深きにおいて血は呼ばれる⑥
通路は、思っていたよりも長かった。
岩肌が両側から迫り、肩がこすれそうなほど狭い。白川さんの背中を追って、私は足を進める。
暗い。
けれど私の目には、岩の継ぎ目がくっきりと見えていた。
普段の私なら、一歩も動けなかったはずの闇だった。
空気が、少しずつ変わっていく。濃くなる、という言葉が一番近い。けれど息苦しいのではない。
むしろ逆。一歩進むごとに、肺がよろこんでいる。血の一滴ずつが、温度を持って巡り始める。
――歓喜。
そう表現せざるを得ない感覚。
白川さんの足が、止まる。
彼の肩越しに、通路の出口が見えた。
淡い光が、滲んでいた。
白川さんが、身を脇へ寄せた。私に道を譲るように。あるいは、私自身の目で見せようとするように。
私は、通路を抜けた。
「嘘……」
思わず声が漏れる。
森。
鬱蒼とした森。
木々が空へ向かってまっすぐと立ち、巨木の梢が夜空のような闇を覆っている。地面には湿った苔が一面に張りつき、足元から微かな水の匂いが立ちのぼっていた。木々の隙間から、夕暮れのような薄明かりが斜めに差している。
ここはダンジョンの中のはずだった。
なのに、空があった。
私は立ち尽くした。
――ああ。
声にならない声が、胸の底から漏れた。
全身がほどけていく。
心に長年差し込まれていた細い棘が、一本残らず抜けていくような感覚だった。
肩の力が抜ける。呼吸がしやすい。これまで一度もなかった感覚。
ここは私が生きる場所。
大げさでなく、そう思った。文化庁の地下書庫で手記を読んだ夜も、養成課程の三年間も、十四階層の池で何度も尾を見ないふりをした日々も――すべては、この場所に辿り着くためにあったのだと。
ずっと、自分がどこか欠けた人間だと思っていた。探査士としての息苦しさも、世間に対する疎外感も、すべてはこの場所に辿り着くための前振りに過ぎなかったのだ、と。
でも、ここでは――。
目の奥が、熱くなった。涙が、こぼれそうだった。
懐かしい。
来たこともない場所なのに、どうしようもなく懐かしい。苔の匂いも、木立の影も、湿った土の感触も。
すべてが「知っている」と告げていた。
還ってきた、と思った。
――私は、ここに来るために生きてきた。
涙が、頬を伝う寸前だった。
「白瀬さん」
声を掛けられる。
そのとき――気づいた。
「なに、これ……」
手の甲。淡い白銀の毛が、皮膚を突き破るようにじわじわと生え広がっていた。
幻なんかじゃない。今、この瞬間の現実として、私の身体が私ではない「何か」へ還ろうとしている。
「あ、うあ……っ」
慌てて袖で擦り、毛を落とそうとするが無駄だった。
皮膚の裏側が、内側からむず痒く脈打っている。
森の奥へ一歩進むごとに、その毛並みは密度を増す。
細くしなやかだった指先は、どこか獣のそれを思わせる鋭さを帯びていく。
爪が硬く尖り、自分の意思とは無関係に、肉を引き裂くための形へと反り返っていく。
背後で揺れる『尾』の影が、どんどん濃くなっていくのが感覚で分かる。
真実に近づけば近づくほど、自分が人間として壊れていく。
その絶対的な恐怖に、呼吸が浅くなる。
足がすくみそうになるのを必死に堪え、白川さんの先導で森の奥へと進む。
やがて巨木の根元に、少し開けた空間が見えてきた。
――違和感。
この空間には風が、ない。
巨木の梢が、揺れていない。これだけの木立があるのに、葉ずれの音ひとつしない。差し込む薄明かりは、誰かが時間を止めたように、まったく動かなかった。
私は、一歩、前に踏み出した。
足音が、しなかった。
苔を踏んだはずだった。地上なら、湿った苔はくぐもった音を立てる。けれど私の足音は――響かなかった。空気の中へ、吸い込まれるように消えた。
もう一歩。
やはり、しない。
胸の奥で何かが軋んだ。さっきまでの多幸感の輪郭が、内側からひび割れていく。
私は自分の手をゆっくりと宙に動かしてみた。
空気が応えない。
うまく言えない。けれど、確かに分かった。手を動かせば、空気はそれに合わせてわずかにでも揺れる。地上では、いつもそうだった。気づかないほど微かに、けれど確かに、世界はこちらの動きに応じていた。
ここには、それがなかった。
私が動いても、世界は静止したままだった。まるで、私という存在が、最初からここに無いかのように。
匂いは、ある。苔の匂い。土の匂い。確かに、ある。
けれど――それだけだった。
匂いの奥に、あるべき何かが、欠けていた。何が欠けているのか、私にはまだ言葉にできなかった。ただ、満たされていたはずの胸が、急速に、底の抜けた器のように空っぽになっていく。
懐かしさは、嘘ではない。
けれどこれはまるで森の剥製のようだった。そう感じた瞬間、恐怖が背筋を蛇のように這い寄る。気付いた時には締め上げられ体が動けなくなっている類のもの。
「白川さん」
声が、震えた。
「ここは……」
白川さんは、少し離れた場所で、森を見渡していた。木立を、苔を、動かない梢を。何かを確かめるような、けれど、何かを悼むような目で。
彼は、すぐには答えなかった。
「ここは」
ようやく、口を開いた。
「信太の森に、似せて作られています」
――信太の森。
その名が、私の身体の奥で鈍く反響した。
知っている。
書庫の古文書で、何度も目にした名前。和泉の国、信太の森。一匹の白狐が住んでいたという森。
傷を負ったところを若い男に助けられ、その恩を返したくて女に化け、葛の葉と名乗ってその家に嫁いだ。
子を産み、人として生き、けれどある日、障子越しに尾を見られて、一首の歌を残して去った。
――恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉。
うちの家は、その葛の葉の末裔だと伝わっている。大きな池にたった一滴垂らしたほど、薄まった血。誰も真面目には信じていない、傍流の中の傍流の家の言い伝え。
私はずっと、それを「物語」として読んできた。書庫の資料の、注釈をつけるべき対象として。自分とは地続きのようでいて、どこか他人事の、遠い昔話として。
けれど今――その森が、目の前にあった。
葛の葉が還った森。私の血が、いちばん遠い源で繋がっている森。物語の地名でしかなかったものが、足元の苔の感触として、肺を満たす匂いとして現実に、今、ここにある。
だから懐かしかったのだ。
来たこともない場所を、こんなにも「還ってきた」と感じた理由が今になって分かった。
私の身体は、何百年も前の血の記憶を辿って、ここを源郷だと思い込んだ。葛の葉が迎え入れられた、あの森だと。
「……信太の森」
私は、その名を、口に出していた。掠れた声だった。
「葛の葉が、還った森」
白川さんが、ほんのわずかに、目を細めた。私がその名の重みを知っていることを、確かめるように。
「ええ」
彼は、静かに頷いた。
「ただしこの場所は正確には違います」
言葉を選ぶように、間を置く。
「願望が生んだ、贋物の森です」
私には、意味が分からなかった。問い返そうとして、けれど、喉の奥で言葉が止まる。聞いてはいけないような、聞いても答えは返らないような、そんな沈黙が、彼の周りにあった。
「行きましょう、気配はこちらを指し示しています」
◆
白川さんの一歩下がった位置で歩きながら私は、自分の感覚に意識を集中した。
空気の静止。応答の不在。足音の消失。
これだけ濃度のある場所なのに――いや、これまで潜ったどこよりも濃いというのに、なぜか、誰もいない。誰の気配もない。私ひとりが、空っぽの器の中に、ぽつんと立っている。
「本物の信太の森は」
白川さんは、静かに語る。
「こうではありませんでした」
私は、彼の横顔を見た。
――こうではなかった、とこの人は言った。
まるで、見たことがあるかのように。
過去を振り返るように。
「あそこは、生きている場所でした」
「……生きている」
「ええ。誰の、とは言えません。けれどね、感じるんですよ。今のあなたなら分かるはずです」
そう言って、白川さんは私の全身に目をやった。変わりゆく私を、確かめるように。
それから視線を外し、片手をゆっくりと宙に伸ばす。
私がさっきしたのと、同じように。
「自分が歩けば、空気が応えた。匂いの中に……自分と同じ者の、体温の残り香があった。沈黙の中に、自分のものではない足音の残響が、遠く、聞こえるような感覚」
彼の指が、何もない空気をそっと撫でた。
「だから、辿り着いた者は……誰にも会わなくても」
その手が、止まる。
「独りではない、と感じられたんです」
森が、しんと静まり返っていた。私の鼓動だけが、やけに大きく、内側で鳴っていた。
「ここには」
私は、ようやく言葉を絞り出した。
「それが……ない」
「ええ」
白川さんは、伸ばしていた手を、静かに下ろした。
「濃度だけは、あります。むしろ、本物より濃いくらいです」
彼は、森の奥を見た。木立の向こう、薄明かりの届かない暗がりへと。
「けれど、誰も通っていない。誰もここで呼吸をしていない」
「呼ばれて辿り着いた者を――迎え入れるものが、何もないんです」
その言葉が、森の静寂に吸い込まれて消えた。
私は、自分の手を見ていた。
手の甲の毛は、もう手首まで這い上がっている。指先は細く、しなやかに、獣のそれへと変わりつつあった。
背後の尾の影は、瞬きしても消えない。それどころか――気づけば、私はその尾を、自分の身体の一部として感じ始めていた。違和感がない。馴染んでいく。
それが、いちばん怖かった。
森の奥へ進むごとに、何かが、薄れていく。
白瀬紗夜という名前。二十八年間、人として積み上げてきたもの。父の病室の匂い。千代の声。班長に叱られた朝。
記憶の砂粒が、指の間から零れていく。
代わりに、別のものが、せり上がってくる。
四つ足で地を駆けたい。湿った土に鼻先を埋めたい。木々の間を、風になって抜けたい。考えるより先に、身体がそれを欲していた。言葉も、名前も、いらない。ここでは、ただ在ればいい。還ればいい。楽になればいい――。
「――っ」
私は、短剣の柄を、握りしめた。
革を巻いた、硬い感触。掌に食い込む痛み。それだけが、かろうじて私を「人」の側に繋ぎ止めていた。
爪を立てる。痛い。痛い、と感じている自分が、まだ、ここにいる。
駄目だ。呑まれる。
還りたいという歓喜と、還ってはいけない、という意志が、身体の真ん中で引き裂き合っていた。
深く息を吸うたびに森の力が肺を満たし、私を向こう側へ引きずろうとする。
吐くたびに、私は爪を掌に立てて、こちら側へ踏み止まる。
その、綱渡りのような均衡が――ふいに、断ち切られた。
何者かの気配。
木立の向こう、薄明かりの届かない暗がりの方角から、何かが、こちらを向いた。
声ではなかった。音でもなかった。鼓膜ではなく、血が、それを拾った。皮膚の下でせめぎ合っていた血の一滴ずつが、いっせいに、その方角を向いて、ぴたりと――静まった。
引き裂き合っていたものが、嘘のように止んだ。
呼ばれている。
いや、違う。呼ばれている、ではない。応えたくなる。応えなければ、と思う。誰かが、私の名を――名前ですらない、もっと深いところにある「私そのもの」を、存在ごと手繰り寄せている。
行かなきゃ。
言葉になる前の言葉が、血の流れに乗って、身体の芯に直接届いた。
知っている、と思った。
この呼び方を、私は知っている。顔も覚えていない。声など、とうに忘れた。
なのに――この呼ばれ方を、覚えていた。
獣に呑まれかけていた身体が、その気配の一点に、引き寄せられていく。
還りたい――自分を手放したいという衝動が、いつのまにか、別の渇きに塗り替えられていた。
会いたい。あれに、会わなければ。
バラバラに散りかけていた意識が、その一点に、かろうじて束ね直される。
暗がりの奥で、何かが、動いた。
大きい獣。
けれど、ただの獣ではない。
白い。
苔の光を受けて、その毛並みが、ぼんやりと浮かび上がる。
荒れて、もつれている。けれど、かつては美しい毛並みであっただろうと思わせる、白い毛だった。
ゆっくりとこちらへ、近づいてくる。
「白川さん」
声が、震えた。喉が、渇いて、貼りついていた。
「あれ……」
白川さんは、もう森の奥を見てはいなかった。
私の半歩前に、いつの間にか、身体を割り込ませている。
私を庇うように。
けれど、その目だけは、近づいてくる白い影から、片時も逸らさなかった。
「白瀬さん」
彼の声はこれまでで、いちばん静かだった。
「下がっていてください」
暗がりが、晴れる。
薄明かりの中へ、それは姿を現した。




