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キツネの恩返し  作者: 7氏。


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9/10

深きにおいて血は呼ばれる⑥

 通路は、思っていたよりも長かった。

 岩肌が両側から迫り、肩がこすれそうなほど狭い。白川さんの背中を追って、私は足を進める。

 暗い。

 けれど私の目には、岩の継ぎ目がくっきりと見えていた。

 普段の私なら、一歩も動けなかったはずの闇だった。

 空気が、少しずつ変わっていく。濃くなる、という言葉が一番近い。けれど息苦しいのではない。

 むしろ逆。一歩進むごとに、肺がよろこんでいる。血の一滴ずつが、温度を持って巡り始める。

 ――歓喜。

 そう表現せざるを得ない感覚。

 白川さんの足が、止まる。

 彼の肩越しに、通路の出口が見えた。

 淡い光が、滲んでいた。

 白川さんが、身を脇へ寄せた。私に道を譲るように。あるいは、私自身の目で見せようとするように。

 私は、通路を抜けた。


「嘘……」


 思わず声が漏れる。

 森。

 鬱蒼とした森。

 木々が空へ向かってまっすぐと立ち、巨木の梢が夜空のような闇を覆っている。地面には湿った苔が一面に張りつき、足元から微かな水の匂いが立ちのぼっていた。木々の隙間から、夕暮れのような薄明かりが斜めに差している。

 ここはダンジョンの中のはずだった。

 なのに、空があった。

 私は立ち尽くした。

 ――ああ。

 声にならない声が、胸の底から漏れた。

 全身がほどけていく。

 心に長年差し込まれていた細い棘が、一本残らず抜けていくような感覚だった。

 肩の力が抜ける。呼吸がしやすい。これまで一度もなかった感覚。

 ここは私が生きる場所。

 大げさでなく、そう思った。文化庁の地下書庫で手記を読んだ夜も、養成課程の三年間も、十四階層の池で何度も尾を見ないふりをした日々も――すべては、この場所に辿り着くためにあったのだと。

 ずっと、自分がどこか欠けた人間だと思っていた。探査士としての息苦しさも、世間に対する疎外感も、すべてはこの場所に辿り着くための前振りに過ぎなかったのだ、と。

 でも、ここでは――。

 目の奥が、熱くなった。涙が、こぼれそうだった。

 懐かしい。

 来たこともない場所なのに、どうしようもなく懐かしい。苔の匂いも、木立の影も、湿った土の感触も。

 すべてが「知っている」と告げていた。

 還ってきた、と思った。

 ――私は、ここに来るために生きてきた。

 涙が、頬を伝う寸前だった。


「白瀬さん」


 声を掛けられる。

 そのとき――気づいた。


「なに、これ……」


 手の甲。淡い白銀の毛が、皮膚を突き破るようにじわじわと生え広がっていた。

 幻なんかじゃない。今、この瞬間の現実として、私の身体が私ではない「何か」へ還ろうとしている。


「あ、うあ……っ」


 慌てて袖で擦り、毛を落とそうとするが無駄だった。

 皮膚の裏側が、内側からむず痒く脈打っている。

 森の奥へ一歩進むごとに、その毛並みは密度を増す。

 細くしなやかだった指先は、どこか獣のそれを思わせる鋭さを帯びていく。

 爪が硬く尖り、自分の意思とは無関係に、肉を引き裂くための形へと反り返っていく。

 背後で揺れる『尾』の影が、どんどん濃くなっていくのが感覚で分かる。

 真実に近づけば近づくほど、自分が人間として壊れていく。

 その絶対的な恐怖に、呼吸が浅くなる。

 足がすくみそうになるのを必死に堪え、白川さんの先導で森の奥へと進む。

 やがて巨木の根元に、少し開けた空間が見えてきた。


 ――違和感。


 この空間には風が、ない。

 巨木の梢が、揺れていない。これだけの木立があるのに、葉ずれの音ひとつしない。差し込む薄明かりは、誰かが時間を止めたように、まったく動かなかった。

 私は、一歩、前に踏み出した。

 足音が、しなかった。

 苔を踏んだはずだった。地上なら、湿った苔はくぐもった音を立てる。けれど私の足音は――響かなかった。空気の中へ、吸い込まれるように消えた。

 もう一歩。

 やはり、しない。

 胸の奥で何かが軋んだ。さっきまでの多幸感の輪郭が、内側からひび割れていく。

 私は自分の手をゆっくりと宙に動かしてみた。

 空気が応えない。

 うまく言えない。けれど、確かに分かった。手を動かせば、空気はそれに合わせてわずかにでも揺れる。地上では、いつもそうだった。気づかないほど微かに、けれど確かに、世界はこちらの動きに応じていた。

 ここには、それがなかった。

 私が動いても、世界は静止したままだった。まるで、私という存在が、最初からここに無いかのように。

 匂いは、ある。苔の匂い。土の匂い。確かに、ある。

 けれど――それだけだった。

 匂いの奥に、あるべき何かが、欠けていた。何が欠けているのか、私にはまだ言葉にできなかった。ただ、満たされていたはずの胸が、急速に、底の抜けた器のように空っぽになっていく。

 懐かしさは、嘘ではない。

 けれどこれはまるで森の剥製のようだった。そう感じた瞬間、恐怖が背筋を蛇のように這い寄る。気付いた時には締め上げられ体が動けなくなっている類のもの。


「白川さん」


 声が、震えた。


「ここは……」


 白川さんは、少し離れた場所で、森を見渡していた。木立を、苔を、動かない梢を。何かを確かめるような、けれど、何かを悼むような目で。

 彼は、すぐには答えなかった。


「ここは」


 ようやく、口を開いた。


「信太の森に、似せて作られています」


 ――信太の森。


 その名が、私の身体の奥で鈍く反響した。

 知っている。

 書庫の古文書で、何度も目にした名前。和泉の国、信太の森。一匹の白狐が住んでいたという森。

 傷を負ったところを若い男に助けられ、その恩を返したくて女に化け、葛の葉と名乗ってその家に嫁いだ。

 子を産み、人として生き、けれどある日、障子越しに尾を見られて、一首の歌を残して去った。


 ――恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉。


 うちの家は、その葛の葉の末裔だと伝わっている。大きな池にたった一滴垂らしたほど、薄まった血。誰も真面目には信じていない、傍流の中の傍流の家の言い伝え。

 私はずっと、それを「物語」として読んできた。書庫の資料の、注釈をつけるべき対象として。自分とは地続きのようでいて、どこか他人事の、遠い昔話として。

 けれど今――その森が、目の前にあった。

 葛の葉が還った森。私の血が、いちばん遠い源で繋がっている森。物語の地名でしかなかったものが、足元の苔の感触として、肺を満たす匂いとして現実に、今、ここにある。

 だから懐かしかったのだ。

 来たこともない場所を、こんなにも「還ってきた」と感じた理由が今になって分かった。

 私の身体は、何百年も前の血の記憶を辿って、ここを源郷だと思い込んだ。葛の葉が迎え入れられた、あの森だと。


「……信太の森」


 私は、その名を、口に出していた。掠れた声だった。


「葛の葉が、還った森」


 白川さんが、ほんのわずかに、目を細めた。私がその名の重みを知っていることを、確かめるように。


「ええ」


 彼は、静かに頷いた。


「ただしこの場所は正確には違います」


 言葉を選ぶように、間を置く。


「願望が生んだ、贋物の森です」


 私には、意味が分からなかった。問い返そうとして、けれど、喉の奥で言葉が止まる。聞いてはいけないような、聞いても答えは返らないような、そんな沈黙が、彼の周りにあった。


「行きましょう、気配はこちらを指し示しています」


 ◆


 白川さんの一歩下がった位置で歩きながら私は、自分の感覚に意識を集中した。

 空気の静止。応答の不在。足音の消失。

 これだけ濃度のある場所なのに――いや、これまで潜ったどこよりも濃いというのに、なぜか、誰もいない。誰の気配もない。私ひとりが、空っぽの器の中に、ぽつんと立っている。


「本物の信太の森は」


 白川さんは、静かに語る。


「こうではありませんでした」


 私は、彼の横顔を見た。

 ――こうではなかった、とこの人は言った。

 まるで、見たことがあるかのように。

 過去を振り返るように。


「あそこは、生きている場所でした」

「……生きている」

「ええ。誰の、とは言えません。けれどね、感じるんですよ。今のあなたなら分かるはずです」


 そう言って、白川さんは私の全身に目をやった。変わりゆく私を、確かめるように。

 それから視線を外し、片手をゆっくりと宙に伸ばす。

 私がさっきしたのと、同じように。


「自分が歩けば、空気が応えた。匂いの中に……自分と同じ者の、体温の残り香があった。沈黙の中に、自分のものではない足音の残響が、遠く、聞こえるような感覚」


 彼の指が、何もない空気をそっと撫でた。


「だから、辿り着いた者は……誰にも会わなくても」


 その手が、止まる。


「独りではない、と感じられたんです」


 森が、しんと静まり返っていた。私の鼓動だけが、やけに大きく、内側で鳴っていた。


「ここには」


 私は、ようやく言葉を絞り出した。


「それが……ない」

「ええ」


 白川さんは、伸ばしていた手を、静かに下ろした。


「濃度だけは、あります。むしろ、本物より濃いくらいです」


 彼は、森の奥を見た。木立の向こう、薄明かりの届かない暗がりへと。


「けれど、誰も通っていない。誰もここで呼吸をしていない」

「呼ばれて辿り着いた者を――迎え入れるものが、何もないんです」


 その言葉が、森の静寂に吸い込まれて消えた。

 私は、自分の手を見ていた。

 手の甲の毛は、もう手首まで這い上がっている。指先は細く、しなやかに、獣のそれへと変わりつつあった。

 背後の尾の影は、瞬きしても消えない。それどころか――気づけば、私はその尾を、自分の身体の一部として感じ始めていた。違和感がない。馴染んでいく。

 それが、いちばん怖かった。

 森の奥へ進むごとに、何かが、薄れていく。

 白瀬紗夜という名前。二十八年間、人として積み上げてきたもの。父の病室の匂い。千代の声。班長に叱られた朝。

 記憶の砂粒が、指の間から零れていく。

 代わりに、別のものが、せり上がってくる。

 四つ足で地を駆けたい。湿った土に鼻先を埋めたい。木々の間を、風になって抜けたい。考えるより先に、身体がそれを欲していた。言葉も、名前も、いらない。ここでは、ただ在ればいい。還ればいい。楽になればいい――。


「――っ」


 私は、短剣の柄を、握りしめた。

 革を巻いた、硬い感触。掌に食い込む痛み。それだけが、かろうじて私を「人」の側に繋ぎ止めていた。

 爪を立てる。痛い。痛い、と感じている自分が、まだ、ここにいる。

 駄目だ。呑まれる。

 還りたいという歓喜と、還ってはいけない、という意志が、身体の真ん中で引き裂き合っていた。

 深く息を吸うたびに森の力が肺を満たし、私を向こう側へ引きずろうとする。

 吐くたびに、私は爪を掌に立てて、こちら側へ踏み止まる。

 その、綱渡りのような均衡が――ふいに、断ち切られた。


 何者かの気配。


 木立の向こう、薄明かりの届かない暗がりの方角から、何かが、こちらを向いた。

 声ではなかった。音でもなかった。鼓膜ではなく、血が、それを拾った。皮膚の下でせめぎ合っていた血の一滴ずつが、いっせいに、その方角を向いて、ぴたりと――静まった。

 引き裂き合っていたものが、嘘のように止んだ。

 呼ばれている。

 いや、違う。呼ばれている、ではない。応えたくなる。応えなければ、と思う。誰かが、私の名を――名前ですらない、もっと深いところにある「私そのもの」を、存在ごと手繰り寄せている。


 行かなきゃ。


 言葉になる前の言葉が、血の流れに乗って、身体の芯に直接届いた。

 知っている、と思った。

 この呼び方を、私は知っている。顔も覚えていない。声など、とうに忘れた。

 なのに――この呼ばれ方を、覚えていた。

 獣に呑まれかけていた身体が、その気配の一点に、引き寄せられていく。

 還りたい――自分を手放したいという衝動が、いつのまにか、別の渇きに塗り替えられていた。

 会いたい。あれに、会わなければ。

 バラバラに散りかけていた意識が、その一点に、かろうじて束ね直される。


 暗がりの奥で、何かが、動いた。

 大きい獣。

 けれど、ただの獣ではない。

 白い。

 苔の光を受けて、その毛並みが、ぼんやりと浮かび上がる。

 荒れて、もつれている。けれど、かつては美しい毛並みであっただろうと思わせる、白い毛だった。

 ゆっくりとこちらへ、近づいてくる。


「白川さん」


 声が、震えた。喉が、渇いて、貼りついていた。


「あれ……」


 白川さんは、もう森の奥を見てはいなかった。

 私の半歩前に、いつの間にか、身体を割り込ませている。

 私を庇うように。

 けれど、その目だけは、近づいてくる白い影から、片時も逸らさなかった。


「白瀬さん」


 彼の声はこれまでで、いちばん静かだった。


「下がっていてください」


 暗がりが、晴れる。

 薄明かりの中へ、それは姿を現した。

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