深きにおいて血は呼ばれる⑤
第十四階層。
私が普段潜る最深部だ。
上野ダンジョンの全貌は、未だに誰も知らない。
確認されているだけで二十数階層あり、その下にもまだ続いているとされている。
一級、特級の探査士たちは、より深い位置まで現在も探査を続けている。けれど二級の私にとっては、ここが行き止まり。
これより下の階層は、単独で踏み込める場所ではない。
青白く発光する苔が、岩肌一面に張りついている。
湿った岩場を抜けると、見覚えのある開けた場所に出た。
――『尾』が見えた池。
天井から滴り落ちた水が、長い時間をかけて溜まったのだろう。岩のくぼみに、黒い水が静かに湛えられている。青苔の光を受けて、水面がぼんやりと発光していた。
管理局ではこの階層を『探査士の精神を著しく摩耗させる汚染区域』としている。
――そのはずなのに。
私の身体は、恐ろしいほどに冴え渡っていた。
血の一滴ずつが、喜んでいるのが分かる。息苦しさなど微塵もない。視界は昼間のように明瞭で、遠くで滴る水滴の音すら、鼓膜へ鮮明に飛び込んできた。
「……白瀬さん」
不意に、後ろを歩く白川さんの声が響いた。
水面が、鏡のように私の姿を照らし出している。
そこに映っていたのは、私でありながら、私ではなかった。
一本の『尾』の輪郭。
美しい毛並み。かすかに逆立つ、人ならざる獣の毛。それが、水鏡の中で、私の意志に反して不気味に、けれど優雅に揺らめいている。
幼い頃、公園の池で見たのと、同じだった自分の姿。
あの時は瞬きをすれば消えた。
今は瞬きをしても、消えなかった。消えてくれなかった。
心臓が、嫌な打ち方をする。
この池には、何度も来た。来るたびに尾は見えた。身体が軽くなる感覚も、毎回あった。
けれど、それは瞬きの間に消える程度のものだった。だから、見ないふりができた。気のせいだと、思い込むことができた。
今日は、違う。
尾は消えない。身体の昂ぶりは、軽さなどという生易しいものではなく、歓喜と呼ぶべき何かにまで振り切れている。
今、自分はどうなっているのか、どのような姿になっているのか。
もし水面に映るこの姿のままだとしたら――。
「白川さん、私……」
「…………」
恐怖で指先が冷たい。感覚が、ない。
凍りつく体を私は必死に動かそうとする。そんな私を白川さんは背後からただ静かに見つめていた。
やがて、白川さんは私の隣まで歩いてきた。
そして、私と同じように水面を覗き込んだ。
水鏡には、尾の輪郭を伴った私と——白川さんの姿が、並んで映った。
彼の輪郭はほんの一瞬、滲んだように見えた。
「えっ……」
私が驚き、瞬きをすると――そこには普段通りの白川さんの姿があった。
今のは、何だったのか。
まさか、この人も――そう考えかけた瞬間、思考が、ほどけた。
点と点が繋がり、線になろうとした思考が、線になる前に溶けていく。掴もうとすると、指の間から点がすり抜けていく。
「もう大丈夫です」
それだけ言うと、彼は水面から顔を上げ私を見つめる。
その時に気づく。
水面に映る私の姿が戻っていることに。
呼吸が、指先が、自分の体の感覚が戻っていることに。
「気配はこちらを示しています。行きましょう」
歩き出す背中を、私はすぐには追えなかった。
――なんで彼が滲んだように見えたのか。
――なんで彼のことを考えようとすると思考がまとまらないのか。
――なんで私の姿が戻ったのか。
理由は分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
彼が隣に立った瞬間、私の中の何かが、静かになった。
冷えた指に血が通い、呼吸が戻った。
彼は何もしなかったように見えた。
けれど今、私の姿は戻り、落ち着けている。
分からないことだらけで疑問だらけ――でも。
彼についていけば。
狐目で、どこか食えない感じがする、よく見れば愛嬌のある顔立ちの彼についていけば、真実を知ることが出来ると思った。
私は少し離れた彼の背中を急いで追った。
◆
すぐ先に、見覚えのある分岐があった。
いつもなら、右の通路を進み決められた探査範囲を巡回してまた地上へ戻る。それが私の知っている第十四階層だった。
白川さんは、右の通路を見なかった。
左の、岩の壁にしか見えない方へ歩いていく。
「白川さん、そっちは——」
壁だ、と言いかけて、私は口をつぐんだ。
白川さんは岩壁の前に立つと、懐から和紙の手帳を取り出した。一枚を破り取り、指先で何か文字のようなものをなぞる。狐火に似た、けれどもっと淡い光が紙の上を走った。
その紙を、岩壁に押し当てる。
「この壁は壁ではありません」
そう言うと彼は短く何かを唱えた。私は知らない、古い言葉。
次の瞬間、岩壁が——歪んだ。
陽炎のように、岩肌の模様がぶれて、溶けて、形を失った。
そこにあったはずの壁はもう無かった。代わりに、人ひとりが通れるほどの暗い通路が口を開け、誘うように闇が奥へ続いていた。
私は、息を呑む。
何度も、この分岐に来た。それこそ何度も。けれど、ここに通路があるなんて一度も気づかなかった。
「……今のは」
「壁に、見せかけた幻術ですよ」
白川さんは、押し当てていた紙を岩から剥がした。紙は役目を終え、ぱらぱらと崩れて消えた。
「何の為に誰がこんなことをしたのか、私には分かりません」
――ですが。
「古い偽装です。少なくとも異能ではないことは確かです」
「では、何なのでしょうか」
「確かなことはなんとも。……ただ見覚えあるものです」
私は、彼の横顔を見た。
「知っているのですか!?」
「ええ……ただここで説明せずとも、進めば白瀬さんにも分かります」
「私が……ですか?」
「ええ。あなたの血が」
その言葉の意味を、私は問い返せなかった。
白川さんは、それ以上言わなかった。
ただ、その口ぶりには、何かを知っている者の沈黙があった。
彼は通路の奥を見た。
奥は暗い。けれど私の目には、岩肌の輪郭がはっきりと見えた。
地上にいた頃なら、何も見えなかったはずの暗さだった。
「私についてきてください」
白川さんが、通路に身体を滑り込ませた。
私も、続いた。




