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キツネの恩返し  作者: 7氏。


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深きにおいて血は呼ばれる⑦

 薄明かりの中へ、それは、姿を現した。

 白い狐だった。

 大きい。私の背丈ほどもある巨躯が、四つ足で、苔の上に立っていた。

 尾が、九つに分かれている。

 けれどその尾は、私が水面に見てきたあの優美な影とは、似ても似つかなかった。

 ただ、長い歳月をこの狂おしい沈黙の中で過ごしてきたしるしのように、美しくも、悍ましかった。

 毛は荒れ、ところどころ抜け落ち、泥のような何かがこびりついている。九つに分かれているはずの尾は、もつれ合って、どれが一本なのかも分からなくなっていた。

 目が、赤い。

 濁った赤。光を映さない、内側から濁った血のような色。

 その目には、何も宿っていなかった。怒りでも、悲しみでも、警戒でもない。ただ、空っぽだった。さっき私が感じた「底の抜けた器」が、そのまま目になって、こちらを見ていた。


 ――お母さん?


 なぜ、そう思ったのか分からない。

 顔も覚えていない。声も忘れた。残っているのは、ただ手の温もりだけ。

 なのに、血が、知っていた。

 皮膚の下で静まっていた一滴ずつが、いっせいに、その白い獣へ向かって、傾いていく。会いたいと願っていたもの。応えなければと思ったもの。私を存在ごと手繰り寄せていたもの。

 それが、そこにいた。


「……お母、さん」


 声が、漏れた。

 その瞬間、狐の動きが、止まった。

 濁った赤い目が、ほんのわずかに、揺れた気がした。空っぽの底に、何かが、一瞬だけ浮かび上がろうとした――そんな揺らぎ。

 私は、一歩、前に出た。

 短剣を握っていた手が、いつのまにか、ゆるんでいた。掌の痛みも、忘れていた。ただ、近づきたかった。あの白い毛並みに、触れたかった。荒れて、もつれて、汚れたその身体を、抱きしめたかった。


「お母さん。私……」


 もう一歩。

 狐の喉の奥から、低い音が、漏れた。

 唸り声――ではなかった。もっと、引き攣れた、軋むような音。獣が出す音ではなかった。何かを思い出そうとして、思い出せない者が、喉の奥で立てる音だった。

 私には、分かった。

 この人は、私を、見ていない。

 私を、誰だか分かっていない。

 それでも、何かを、必死に、手繰り寄せようとしている。届かない場所にある何かを。


「お母さん、私だよ。紗夜だよ」


 名を、口にした。

 白瀬紗夜。さっきまで、森に呑まれて薄れかけていた、私の名前。

 その名を口にした瞬間、奇妙なことが起きた。

 森に溶けかけていた私の輪郭が、ほんの少しだけ、こちら側へ戻ってきた。名前というものが、まだ私を繋ぎ止めていた。

 私には、名前がある。

 けれど――目の前のこの人には、それが、なかった。

 名前を、失くした者。

 二十年以上、誰にも呼ばれず、誰にも応えられず、応答のない空気の中に、ただひとり、立ち続けた者。

 自分が誰なのかも、もう、分からなくなった者。


「あ……」


 私の喉から、嗚咽のような声が、漏れた。

 その時だった。

 狐の喉の音が、変わった。

 軋むような音が、急速に高くなり――裂けるような咆哮に変わった。

 濁った赤い目が、ぎらりと、見開かれる。

 空っぽだった底から、せり上がってきたのは、理性ではなかった。

 飢えだった。

 応えてくれるものへの、応えてほしいという、底のない飢え。それが、出口を失って、暴力に変わった。

 白い巨躯が、地を蹴った。


 ――速い。


 目で追えないほどの速さで、その牙が、私の喉元へ――。


「っ」


 身体が、勝手に動いた。

 短剣を、構える。逆手に。五年間、身体に叩き込んだ動き。

 けれど、構えた切っ先は、止まった。

 向けられなかった。

 この人に、刃を、向けられなかった。

 会いに来たのだ。殺しに来たのではない。父に、会わせるために。

 最期に、一目だけでも――。

 短剣を握ったまま、私は、動けなかった。

 牙が、迫る。

 白い顎が、大きく開かれる。濁った息が、腐臭のように、顔にかかった。


 ――ああ。


 還るというのは、こういうことか。

 遠い、どこか冷えた場所で、そう思った。

 牙が、肩に――触れる、寸前。

 影が、割って入った。


 ――白川さん?


 いつ動いたのか、見えなかった。さっきまで私の半歩前にいたはずの彼が、気づいた時には、私と狐の間に、立っていた。

 彼は、人の姿のままだった。

 ロングコートの裾がわずかに揺れている。彼は、片腕を無造作に上げた。ただ、それだけの動作だった。

 白い巨躯が、見えない壁に弾かれたように横へ、撥ね飛ばされた。

 巨木の幹に、激しく叩きつけられる。地面を、揺るがすほどの衝撃。

 なのに――葉ずれの音は、しなかった。森は、静止したまま、その暴力を無音で呑み込んだ。


「白瀬さん」


 白川さんの声は、これまでと、何ひとつ変わらなかった。

 乱れていなかった。息ひとつ、上がっていなかった。

 人が、あんな動きをして、息を乱さないはずがない。


「私が、抑えます」


 彼は、撥ね飛ばした狐から、目を逸らさないまま、言った。


「あなたは――水に、触れてください」

「水……?」


 私の声は、まだ震えていた。


「この森の、奥にある池です」


 白川さんは、ほんのわずかに、顎で示した。

 木立の向こう。薄明かりの届かない暗がりの、さらに奥。

 そこに、かすかに、水の匂いがした。さっきから感じていた、あの微かな水の匂いの、源。


「あの方が――お母様が、あなたに遺したものが、そこにあるはずです」


 遺したもの。

 その言葉の意味が、分からなかった。

 幹に叩きつけられた狐が、身を起こす。荒い息。濁った赤い目が、今度は白川さんへと向けられた。彼を、敵と認識したのだ。

 低い、軋む唸り。


「行ってください」


 白川さんは、繰り返した。


「ここは、私が」

「でも――あなた、ひとりでなんて……」

「白瀬さん」


 彼が、こちらを振り返った。

 ほんの一瞬だけ。

 細い目の奥に、何かがあった。古書店で会った時、私が読み取れなかったもの。

 それは――哀しみ?

 ただの哀しみではない、と思った。

 何十年も、何百年もかけて澱んだ、静かな哀しみ。


「私は、大丈夫です」


 彼は、静かに言った。


「ずっと前から、こうなるかもと――予感していましたから」


 その言葉の意味を、問い返す暇は、なかった。

 狐が、再び、地を蹴った。

 白川さんが、それへ向き直る。


「さぁ、早く!」


 私は、急いで走り出す。

 森の奥へ。水の匂いの方へ。

 背後で、衝突の気配。けれど、音は、しなかった。この森は、何ひとつ、音を響かせない。叩きつけられる衝撃も、撥ね返される暴力も、すべてを、無音の底へ、呑み込んでいく。

 走りながら、私は、振り返らなかった。

 振り返れば、戻れなくなる。

 白い獣に。応えたいという、底のない飢えに。

 唇に歯を立てる。痛い。その痛みが、まだ大丈夫だと思わせてくれる。

 水の匂いが、濃くなる。

 木立が、ふいに、途切れた。

 開けた場所に、出た。


 そこに――池が、あった。


 光源がないはずなのに、水面だけが、ぼんやりと、光っていた。

 円い、小さな池。

 縁には苔むした石が並び、水は、鏡のように、静まり返っている。

 見覚えが、あった。

 幼い頃、あの夕方、私が自分の影の尾を見た、公園の池。何度も夢に見た、あの水辺に――この池は、あまりにも、似ていた。

 ――違う。

 似ているんじゃない。

 この池だったのだ。

 私の血の、いちばん深いところに沈んでいた、あの記憶の池そのものだった。

 私はふらふらと、水際まで歩いた。

 膝をつく。

 水面に、私が映っていた。

 白銀の毛に覆われた手の甲。細く、尖った指先。そして、背後に――瞬きしても消えない、長い、尾。

 水面に映る私は――もう、人の顔ではなかった。

 背後で、また、無音の衝撃。白川さんの気配と、母の気配が、ぶつかり、もつれ合っている。長くは、保たないだろう。母の身体は、もう、限界に近いように見えた。

 遺したもの。

 白川さんは、そう言った。

 お母さんが、私に、遺したものが、ここにある、と。

 私は、震える手を、水面へ伸ばした。

 白銀の毛に覆われた、もう私のものではないような手を。

 指先が――冷たい鏡のような水面に、触れた。

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