深きにおいて血は呼ばれる④
違う……違う違う違う違う。
ここじゃない。
あの森と同じ匂い。居るだけで落ち着く、安心できるというのに。
私の声も、私の匂いも、私の存在ごと、すべてを受け入れてくれる森。
似ている、と思ったのに。
ここには誰もいない。
ここでは誰も■■でいられない。
還る場所だと思ったのに。
自分と同じ過去の人達の声が聞こえるはずだったのに。
聞こえない。感じない。応えてくれない。
私は、何だっただろう。
あの家は何?
誰かがいた。腕の中に、小さな体があった。どんな声だっただろうか。
あの小さな子の名前は?
顔がぼやける。
誰を抱いていたのか、思い出せない。
——障子に、筆を走らせている誰かの手。
——山道を、子を背負って歩いていく女の影。
——灯のない部屋で、寝顔を見つめる目。
これは誰の記憶?
誰の記憶か分からない。私の中にあるはずなのに、私のものではない。
誰か応えて。
誰かいないと自分はこれ以上……。
この場所で私は、私じゃ無くなる。
誰か。
誰か、呼んでほしい。
誰でもいい。
私の名を、知らなくていい。
ただこちらを見て、応えて欲しい。
応えるものさえあれば、私はもう一度、思い出せる気がする。
◆
上野ダンジョン。
私が生まれた頃にはすでにダンジョンは複数存在していて、共通しているのは第一階層から第三階層までは、いわゆる「観光ルート」と呼ばれるほど安全な区画だ。
整備された通路、舗装された床、要所要所に休憩スペース。光源もなぜかあり明るい。
とてもダンジョンとは思えないほど人工的で、最初は驚いたものだ。
第三階層までは息苦しさを感じる、圧がかかるように感じるといった、地上とは違う見えない何かの力がより働く。
そのため養成課程の初期はここでダンジョンの演習を行い、ダンジョンに順応させる訓練が行われる。
昔はダンジョンとはそういうものだ、と疑問に思わなかった。
今はダンジョンという環境に人を順応させる為に作られたような意図を感じる階層、そう感じている。
私は前を歩きながら、後ろを歩く白川さんの足音に意識を向けていた。
慣れているな、と思った。
書店員ではなく、こちらが生業ですと言われたほうが納得できるほどには。
通路で彼は一度も足を止めなかった。視界の悪い場所でも迷う様子がなかった。
まるで、何度も歩いた道のように。
中層――第七階層。
中層になると空気の質が明確に変わってくる。
息苦しさを感じる、圧がかかるように感じるといった見えない何かの力がより働く。
だからこそ、怖いのだ。
私はここに来ると、むしろ安心するのだから。
他の隊員には言ったことがないけれど、私にとって浅層よりも呼吸が楽だった。
白川さんの足音が、後ろから止まった。
振り返ると、彼は壁の苔に手を伸ばして、軽く触れていた。
「変わっていませんね」
ぽつり、とそう言う。
「以前入ったことがあるんですか」
「ええ」
「……お仕事で?」
「そうですね……昔の話です」
それ以上、白川さんは言わなかった。
苔から手を離して、また歩き始めた。
——昔。
どれくらい昔なんだろうか。
ダンジョンが突然現れてから三十年ほど。少なくともその間に何度かここに入った経験があることは確実だ。
けれどいつ、入ったのだろうか。
若くは見える、けれど物腰が、所作が、若さを否定する。
昔のダンジョン黎明期は色々あった、と教官から散々聞かされた。
その頃は様々な噂話や眉唾な話もよく出回っていたらしい。
印象に残っていた話があった気もしたが、あの話はなんだっただろうか。
◆
第九階層に入るとダンジョンの景観は変わる。
通路の照明は青苔だけ。床の舗装が途切れ、湿った土と岩がむき出しになる。天井からは絶え間なく水が滴り、足元には浅い水たまりが点々と続く。
壁際には、田んぼの畔のように岩棚がいくつも連なっていた。古い農村の記憶を吸い上げて形成された層、と管理局では分類されている。
最初の遭遇があったのは入って間もなくだった。
通路の先で、空気がわずかに歪んだ。
――来る。
現れたのは、管理局のデータベースに『泥田坊』の銘で登録されている中型の妖魔だ。
ずるりと音を立てて蠢く、湿った泥の塊。それが二体。
顔らしき部分の真ん中には、黒く濁った穴――醜悪な『単眼』がぽっかりと穿たれていた。
「白川さん」
私は声を落とした。
「泥田坊、ですか」
背後で、白川さんが言った。
先ほどと何も変わらない穏やかな声だった。
「ええ。二体です」
「中央と左の壁際……ですか」
「……はい」
私は、少しだけ振り返った。
白川さんは私の少し後ろで、いつもと同じ顔をしていた。手帳を懐にしまうところだった。
「お気になさらず、存分にやっていただいて大丈夫です」
白川さんはすでに、私の邪魔にならない完璧な位置へと音もなく身を引いていた。
泥田坊。
泥の身体は刃を通しにくい。核となる急所を狙う必要がある。視界は片目で歪んでいて、死角が多い。
熱に弱く、熱源のある方向に過剰に反応してしまう性質がある。この性質を利用すればソロでも問題なく対処できる相手だ。
息を整える。
短剣を抜き逆手に持ち直す。
左の指先に意識を落とし、熱が指の腹に集まるように集中する。
灯る。青白い小さな火。
――狐火。
過去の陰陽に通ずる家筋には大きな火球を放つ人もいたそうだが、現状の私にはこれが精一杯。
けれど囮としては十分に使える。
相手に向かって踏み込む。
通路の中央——一体目。
泥の表面が、私の足音を捉えて鈍く波打つ。片目の濁った穴がこちらに、向いた。
――今。
火球を放つ。放たれた青い火球が二体の脇を抜け、死角側の壁際へと駆け抜けた。
歪な単眼を持つ泥の妖魔は、本能的な嫌悪感から一斉に火球へと視線を奪われた。
死角に回り込む。
吸い込まれるように突き出された刃が、泥の装甲を容易く割って、急所である核に届く感触、確かな抵抗。
「ギ、――」
崩れる。
形を保てなくなった泥が、湿った音を立てて地面に落ちる。
泥水を浴びるよりも早く、私は地を滑りいまだ火球に気を取られている二体目の背後へ回っていた。
無防備な急所へ短剣の切っ先を深く突き立て、一気に引き裂く。
「ガ、ア……ッ」
息を深く吐く。
「白川さん、もう大丈夫です」
「お見事でした」
「いえ……」
「お体の調子が良さそうで何よりです」
「……そう、ですか」
「ええ、安心して進めそうです」
彼がまた歩き始める。
私は短剣を布で拭きながら、その背中を追った。
第九階層を照らす、青白い苔の光。
床の水たまりには反射した彼女の姿が映し出される。
――そこには不自然にゆらりと伸びる、一本の『尾』のような輪郭が映っていた。




