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キツネの恩返し  作者: 7氏。


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8/10

深きにおいて血は呼ばれる⑤

 第十四階層。

 私が普段潜る最深部だ。

 上野ダンジョンの全貌は、未だに誰も知らない。

 確認されているだけで二十数階層あり、その下にもまだ続いているとされている。

 一級、特級の探査士たちは、より深い位置まで現在も探査を続けている。けれど二級の私にとっては、ここが行き止まり。

 これより下の階層は、単独で踏み込める場所ではない。


 青白く発光する苔が、岩肌一面に張りついている。

 湿った岩場を抜けると、見覚えのある開けた場所に出た。


 ――『尾』が見えた池。


 天井から滴り落ちた水が、長い時間をかけて溜まったのだろう。岩のくぼみに、黒い水が静かに湛えられている。青苔の光を受けて、水面がぼんやりと発光していた。


 管理局ではこの階層を『探査士の精神を著しく摩耗させる汚染区域』としている。

 ――そのはずなのに。

 私の身体は、恐ろしいほどに冴え渡っていた。

 血の一滴ずつが、喜んでいるのが分かる。息苦しさなど微塵もない。視界は昼間のように明瞭で、遠くで滴る水滴の音すら、鼓膜へ鮮明に飛び込んできた。


「……白瀬さん」


 不意に、後ろを歩く白川さんの声が響いた。

 水面が、鏡のように私の姿を照らし出している。

 そこに映っていたのは、私でありながら、私ではなかった。


 一本の『尾』の輪郭。


 美しい毛並み。かすかに逆立つ、人ならざる獣の毛。それが、水鏡の中で、私の意志に反して不気味に、けれど優雅に揺らめいている。

 幼い頃、公園の池で見たのと、同じだった自分の姿。

 あの時は瞬きをすれば消えた。

 今は瞬きをしても、消えなかった。消えてくれなかった。

 心臓が、嫌な打ち方をする。


 この池には、何度も来た。来るたびに尾は見えた。身体が軽くなる感覚も、毎回あった。

 けれど、それは瞬きの間に消える程度のものだった。だから、見ないふりができた。気のせいだと、思い込むことができた。

 今日は、違う。

 尾は消えない。身体の昂ぶりは、軽さなどという生易しいものではなく、歓喜と呼ぶべき何かにまで振り切れている。

 今、自分はどうなっているのか、どのような姿になっているのか。

 もし水面に映るこの姿のままだとしたら――。


「白川さん、私……」

「…………」


 恐怖で指先が冷たい。感覚が、ない。

 凍りつく体を私は必死に動かそうとする。そんな私を白川さんは背後からただ静かに見つめていた。

 やがて、白川さんは私の隣まで歩いてきた。

 そして、私と同じように水面を覗き込んだ。

 水鏡には、尾の輪郭を伴った私と——白川さんの姿が、並んで映った。

 彼の輪郭はほんの一瞬、滲んだように見えた。


「えっ……」


 私が驚き、瞬きをすると――そこには普段通りの白川さんの姿があった。

 今のは、何だったのか。

 まさか、この人も――そう考えかけた瞬間、思考が、ほどけた。

 点と点が繋がり、線になろうとした思考が、線になる前に溶けていく。掴もうとすると、指の間から点がすり抜けていく。


「もう大丈夫です」


 それだけ言うと、彼は水面から顔を上げ私を見つめる。

 その時に気づく。

 水面に映る私の姿が戻っていることに。

 呼吸が、指先が、自分の体の感覚が戻っていることに。


「気配はこちらを示しています。行きましょう」


 歩き出す背中を、私はすぐには追えなかった。


 ――なんで彼が滲んだように見えたのか。

 ――なんで彼のことを考えようとすると思考がまとまらないのか。

 ――なんで私の姿が戻ったのか。


 理由は分からない。

 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

 彼が隣に立った瞬間、私の中の何かが、静かになった。

 冷えた指に血が通い、呼吸が戻った。

 彼は何もしなかったように見えた。

 けれど今、私の姿は戻り、落ち着けている。

 分からないことだらけで疑問だらけ――でも。

 彼についていけば。

 狐目で、どこか食えない感じがする、よく見れば愛嬌のある顔立ちの彼についていけば、真実を知ることが出来ると思った。

 私は少し離れた彼の背中を急いで追った。


 ◆


 すぐ先に、見覚えのある分岐があった。

 いつもなら、右の通路を進み決められた探査範囲を巡回してまた地上へ戻る。それが私の知っている第十四階層だった。

 白川さんは、右の通路を見なかった。

 左の、岩の壁にしか見えない方へ歩いていく。


「白川さん、そっちは——」


 壁だ、と言いかけて、私は口をつぐんだ。

 白川さんは岩壁の前に立つと、懐から和紙の手帳を取り出した。一枚を破り取り、指先で何か文字のようなものをなぞる。狐火に似た、けれどもっと淡い光が紙の上を走った。

 その紙を、岩壁に押し当てる。


「この壁は壁ではありません」


 そう言うと彼は短く何かを唱えた。私は知らない、古い言葉。

 次の瞬間、岩壁が——歪んだ。

 陽炎のように、岩肌の模様がぶれて、溶けて、形を失った。

 そこにあったはずの壁はもう無かった。代わりに、人ひとりが通れるほどの暗い通路が口を開け、誘うように闇が奥へ続いていた。

 私は、息を呑む。

 何度も、この分岐に来た。それこそ何度も。けれど、ここに通路があるなんて一度も気づかなかった。


「……今のは」

「壁に、見せかけた幻術ですよ」


 白川さんは、押し当てていた紙を岩から剥がした。紙は役目を終え、ぱらぱらと崩れて消えた。


「何の為に誰がこんなことをしたのか、私には分かりません」

 ――ですが。

「古い偽装です。少なくとも異能ではないことは確かです」

「では、何なのでしょうか」

「確かなことはなんとも。……ただ見覚えあるものです」


 私は、彼の横顔を見た。

「知っているのですか!?」

「ええ……ただここで説明せずとも、進めば白瀬さんにも分かります」

「私が……ですか?」

「ええ。あなたの血が」


 その言葉の意味を、私は問い返せなかった。

 白川さんは、それ以上言わなかった。

 ただ、その口ぶりには、何かを知っている者の沈黙があった。

 彼は通路の奥を見た。

 奥は暗い。けれど私の目には、岩肌の輪郭がはっきりと見えた。

 地上にいた頃なら、何も見えなかったはずの暗さだった。


「私についてきてください」


 白川さんが、通路に身体を滑り込ませた。

 私も、続いた。

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