる。
ずしり、と重い。
何百人もの人生が詰まった帳簿だった。
名前。
生年月日。
住所。
そして身分。
たった一行で、その人の人生が決まる。
地下書庫は静かだった。
石造りの壁には、古びた帳簿が何百冊も並んでいる。
国が建ってから何百年。
すべての人生がここに記録されていた。
俺は決められた棚へ帳簿を戻し、何気なく隣の一冊へ目を向ける。
「……」
子どもの頃から思っていた。
どうして身分は変えられないのだろう。
努力しても。
働いても。
命を懸けても。
生まれた瞬間の一行が、すべてを決める。
それが本当に正しいのか。
「余計なことは考えるな。」
父は昔、そう言っていた。
「考えた奴から消える。」
その言葉の意味を知ったのは、父が突然いなくなった日だった。
理由は誰も教えてくれなかった。
役所でも、その記録だけがきれいになくなっていた。
まるで最初から存在しなかったように。
――だから俺は考えるのをやめた。
生きるために。
余計なことは知らないふりをする。
それが最低階級の知恵だった。
その日の仕事を終え、夕暮れの街を歩く。
石畳の向こうには、貴族街へ続く大きな門が見える。
門番は槍を持ち、身分証を確認している。
貴族だけが通れる門。
俺には一生、縁のない場所だ。
そのときだった。
門の陰から、一人の少女が飛び出してきた。
灰色の外套を深くかぶり、息を切らしている。
年齢は十五、六歳だろうか。
だが、その身のこなしは普通ではない。
誰かから逃げている。
少女は俺と目が合うと、小さく呟いた。
「お願い……隠して。」
直後、門の向こうから鎧の音が響いた。
「いたぞ! 逃がすな!」
兵士たちがこちらへ駆けてくる。
少女は震える手で俺の袖をつかんだ。
「今だけでいい……助けて。」
最低階級の人間が、兵士に逆らえばどうなるか。
そんなことは考えるまでもない。
俺は少女の瞳を見つめた。
その瞳だけが、不思議なくらい真っ直ぐだった。
――人生で初めて。
俺は、身分より先に、人を見た。




